淮南王の子らの封侯と賈誼の諫め
- 夏、淮南王の子四人を封じ、安を阜陵侯、勃を安陽侯、賜を周陽侯、良を東城侯とした。
- 梁王の太傅である賈誼は、上がまた彼らを王にするだろうと察して諫めた。「淮南王は悖逆無道でしたが、陛下は幸いにも赦して移され、病んで死にました。天下の誰が、王は死ぬべくして死んだと思わないでしょう。今また罪人の子を尊べば、天下の謗りを負うだけです。分割して四子を王にしても、四子は心を一つにします。これでは広い都のうちに白公や伍子胥のような者が現れなければ、必ず堂の柱の間に専諸や荊軻が起こるでしょう」。
賈誼の諸侯削減論
- 賈誼はまた上書して前代の事を論じた。
- 大臣で強い者ほど先に反する。天下の治安を望むなら、諸侯を多く建ててその力を少なくするにまさるものはない。力が少なければ制しやすく、国が小さければ邪心が起こらない。海内の勢いを、身が腕を使い腕が指を使うようにすれば従わぬものはない。制に従えば天下は安らかである。
- 地を割いて何か国と定め、諸侯王の子孫にそれぞれ順に先祖の分地を授ける。土地が広くて子孫の少ない国は、国として建てておいて空けたままにし、子孫が生まれたら順に君とする。私するところがないことを示すためである。
- 今、進言する者はみな天下はすでに治まったと言うが、臣ひとりはそう思わない。積み薪の下に火を置き、その上に寝ていて、火がまだ燃えつかないから安全だと言うようなもの。今の勢いはこれと何が違うのか。
- 今、大国の王は幼弱で、漢から遣わした傅や相が政務を握っている。数年後には諸侯王はみな元服して血気盛んになり、漢の傅や相は病と称して退き、丞や尉以下に自分の手の者を並べれば、乱は起こる。射猟の楽しみと安危の分かれ目と、どちらが急なのか。
- 天子の位をもって今の時に乗ってさえ治めがたい。もし陛下が斉の桓公の立場におられたら、九たび諸侯を集めて天下を一匡できたでしょうか。もし韓信・彭越・黥布ら数人が生きていたら、そのとき陛下は即位して自ら安らかでいられたでしょうか。
- 今、漢のために治める者は、労苦することなく鐘鼓の楽しみも欠かさぬまま、諸侯を軌道に乗せ天下を順調に治められる。宗廟に仕えるのは至孝、群生を育てるのは至仁、法を垂れて業を立てるのは至明である。当代を大いに治め、後世に聖徳を誦えさせ、顧成の廟を太宗と称して太祖に配し、漢とともに窮まりないものとする。陛下の明達をもって、治体を少しでも知る者を下風に置けば、これを致すのは難しくない。陛下は誰に憚って久しくこれを行われないのか。
- 今の天下の勢いはさかさ吊りである。天子は天下の首、蛮夷は天下の足。夷狄に令を出すのは主上の権、天下が貢を供するのは臣下の礼。足が反って上にあり、首が下にある。このさかさ吊りを解ける者がなく、政に当たる者として恥じ入るばかりである。陛下は試みに臣を属国の官とされてはいかがか。必ず単于の頸を繋いでその命を制してみせよう。猛敵を狩らずに田の猪を狩るのは、臣はひそかに陛下のために取らない。
- また今、下僕を売る者がこれに文繡を着せ絹の履をはかせ、富人は宴に綺や縠で塀や屋根を覆う。これらは天子や后の服で、廟の祭にこそ用いて宴には用いないものだ。今、庶人の家の壁が帝の服をまとい、倡優や下賤の者が后の飾りをつける。天下が危うくならぬはずがない。
賈誼の太子教育論
- 三代が天下を長く保ち、秦の享年が短かったわけは知れている。古の王者は太子が生まれると同時に教育が行われた。成王が襁褓の中にあるとき、召公が太保、周公が太傅、太公が太師となった。太保はその身体を保ち、太傅はその徳義を教え、太師は教訓を導いた。さらに三少を置き、いずれも上大夫で、少保・少傅・少師といい、太子と起居を共にした。
- 邪な人を遠ざけて邪な行いを見せず、みな天下の端正で孝悌・博聞・道術ある者を選んで守り助け、太子と共に住み共に出入りさせた。だから生まれてから正しい事を見、正しい言を聞き、正しい道を行い、左右前後がみな正しい人であった。孔子は「幼くして成るは天性のごとく、習慣は自然のごとし」と言った。
- 太子が少し長ずれば太学に入り、師について道を問う。元服して成人し傅や保の厳しさを離れれば、過ちを記す史官、膳を減らす宰、誹謗の木、諫めの鼓があった。春の朝には日を拝し、秋の暮には月を拝するのは敬を明らかにするため。三老・五更を養うのは孝悌を明らかにするため。歩みを和鸞の鈴に合わせ、歩くには采薺、走るには大夏の調べに合わせるのは、度があることを明らかにするため。禽獣についても、生きているのを見れば死ぬのに忍びず、その声を聞けばその肉を食わない。だから庖厨を遠ざける。恩を長じ、仁があることを明らかにするためである。三代が長久であったのは、太子を輔翼するのに必ずこの備えがあったからだ。
- 秦はそうでなかった。礼義や辞譲を棄て、訴えと刑罰を上とし、趙高を胡亥の傅として獄のことを教えた。習ったのは人を斬り鼻を削ぐか、三族を皆殺しにすることばかり。だから胡亥は即位した翌日に人を射殺し、忠告する者を誹謗と呼び、深く計る者を妖言と呼び、人を殺すのを草を刈るように見た。胡亥の性が悪かっただけだろうか。導く者のやり方が道理にかなっていなかったのだ。
- 人主が慎むべきは、何を取り何を捨てるかにある。礼義で民を治めれば礼義が積み、刑罰で民を治めれば刑罰が積む。礼義が積めば民は和し親しみ、刑罰が積めば民は怨み背く。教化が行われれば民は安らかに楽しみ、法令が行われれば民は哀しむ。哀楽の感は禍福の応報である。
- 古の聖王は等級を定めて天子をその上に加えた。だからその尊さには及びようがない。廉恥と節倹をもって君子を治め、大臣に罪があれば死を賜って辱めることはなかった。古は大臣に大きな咎めがあれば、白冠に氂の纓をつけ、水を張った盤に剣を加え、請室に出向いて上に罪を請うた。縛って引き立てることはしなかった。大罪があれば北を向いて跪き自ら裁いた。上は人にへし折らせて刑することをせず、「あなたご自身に過ちがあったのだ。わしはあなたを礼をもって遇した」と言った。上が廉恥を立てて臣を遇すれば、臣下は節操を励まして上に報いる。
- 上はその言をよしとし、これより大臣に罪があっても刑獄に及ばなくなった。
諸侯配置の議と梁王
- 賈誼はまた、代は辺境で匈奴に近く、梁と淮陽はいずれも小さくて防ぐに足りない、斉・趙・淮陽が呉・楚を防げれば山東の憂いはなく万世の利である、と考えた。「昔、秦は心を苦しめ力を労して六国を除きました。今、陛下は手を垂れたまま六国の禍を成そうとされる。智とは言えません。ご自身の代は事なくとも、万年の後に弱い子に伝えるのでは、仁愛とも言えません」。
- 後に淮陽王の武を移して梁王とし、四十余城を領させた。
- 長い星が東方に現れた。