趙王友の幽死
- 冬十二月、匈奴が狄道を侵した。
- 春正月、趙王の友が邸で死んだ。呂氏の女が趙王の后であったが、后は妬んで王を高后に讒言し、「呂氏がどうして王になれよう、太后の百年の後には自分が必ず彼らを撃つ、と王が申しました」と告げた。高后は怒り、王が邸に到着すると衛士に囲ませて食を与えず、ついに幽閉のうちに死なせ、庶民の礼で長安に葬り、諡を幽王とした。後に梁王の恢を移して趙王とした。
日食と天文の説
- 己丑の晦、皆既日食があった。営室の九度にあたり、宮室の中に相当する。高后はこれを嫌い、「これは私のことだ」と言った。
- 星の伝に、日は徳、月は刑であり、日食には徳を修め、月食には刑を修めれば災異は消える、とある。『詩』に「日月が凶を告げ、その運行に従わない。四方の国に政なく、なんぞ良臣を用いぬ」とあるのは、人君が政を失えば日月が運行を失うことを言う。
- 中道の南を黄道といい、南は東井に至り、北は牽牛に至り、東は角に至り、西は婁に至る。夏至には日が東井に至って極を去ること近く、影が短いので、八尺の表を立てると影は一尺五寸八分。冬至には日が牽牛に至って極を去ること遠く、影が長いので、八尺の表で一丈三尺一寸四分。春分には西の婁に至り、秋分には東の角に至って、いずれも極を去ること中ほどで、八尺の表で影は七尺三寸六分となる。
- 日は陽である。陽が働けば日は進んで北に寄り、昼は伸びて長くなる。陽が勝つので温暖となる。陰が働けば日は退いて南に寄り、昼は短くなる。陰が勝つので寒冷となる。『洪範』に「日月の運行に冬あり夏あり、寒あり暑あり」とあるのはこのことである。
- 南北の度を失って、影が進んで長くなれば寒、退いて短くなれば暑となる。人君が性急なら日影は進んで速く、ゆるやかなら日影は退いて緩やかになる。ゆえに「急なれば常に寒く、ゆるければ常に暑い」という。一説に、影が長ければ長雨、短ければ旱、奢れば扶となる。扶とは邪臣が進んで正直な者が疎んじられ、君子が足りず姦人が余ることをいう。
- 月には九つの道がある。黒道二つは黄道の北に出、赤道二つは黄道の南に出、白道二つは黄道の西に出、青道二つは黄道の東に出る。立春・春分は青道に従い、立夏・夏至は赤道、立秋・秋分は白道、立冬・冬至は黒道に従う。ただし房宿で一つに定まって中道に従う。
- 月が道を外れて妄りに行き、陽道に出れば旱と風、陰道に出れば陰雨となる。箕と軫の星は風を、畢の星は雨を司る。ゆえに月が度を失って箕・軫に入れば風が多く、畢に入れば雨が多い。『洪範』に「星に風を好むものあり、雨を好むものあり。月が星に従えば風雨となる」とあり、『詩』に「月が畢に近づけば大雨となる」とあるのは、雨の多いことを言う。
- 災異が起こる分野の国は次のとおり。角・亢は韓と鄭、房・心は宋、尾・箕は燕、斗・牛は呉、牽牛・須女は越、虚・危は斉、営室・東璧は衛、奎・婁は魯、胃・昴・畢は趙、觜・参は魏、東井・鬼は秦、柳・星・張は周、翼・軫は楚。
史論(荀恱曰)
- 日月星の三光の精気の変異はみな陰陽の精である。その本は地にあって上は天に発する。政治がこちらで失われれば変異があちらに現れる。影が形に応じ、響きが声に応じるようなものだ。だから明王はこれを見て悟り、身を戒めて自らを正し、咎を省みて過ちを謝る。そうすれば禍は除かれ福が生じる。自然の応報である。『詩』に「上天のはたらきは声もなく匂いもない」とあり、その詳細は聞き知りにくい。まことにそのとおりであろう。
- 災いと吉兆の報いは、応ずることもあれば応じないこともある。『洪範』の咎徴を挙げれば堯・湯にも水旱の災があった。災を消し異を復すと言えば、周の宣王は雲漢の詩に「我に徳なきか」と嘆いた。『易』の「善を積めば慶びあり」と言えば、顔回・冉伯牛の夭折と病がある。善悪の効果、事物の類は変化が千差万別で一律にはできない。だから見聞きする者は惑うのである。
- もし自然の数を受け、性命の理を測り、経典に照らし、古今に比べ、三つの勢いに乗じてその精妙に通じ、両端をつかんでその中を御し、参伍に変じ、その筋道を組み合わせれば、おおよその見当はつけられる。
- 事物の性には、自然に成るもの、人の手を待って成るもの、人の手を欠けば成らぬもの、人の手を加えても終生成らぬものがある。これを三勢という。あらゆる物がみなそうである。
- 小をもって大を知り、身近に例を取れば病がそうだ。治さずとも自ら癒えるもの、治せば癒えるもの、治さねば癒えぬもの、治しても終生癒えぬものがある。同じ類ではないか。
- 昔、虢の太子が死んだとき、扁鵲が治療して生き返らせた。扁鵲は「私は死者を生き返らせられるのではない。生きられる者を生かせるだけだ」と言った。とはいえ太子も扁鵲に出会わなければ生きなかった。膏肓に入った病なら名医の医和でも治せない。
- 孔子は「死生に節あり」と言い、また「その死を得ず」と言い、また「幸いにして免る」と言った。死生に節ありは正しい道理、その死を得ずは死ぬべきでないのに死ぬこと、幸いにして免るは死ぬべきなのに死なぬことである。これらはみな性命の三勢の理である。
- これを教化に及ぼしても同じことだ。教えずして自ら成る者、教えを待って成る者、教化がなければ成らぬ者、教化を加えても終生成らぬ者がある。ゆえに上智と下愚は移らず、中位の人は上にも下にも動きうる。
- さらに天道に及ぼしても同じで、災祥の応報に誤りはない。堯・湯の水旱は天数、『洪範』の咎徴は人事、魯の僖公の時雨は救いうる応、周の宣王の旱は変え難い勢い、顔回・冉伯牛の凶は性命の本である。天が回り日が転じ大いなる運行が推移するなかで、日々禍福に遭うこともまたその中にある。
- 今の人は、移らぬものを見て「人事では何も動かせぬ」と言い、移せるものを見て「天命などない」と言い、天と人が遠く隔たるのを見て「人事は互いに関わらぬ」と言い、神気の流通を知る者は「人は共に事をなし業を同じくする」と言う。いずれも一端だけを守って始めと終わりを究めていない。
- 『易』に「天の道あり、地の道あり、人の道あり」とあるのは異なることを言い、「三才を兼ねてこれを二つにする」とあるのは同じことを言う。ゆえに天と人の道には同じところも異なるところもある。異なるゆえんに拠って同じゆえんを問えば成り立ち、同じゆえんを守って異なるゆえんを求めれば行き詰まる。孔子は「智を好んで学を好まねば、その弊は放埒になる」と言った。
- 末世の俗は世の紛乱と事変の食い違いを見て異説が横行し、守るべきところを失う。そこで放蕩で道に背く議論が生まれ、神を誣い聖を否定する説が起こる。
- 上智と下愚は移らぬとはいえ、教えによって移る者は多い。大いなる数の極まりは変わらぬとはいえ、人事によって変わることもまた多い。
- 病には、治しても癒えぬこと、癒えても平復せぬこと、平復しても元に戻らぬことがある。教化にも、教えても行われぬこと、行われても成らぬこと、成っても敗れることがある。気の類にも、動いても応じないこと、応じても終わらぬこと、終わっても変ずることがある。遅速深浅の変化がその中に入り混じる。だからそろわず、均一にはできない。天地・人・物の理はみなこれと同じである。
- 三つの勢いの数は深くて知り尽くせない。ゆえに君子は心力を尽くしたうえで天命に任せる。『易』に「理を窮め性を尽くして命に至る」とあるのは、このことであろう。
呂氏の権勢と劉沢の封王
- 呂産を相国、呂禄を上将軍とした。
- 営陵侯の劉沢を琅邪王に立てた。沢は高帝の一族の兄弟で、もと将軍として陳狶を撃った功で封じられていた。
- 斉の人の田生がかつて遊学して資に窮し劉沢に頼ると、沢は三百金を田生に贈った。田生は太后の寵臣である中謁者の張釈卿に説いた。「太后は諸呂を王にしたいが、自分から言い出しては大臣が承知しないのを恐れている。今、釈卿どのは太后に最も寵愛されている。大臣にほのめかして太后の耳に届くようにすれば、太后は必ず喜ぶ。呂氏が王になれば、万戸侯もあなたのものだ」。釈卿は従い、諸呂は王となった。
- 高后は釈卿に金千斤を賜い、釈卿はその半分を田生に贈ったが、田生は受けず、さらにこう説いた。「呂氏が王になったことに大臣はまだ服していない。今、劉沢は劉氏一族のうちで年長であり大臣に信頼されているのに、用いられずいつも不満を抱いている。太后に十余県を割いて彼を王にさせれば、彼は喜んで去り、諸呂の王位はいっそう固まる」。こうして劉沢は琅邪王に封じられた。
- 夏五月、昭霊夫人を昭霊后、武哀侯を武哀王、高帝の姉である宣成夫人を昭哀后と尊んだ。
趙王恢の自殺と朱虚侯章
- 六月、趙王の恢が自殺した。呂産の娘が趙王の后で、後宮もみな呂氏の女であった。后が権を握って王は思うようにできなかった。王の愛姫を王后が鴆殺し、王は怒り悲しんで自殺した。呂后は、婦人の言のせいで自殺し宗廟に仕える礼を思わなかったとして、その後嗣を廃した。
- 朱虚侯の章は呂氏の専権に怒っていた。高后の宴に侍り、章に酒令を行わせることになった。章は「臣は武将の家柄です。軍法で酒を進めさせてください」と自ら願い出て、后は許した。酒たけなわのころ章は進み出て舞い、「太后のために田を耕す歌を作りましょう」と言った。皇太后が笑って「おまえが農事を知っているのか。試しに言ってみよ」と言うと、章は「深く耕して密に植え、苗を立てるには疎らにしたい。その仲間でないものは鋤いて取り除く」と歌った。高后は黙り込んだ。
- しばらくして呂氏の一人が酒席を抜け出したので、章は追いかけて斬った。太后と左右は大いに驚いたが、先に軍法を許していたので罪に問えず、そのまま宴を罷めた。これ以来、諸呂は章を憚り、大臣はみな朱虚侯兄弟を頼りとして力を得た。
陳平・周勃の提携
- このころ大臣は諸呂の乱を憂えていた。陸賈が陳平と周勃に「天下が安らかなときは相に目が集まり、危ういときは将に目が集まる。将と相が和すれば権は分かれない。今、社稷の計はお二人の掌中にある。なぜ太尉周勃と交わらぬのか」と説いた。千金を用いて太尉と好誼を結び、周勃もまた同様にして、ついに力を合わせ心を一つにした。陳平は陸賈に金五百斤と僮僕百人を贈った。
- 八月、燕王の建が薨じた。
- 南越が長沙を侵し、隆慮侯の周竈に兵を率いて撃たせた。