前漢紀前漢高祖皇帝紀 六年 前201年

韓信の捕縛

  • 冬、天下の県邑の徭役を免ずるよう命じた。
  • ある者が楚王信の謀反を告げた。上が左右に問うと、皆「兵を発して撃つべし」と言った。陳平は「陛下の用兵の精妙さは韓信と比べてどうか」と問い、上は「及ばない」と答えた。「陛下の将で信に敵する者はいるか」と問うと、上は「誰も及ばない」と答えた。平は「私はひそかに陛下のために危ぶむ」と言い、策を述べた。信はまだ謀反を告げた者があると知らない。古の天子は巡狩して諸侯を会した。陛下は偽って雲夢に遊ぶと称し、諸侯を陳に会せられよ。信は必ず郊まで迎えに出る。そこで捕らえればよく、一人の力士で足りる。
  • 上は従い、ついに信を捕らえた。捕らえてみると謀反の証拠はなく、信を退けて淮陰侯とした。
  • 田肯が上に祝って言った。甚だよろしい。陛下は韓信を得て、しかも関中に王たられる。斉は東に瑯邪・即墨の豊かさ、南に泰山の固め、西に濁河の阻み、北に渤海の利があり、地は方二千里、甲を帯びる者百万。これもまた東の秦である。親しい子弟でなければ斉に王とすべきではない。上は「善し」と言い、肯に金五百斤を賜った。

一族と功臣の分封

  • 春正月丙午、劉賈を荊王に立て五十三県に王とした。
  • 高帝の兄弟は四人。長兄は伯といって早く死んだので追号して武哀侯とし、その子の信を刮羹侯に封じた。初め、上が微賎だった頃、たびたび客を連れて兄嫁の家で食事をした。嫁はうんざりして食べさせまいと、羹が尽きたふりをして釜をこすった。上はそれを聞いて憎んだので、その子を刮羹侯と号したのである。
  • 次兄は喜、字は仲といい、仲を代王に立てた。弟は交、字は游といい、読書を好み才芸があり、上に従って征伐し功があったので楚王に立てた。長庶子の肥を斉王として七十県に王とし、曹参を斉の相国とした。韓王信を太原に移し晉陽に都させた。
  • 蕭何を鄼侯に封じた。父母兄弟で侯に封ぜられ食邑を得た者は十余人。蕭何が一族を挙げて征伐に従ったからである。曹参を平陽侯、張良を留侯、陳平を戸牖侯(後に曲逆侯に移す)、周勃を絳侯、樊噲を舞陽侯、酈商を武成侯とした。酈食其の子の疥は征伐に従い、父の功ゆえに高梁侯に封ぜられた。夏侯嬰を汝陰侯、灌嬰を潁陽侯、周昌を汾陰侯とした。大功臣で封ぜられた者は二十余人。その他は功の査定が済まず封を行えなかった。
  • 上が南宮の複道の上から、群臣がしきりに集まって語り合うのを見て「あれは何を言っているのか」と問うた。張良は「陛下が封じられたのはみな蕭何・曹参ら旧知の人々で、誅されたのはみな平生の仇讐です。この者どもは封を得られないことを恐れ、また過失によって誅されることを恐れて、互いに謀反を謀っているのです」と答えた。上は憂えて「どうすればよいか」と問うた。良は「急ぎ雍歯を封じなさい。雍歯は陛下が最も憎む相手で、群臣もみな知っています」と答えた。雍歯は後に征伐に従って功があった。上はすぐ雍歯を封じ、群臣は喜んで「雍歯すら封ぜられた。我らに憂いはない」と言った。
  • そこで有司を急がせて功を定め封を行った。王陵を定国侯とした。陵は初め県の豪族で、上は兄として仕えたが、上に従うのが遅かったので封は後になった。封ぜられた者は全部で百四十三人。
  • このとき民は散り失せ、数えられる者はわずか十分の二三であった。そのため大侯でも一万戸を超えず、小さい者は五六百戸に過ぎなかった。
  • 封爵の日に誓って「黄河が帯のようになり泰山が砥石のようになっても、国は永く存し、子孫に及ぶ」と言った。さらに丹書の信を重ね、白馬の盟を重ね、八十侯の位次を定めた。
  • 陳平が初めて封ぜられたとき、平は辞退して「これは私の功ではありません」と言った。上が「私は先生の計を用いて戦に勝ち敵に克った。功でなくて何か」と言うと、「魏無知がいなければどうして推挙されましょう」と答えた。上は「あなたは本を忘れないと言える」と言い、無知にも改めて賞を与えた。
  • 張良は日頃から病がちで、病と称して言った。私の家は五代にわたって韓の相を務めた。韓が亡ぶと万金の資を惜しまず韓のために強秦へ報復し、天下は震動した。今、三寸の舌で王者の師となり、万戸に封ぜられ位は列侯となった。これは布衣として極みであり、私には十分である。人間の事を棄てて赤松子に従って遊びたい。そこで道を学んで穀を食べず、ついに仕えなかった。良は容貌が美しく婦人女子のようであった。
  • 初め、季布の異父弟の丁公が楚の将として上を追い、上は追い詰められて振り返り「両賢が互いに窮めあうことがあろうか」と言った。丁公は兵を引いて還った。天下が定まると、上は丁公を斬って軍に示し、「今より後、人の臣たる者は丁公に倣うな」と言った。

蕭何を第一とする

  • 蕭何の功を最高とした。群臣はみな「我らは甲を着け兵を執り、多い者は百余戦し、城を攻め地を略して各々等差がある。蕭何は汗馬の労もなく、ただ文書を持って論議しただけだ。今、我らの上に居るのはなぜか」と言った。上は「諸君は狩りを知っているか。獣を追い出して指し示すのは人であり、追って獣を捕らえるのは犬である。諸君はただ走って獣を得ただけで、功のある犬だ。蕭何は追い出して指し示した、功のある人である」と答えた。
  • 位次を奏上する段になると、群臣はみな「曹参が第一であるべきだ」と言った。謁者で関内侯の鄂千秋が進み出て言った。曹参には野戦の功があるが、それは一時のことにすぎない。陛下は楚と五年対峙し、軍を失い衆を亡くして身一つで逃れたことが数度ある。蕭何はそのたび関中から軍を遣ってその穴を埋めた。陛下の詔命によらずして数万の衆が、陛下の窮乏に間に合ったことが何度もある。楚漢が滎陽で数年対峙し軍に見える糧がなかったとき、蕭何は常に漕運で食を給した。陛下が山東を失っても蕭何は常に関中を保って陛下を待った。これは万世の功である。どうして一時の功を万世の功の上に置けようか。
  • そこで蕭何を第一とし、剣を帯びて殿に上り、朝に入って小走りしなくてよいこととした。上は「私は賢を進める者は上賞を受けると聞く。蕭何の功は高いが、鄂君を得て初めて明らかになった」と言い、鄂千秋がもともと食んでいた関内侯の邑二千戸に加えて安平侯に封じた。
  • 二千石の吏で蜀漢に従って入り三秦を定めた者は、みな世々その家の徭役を免じた。
  • 上が酒宴で衆人の前に随何を辱め「天下を治めるのに腐儒など何の役に立つか」と言った。何は「陛下は歩卒五万、騎五千を出して淮南を取れましたか」と問い、上が「できない」と答えると、「私は二十人を使って淮南王を陛下の思い通りにさせました。これは私の功が歩卒五万・騎五千に勝るということです」と言った。上は「私は今まさに子の功を考えているところだ」と言い、何を護軍中尉とした。

太上皇の尊号

  • 上は五日に一度太公に朝した。太公の家令が太公に説いた。天に二つの日はなく、地に二人の王はない。皇帝は子とはいえ人主である。太公は父とはいえ人臣である。どうして人主に人臣を朝させられようか。こうしては威重が保てない。
  • 後に上が太公に朝すると、太公は箒を抱えて門で迎え、後ずさりして拝もうとした。上は大いに驚いて太公を扶けた。太公は「帝は人主である。どうして私のために天下の法を乱すのか」と言った。上は家令の言をよしとし、黄金五百斤を賜った。

史論(荀恱曰)

  • 『孝経』に「ゆえに天子といえども必ず尊ぶ者がある」とあるのは、父があることを言う。王者は必ず三老を父として事え、それによって天下に孝のあることを示す。父がなくとも三老の礼を設けるのだから、まして生きている父があればなおさらである。
  • 孝は父を厳かに尊ぶことより大きいものはない。だから后稷を天に配するのは尊崇の極みである。禹は鯀に先んじず、湯は契に先んじず、文王は不窋に先んじなかった。これが古の道である。子の尊貴は父母に加えるものではない。家令の言はこの点で誤っている。

太上皇と匈奴

  • 夏五月丙午、詔した。人の至親は父より大きいものはない。ゆえに父に天下があれば子に伝え帰し、子に天下があれば尊号を父に帰す。これが人の道の極みである。朕が暴乱を平らげて天下を安んじたのは、みな太公の教訓による。太公を尊んで太上皇とする。
  • 秋九月、匈奴が韓王信を馬邑で囲んだ。信は匈奴に降った。