前漢紀前漢高祖皇帝紀 五年 前202年

垓下と項羽の最期

  • 冬十月、王は項羽を追って陽夏の南に至り、韓信・彭越と期日を約したが、いずれも来なかった。折しも楚が撃って漢軍を大破し、王はまた塁を深くして自ら守った。
  • 王が張良に「諸侯が従わないがどうすればよいか」と問うと、良は「大王が睢陽以東、北は穀城までをことごとく彭越に与えて王とし、陳以東から海に至るまでを韓信に与えれば、両人は必ず来て楚は敗れる」と答えた。王は従い、信と越はともに来た。
  • 十二月、諸侯はみな垓下に会し、項羽を幾重にも囲んだ。夜、漢軍が四面で楚の歌を歌うのを聞き、羽は驚いて「漢はもう楚をすべて得たのか。なんと楚人の歌う声の多いことよ」と言った。夜に起きて帳中で酒を飲んだ。虞姫という美人と騅という駿馬がいた。羽は感極まって悲しみの歌を歌った。力は山を抜き気は世を覆う。時が利あらず騅も進まない。騅が進まぬのをどうしよう。虞よ虞よ、そなたをどうしよう。
  • 羽は馬に乗り、八百余騎を従えて夜のうちに囲みを破って南に出た。夜明けに漢軍が気づき、騎将の灌嬰に五千騎で追わせた。羽は陰陵で道に迷い、漢軍が追いついた。東城に至ったときはわずか二十八騎、追う者は数千であった。
  • 羽は騎に言った。私は兵を起こして八年、身は九十余戦を経て、当たる者は破れ、敗れたことがない。今ここで窮したのはまことに天が私を亡ぼすのであって、戦の罪ではない。今日はもとより死を決している。諸君のために決戦しよう。
  • そこで騎を率い、四隤山に拠って円陣を組んだ。漢軍が幾重にも囲むと、羽は「公らのためにあの一将を取ろう」と言い、大声を上げて駆け下りた。漢軍はみななびき、ついに漢の一将を討ち取った。
  • 騎将の楊喜が羽を追うと、羽が振り返って叱りつけ、人も馬も驚いて数里退いた。
  • 羽は騎を三か所に分けた。漢軍は羽の居場所が分からず、軍を三つに分けて再び囲んだ。羽は駆けて漢軍を撃ち、また都尉一人を取り百人を殺した。羽が再び騎を集めると、失ったのは二騎だけであった。
  • 羽は軍を率いて東し烏江に至った。亭長が「江東は小さいとはいえ地は方千里、衆は数十万あり、王となるに足ります。急ぎお渡りください。今、船があるのは私だけで、漢軍が来ても渡る手立てがありません」と言った。羽は答えた。籍は江東の子弟八千人と江を渡って西したが、今は一人も還る者がない。たとえ江東の父兄が憐れんで私を王としても、どんな顔で会えようか。あなたは長者だ。私はこの馬に五年乗り、常に一日千里を行った。殺すに忍びない。あなたに贈ろう。
  • そこで騎にみな馬を降りさせ、短い武器で接戦し、さらに漢軍百人を殺した。羽も十余の傷を負い、ついに自ら首を刎ねて死んだ。
  • 楚の地はことごとく平定され、ただ魯だけが遅れて降った。初め、懐王が羽を魯公に封じたので魯を号としていたのである。羽を穀城山の下に葬り、漢王はそのために発哀した。項伯ら四人を列侯に封じ、劉氏の姓を賜った。

史論(本傳曰)

  • 項羽は関中を捨てて楚を懐かしみ、義帝を放逐し、自ら功伐を誇って古を師としなかった。覇王の業といっても、初めから力による征伐で天下を経営しようとした。五年でついに国を亡ぼし東城で身は死んだが、それでもなお悟らず、自分の罪ではないと考えた。誤りではないか。

帝位への即位

  • 春正月、斉王韓信を楚王に移し、下邳に都させた。信は昔食べさせてくれた漂母に千金を賜い、下郷の亭長を召して「公は小人だ。恵みを最後まで施さなかった」と言って銭百万を賜い、自分を辱めた少年を召して「壮士だ」と言って中尉に任じた。
  • 天下に殊死以下を赦した。群臣が皇帝の尊号を奉り、王は辞退した後に受けた。
  • 二月甲午、汜水の北で皇帝に即位した。十月を正月とし、火徳に従い色は赤を尊んだ。白蛇を斬ったときの神母の符に応ずるためである。王后を皇后、太子を皇太子と称し、先の媼を追尊して昭霊夫人とした。
  • 鄱君呉芮は百越を率いて諸侯を助けたので長沙王に立てた。越王無諸は閩中の兵を率いて秦を滅ぼすのを助けたので越王に立てた。
  • 皇帝は西の洛陽に都した。
  • 夏五月、兵をすべて解散させ、山沢に逃れていた者はそれぞれ田里に帰らせ、自ら身を売って人の奴婢となった者は免じて庶人とした。

天下を得た理由

  • 上は南宮で酒宴を開き、群臣に「私が天下を得た理由、羽が失った理由は何か」と問うた。王陵は「陛下は人に城を攻め地を略させ、その功に応じて賞し、天下と利を同じくされた。項羽は賢を嫉み能を妬み、功ある者を害し賢者を疑い、戦に勝ってもその功を認めず、地を得てもその利を与えなかった。だから天下を失ったのです」と答えた。
  • 上は言った。公は一を知って二を知らない。帷幄の中で策を巡らし千里の外で勝ちを決するのは私は子房に及ばない。国家を鎮め百姓を撫し兵糧を給するのは私は蕭何に及ばない。百万の衆を率いて戦えば必ず勝ち攻めれば必ず取るのは私は韓信に及ばない。この三人はみな人傑である。私はこれを用いることができた。だから天下を取れた。羽には范増一人がいたが、賢者を用いることができなかった。だから私に擒えられたのだ。
  • 上が韓信に「公の見立てでは私はどれほどの兵を将いられるか」と問うと、信は「陛下は十万を将いるにすぎません」と答えた。「では公はどれほどか」と問うと、「私は多ければ多いほどよいのです」と答えた。上が「ではなぜ私の臣なのか」と言うと、信は「陛下は兵を将いることはできませんが、将を将いることに長けておられます。これがいわゆる天の授けたもので、人の力ではありません」と答えた。

田横の死

  • このとき田横は賓客五百人とともに海中に逃れていた。上は使者を遣わして横の罪を赦し、「横が来れば大きくは王、小さくは侯とする。来なければ誅を加える」と伝えた。横は「私は酈食其を烹殺した。今その弟の酈商が将軍だと聞く。恐ろしくて詔を奉じられない」と言った。帝は酈商に「田横が到着したとき動く者があれば一族を誅する」と詔した。
  • 横は洛陽に赴き、尸卿亭の三十里手前で従者に言った。横は漢王と並んで南面し孤と称した。今、漢王は天子となり横は亡命の虜である。その辱めは甚だしい。しかも横はかつて人の兄を烹殺した。今その弟と肩を並べて主に仕えるのは、彼が詔を畏れるとしても、横だけは心に愧じずにいられようか。しかも陛下はただ私の顔を一目見たいだけだ。今、私の首を斬って三十里を馳せれば、顔かたちはまだ変わるまい。
  • そこで沐浴して自刎し、客にその首を捧げさせた。上は「ああ、布衣から起こって兄弟三人が代わる代わる王となった。賢でないことがあろうか」と言って涙を流し、その二人の客を都尉に任じ、王の礼で葬った。二人の客は塚の傍らに穴を掘り、みな自刎して従った。上は聞いて大いに驚き、横の客はみな賢者だと考えた。残る五百人が海島にいると聞いて使者を遣わして召したが、横の死を聞いて彼らもみな自殺した。

季布と朱家

  • 楚の将季布も逃げ隠れ、濮陽の周氏のもとに身を寄せた。漢が急いで懸賞をかけたので、周氏は布を髡鉗の刑徒の姿にし、家僮数十人とともに魯の朱家に売った。朱家は季布と知って買い取り、田舎の家に置いた。
  • 朱家は滕公に会って言った。季布に何の罪があるのか。臣はそれぞれ自分の主のために用いられただけである。上は天下を得たばかりで私憤によって一人を求めるとは、なんと度量の狭さを示すことか。しかも季布ほどの賢者なら、南は越に走るか北は胡に走るだろう。壮士を憎んで敵国を資けるのは、伍子胥が荊王の墓を鞭打った理由である。
  • 夏侯嬰がこれを言上し、上は布を赦して郎中に任じ、後に中郎将とした。布は諾を守る信義を重んじたので、当時の人は「黄金百鎰を得るより季布の一諾」と言った。
  • 朱家は任侠を行い、匿って生かした者は非常に多く、豪士は数百人を数えた。その功を誇らず、施した相手には会うのを恐れるほどであった。人を賑わすには貧賤の者を先にし、衣は色を重ねず、食は味を重ねず、もっぱら人の急に駆けつけた。布が尊貴となった後、朱家は二度と会わなかった。

関中への遷都論

  • 上は洛陽に都そうとしたが、戍卒の婁敬が面会を求めて説いた。陛下が洛陽に都されるのは周室と隆盛を比べようとされるのか。上が「そうだ」と答えると、敬は続けた。
  • 陛下が天下を取ったやり方は周室と異なる。周の先祖は后稷に始まり、堯が邰に封じ、徳を積むこと十余世。公劉は狄を避けて豳に居り、太王は狄の攻撃のため豳を去り馬の鞭を杖にして岐に行き、国人は争って帰した。文王は西伯となって初めて天命を受け、武王が殷を伐つと八百諸侯が期せずして孟津に会した。成王が即位すると周公らが輔け、成周を管して洛邑に都した。ここが天下の中央で四方が貢職を納め道のりが等しいからである。
  • 徳があれば王となりやすく、徳がなければ亡びやすい。ここに居る者は徳によって人を招くことに努め、険阻に頼って後世を驕奢にし人を虐げさせまいとしたのだ。周が衰えて二つに分かれると、天下は周に朝せず、周は制することができなかった。形勢が弱かったのである。
  • 今、陛下は兵を用いて天下を取り、大戦七十、小戦四十、百姓の肝脳を地に塗り、骨を野にさらし、哭泣の声はまだ絶えず、傷ついた者はまだ起き上がれない。それで周室と隆盛を比べようとされるのは、私はひそかに陛下は等しくないと思う。
  • 秦の地は山を被り河を帯び、四方の要塞を固めとする。急があれば百万の衆をたちどころに備えられる。秦の資と肥沃な地に拠るこれこそ、いわゆる金城・天府の国である。陛下が関中に都されれば、山東が乱れても秦の地は全きまま保てる。
  • 上が群臣に問うと、群臣はみな山東の人で、「周は七八百年、秦は二世で亡んだ。しかも洛陽は東に成臯、西に澠池があり、河を背にし洛に向かう。その堅固さは劣らず、頼むに足る」と口を揃えた。
  • 上は迷って張良に問うた。良は答えた。洛陽にはこの険はあるが、その内側は小さく数百里に過ぎず、四面から敵を受ける。武を用いる国ではない。関中は左に崤・函、右に隴・蜀があり、沃野千里、南には巴蜀の豊かさ、北には胡・宛の利がある。三面を阻んで守り、ただ一面をもって東に諸侯を制する。河・渭を安定させれば漕運で西の京師に供給でき、諸侯に変があれば流れに順って下って輸送できる。これがいわゆる金城千里・天府の国である。婁敬の説が正しい。
  • そこで上はその日のうちに車駕を西へ向けて関に入り、櫟陽の宮を治めた。婁敬を郎中に任じて奉春君と号し、劉氏の姓を賜った。
  • 六月壬辰、天下に大赦した。
  • 八月、燕王臧荼が叛き、上は自ら将して燕を撃った。九月、臧荼を虜にし、太尉の盧綰を燕王に立てた。綰は上と同じ里に同じ日に生まれ、幼い頃から親しかった。後に将軍として項羽討伐に従い功があったので立てられたのである。
  • 丞相の張倉は臧荼討伐に従って功があり、北平侯に封ぜられた。倉は天下の図書に明るく算術に長けていたので、列侯のまま相府に居らせ、郡国の上計を主管させた。