漢書卷九十三 佞幸傳第六十三 淳于長

太后の姪の伝言役から大逆に至る

  • 淳于長、字は子孺。魏郡元城の人。若くして太后の姉の子として黄門郎となったが、なかなか出世できずにいた。大将軍王鳳が病むと長は昼夜看病し扶けるなど甥舅の恩情を尽くし、鳳は死に際して長を太后と帝に託した。帝は長の義を嘉し列校尉諸曹に任じ、水衡都尉に遷り、侍中を経て衛尉九卿に至った。趙飛燕が寵愛を得て上が皇后に立てようとした際、太后がその出自の低さを難じたが、長は東宮(太后宮)との連絡役として仲介し、一年余りで趙皇后は立后、上はこれを恩に感じた。
  • 上は長のかつての功(将作大匠解万年が昌陵の造営を上奏し海内を疲弊させた際、侍中衛尉長がしばしば「移された民を故地に戻すべき」と諫言した功)を追録し詔で「長の言により公卿の議もこれに合し、民は康寧を得た」として関内侯の爵を賜い、後に定陵侯に封じられ、大いに信用され貴きこと公卿を凌ぎ、諸侯・牧守と外交し、賂遺・賞賜も鉅万に累積した。しかし妻妾を多く蓄え声色に淫し法度を守らなかった。かつて許皇后が呪詛の罪で廃され長定宮に置かれた際、その姉の孊は龍雒思侯の未亡人であったが、長は孊と私通し側室に迎えた。許后は孊を通じて長に賂を送り婕妤への復位を求め、長は許后から金銭・輿服御物を前後千余万受け取り、詐って「左皇后」に立てると偽り承諾し、孊が長定宮に入るたびに長は書簡を送り許后を侮辱するような戯言も交えていたという。書簡や賂の往来は年を重ねて続いた。
  • 折しも帝の舅曲陽侯王根が大司馬驃騎将軍として輔政していたが病がちで何度も辞任を願い出ており、長は外戚として九卿の位次から次に代わるべき立場にあった。根の兄の子、新都侯王莽は長の寵愛を心中で妬み、長が許孊を娶り長定宮からの賂を受けていることを聞き、根の見舞いに侍る折に「長は将軍の長患いを見て自分が輔政を継ぐと喜び、衣冠を整え誰をどの官に、誰に何を任せるかまで議論している」と告げ、長の罪状を詳しく述べた。根は怒り「それならなぜすぐに言わなかったのか」と問うと、莽は「将軍のお心が分からず言い出せませんでした」と答え、根は「すぐに東宮(太后)に伝えよ」と命じた。莽は太后に謁見し、長の驕逸ぶりと曲陽侯に代わろうとする野心、莽の母の車上での不敬な振る舞い、長定宮の貴人の姉との私通と財物の授受を詳しく述べ、太后も怒り「そこまでとは、すぐ帝に伝えよ」と命じた。莽は上に奏上し、上はついに長を免官し封国に帰らせた。
  • かつて長は侍中として太后と帝の間の連絡役を務め、紅陽侯王立だけは大司馬として輔政できず、これを長の讒言のせいと疑い常に怨んでいた。長が封国に帰ることになった際、立の嗣子融が長に車騎を求めると、長は珍宝を融に厚く贈り、融を通じて立に取り成しを頼んだ。これが発覚し、天子は疑い有司に案験させ、吏が融を捕らえると立は融を自殺させ口を封じようとした。上はますます大姦を疑い、長を逮捕し雒陽の詔獄に繋ぎ徹底的に取り調べたところ、長は長定宮を侮辱し左皇后を擁立しようとした罪を全て自白し、大逆の罪により獄中で死んだ。妻子で連座すべき者は合浦に流され、母若(長の母の名)は故郡に帰された。紅陽侯立は封国に帰され、この事件で免官された将軍・卿大夫・郡守は数十人に及んだ。莽はついに根に代わり大司馬となった。長らくして長の母と子酺(長の子)は長安に呼び戻されたが、後に酺が罪に問われ莽は再びこれを殺し、家族は故郡に送還された。長は元来外戚として近幸されたが、その寵愛は富平侯張放には及ばなかった。放は常に上と寝起きを共にし共に微行に出入りした。