漢書卷九十 酷吏傳第六十 尹賞

長安を「虎穴」で粛清した令

  • 尹賞、字は子心。鉅鹿楊氏の人。郡吏から廉により挙げられ楼煩長となり、茂材に挙げられ粟邑令、左馮翊薛宣が「劇務を治める能あり」と奏し頻陽令に遷ったが、残賊(過酷)の廉により免官。のち御史の推挙で鄭令となった。永始・元延年間、上は政事を怠り貴戚は驕恣を極め、紅陽長仲兄弟は軽俠の徒と交わり亡命者を匿い、北地の大豪浩商らは義渠長の妻子六人を殺して怨みを報じ、長安中を出入りしていた。丞相・御史は掾を遣り一党を追ったが、詔書で召捕を命じても長らく捕らえられず、長安の姦猾はますます増え、里巷の少年たちが徒党を組み吏を殺し賄賂を受け仇を討つなど乱れ、赤・黒・白の弾丸を探り取って「赤丸を引いた者は武吏を斬り、黒丸は文吏を斬り、白丸は葬儀を仕切る」という物騒な取り決めまで行われ、城中は薄暮に塵が立ち通行人が殺傷され死体が道に横たわり、太鼓の音が絶えなかった。
  • 賞は三輔で高第により選ばれ長安令代理となり、便宜に従い一切の措置を任された。賞は長安の獄を修築し、地面を数丈掘り下げ甎を積んで郭を築き大石で口を覆い「虎穴」と名づけた。戸曹掾史・郷吏・亭長・里正・父老・伍人らを動員し、長安中の市籍を持たぬ軽薄な悪子(商売もせず働きもせず派手な服や危険な服で武器を帯びる者)を洗い出し記録させ、数百人を得た。ある朝、長安中の吏の車数百両を動員し一斉に分かれて捕縛、「通行飲食群盗」(盗賊に飲食を供した罪)で一括弾劾、賞自ら閲して十人に一人を放免し残りは順次「虎穴」に投げ入れ百人一組で大石を被せた。数日おきに一度開けて確認すると皆折り重なって死んでおり、遺体は寺門の桓(華表)の東に運び出して埋葬し、名札を立てて姓名を記した。百日後、遺族に遺体を引き取らせると、親族は道で号泣し歔欷(すすり泣き)し、長安ではこれを歌に詠んだ――「どこに求めん、桓東の若者の亡骸を、生きているうちに慎まなかった、枯れ骨となって今さら葬られようか」。賞が選んだ者はみなその頭目格であったが、中には故吏や良家の子で判断を誤り軽薄な仲間についてしまい改心を願う者も数十百人ほどおり、賞はその罪を許して功を立てさせ贖わせ、力を尽くして効あった者は側近として用い追捕に精通させ、姦悪を好むこと並の吏以上であった。賞が着任して数か月で盗賊は止み、郡国から亡命した者も散り散りに帰郷し、長安を窺う者もいなくなった。江湖に盗賊が多い江夏太守に転じ、江賊の捕縛や誅殺を多く行ったが残賊の罪で免官。南山の群盗が起こると右輔都尉となり、執金吾に遷って三輔の大姦猾を督察、吏民は大いに畏れた。数年後、官のまま病没した。病篤い際、諸子を戒めて「男子たる者、吏となって残賊(過酷)の罪で免官されても、後にその功績を思い出されればまた登用される。だが軟弱で任に堪えず免官された場合は終身廃棄され赦されることがない、その恥辱は貪汚の罪より重い、財の罪だけは慎んで犯すな」と語った。賞の四子は皆郡守に至り、長子立は京兆尹となり、皆威厳を尊び治めの評判があった。

史論

  • 賛にいう。郅都以下、みな酷烈をもって聞こえたが、都は剛直に是非を明らかにし大体を争った。張湯は人主の意向を機敏に察し共に上下したが、時に事の是非を弁え国家はその便に頼るところもあった。趙禹は法に拠り正を守った。杜周は諛いに従い寡言をもって重んじられた。張湯の死後、法網はますます密になり事が繁多となって次第に乱れ廃れ、九卿は職を奉じ過ちを繕うのに手一杯で、法の外まで議論する余裕はなかった。これ以後、哀帝・平帝の代に至るまで酷吏は多く現れたが、ここに数えるほどの者はない。ここに記した者たちのうち、廉なる者は儀表とするに足り、汚れた者もその方略・教導は一切の姦を禁ずるに役立ち、いずれも質実と文武を兼ね備えており、酷といえどもその位に相応しかった。張湯・杜周の子孫は貴盛を極めたため、酷吏伝には列せず別に伝を立てる。