漢書卷九十 酷吏傳第六十 王温舒

河内で流血十余里の粛清

  • 王温舒、陽陵の人。若い頃、人を殺して埋める悪事を働いた。その後、県の亭長に採用されるが、しばしば罷免されしばしば復職し、獄事の処理により廷尉史となり張湯に仕えた。御史に遷り盗賊を督察し多くの死傷者を出し、次第に広平都尉に昇進すると、郡内の豪胆な吏十余人を選んで爪牙とし、彼らの深刻な過去の罪を握って弱みとして使い、盗賊の取り締まりを任せ、意にかなう働きをすれば百の罪があろうと問わず、逆に手加減する者は一族もろとも滅ぼした。このため斉趙の盗賊は広平に近づかず「道に遺失物なし」と評判になり、上は河内太守に遷らせた。広平にいた頃から河内の豪姦の家を把握しており、九月に着任するや郡に私馬五十匹の駅を長安まで設けさせ、広平時代の手法で郡内の豪猾を捕らえ千余家を連座させ、大罪は族刑、小罪は死刑とし、家財はすべて没収し弁済に充てるよう上奏、二日で裁可され、処刑の血は十余里に及んだ。河内の人々はその奏の速さを神業と驚いた。十二月の末までに郡内に「犬の吠える盗もいない」ほど平らげたが、逃れた者は隣郡に潜み、春が来ると処刑ができなくなるため温舒は地団駄を踏んで「ああ、冬をもう一月延ばせれば仕事を終えられたものを」と嘆いたという。その好んで殺し威を行う様はこれほどであった。上はこれを能とみなし中尉に遷し、河内での手法をそのまま用い、猜疑心の強い危険な吏を招いて用いた(河内の楊皆・麻戊、関中の楊贛・成信ら)。義縱が内史であった頃はこれを憚り酷を恣にできなかったが、縱の死後、張湯も失脚すると、尹斉が中尉として罪に問われた後、温舒は再び中尉となった。温舒は無学で他の官では鈍く見えたが、中尉となると関中の風習・豪悪吏を知り尽くし、悪吏を再び使い、姦事を密告させる箱を設け、里落の長を置いて姦を摘発させた。温舒は権勢に諂うことが多く、権勢ある家は姦悪が山のようでも見逃し、権勢なき者は貴戚でも侵し辱め、権要のある大豪を動かすために下戸の狡猾者を法文で操った。悪辣な取り締まりを尽くし獄中で多くが死に潰れ、脱出できる者はまれで、その爪牙の吏は「虎にして冠す」(人の姿をした虎)と評された。権勢ある者は評判を上げ数年で吏の多くは権貴に依って富んだ。温舒は東越討伐から戻った際、議論が上意に合わず法により免官。折しも上が通天台を作ろうとして人手が足りず、温舒は中尉の脱漏兵役者を調べ数万人を得て工事に充て、上は喜んで少府に任じ、右内史に転じても以前同様に治めたが姦邪は少なく禁じられ、法に触れ失官、再び右輔・中尉に戻った。一年余り後、大宛遠征の際、詔で豪吏を徴発したところ温舒は吏の華成を匿い、また騎兵の員数を偽って銭を受け取るなど他の姦利事が発覚し族刑に至り自殺した。その時、両弟と両婚家もそれぞれ別罪で連座し族滅、光禄勲徐自為は「古より三族の刑はあったが、王温舒の罪は同時に五族に及ぶとは」と嘆いた(温舒と弟で三族、両妻の実家でそれぞれ一族、計五族)。温舒の死後、家には千金の蓄えがあった。