勃海の盗を鎮め剣を売って牛を買わせる
- 龔遂、字は少卿。山陽南平陽の人。明経により官に就き昌邑郎中令に至り、王賀(昌邑王)に仕えた。賀の行いに不正が多かったため、遂は忠厚剛毅な人柄で内は王を諫争し外は傅相を責め、経義を引いて禍福を陳べ涙を流すまで諫めることを止めず、面と向かって王の過ちを指摘したため、王は耳を塞ぎ逃げ「郎中令はよく人を辱める」と言うほどで、国中の者も皆これを畏憚した。王が長く騶奴・宰人と遊興飲食し賞賜が度を越えた際、遂は涙を流し左右の侍御も皆涙した。王が問うと遂は「社稷の危うきを痛む」と答え、人払いの上で「膠西王が無道であった理由をご存じか」と問い、「膠西王には諂臣侯得がおり、王の行いを桀紂に比べても堯舜に比するような追従を言い、王はその諂諛を悦び寝食を共にするほどであった、その結果があの滅びである。今、大王も群小に親しみ邪悪に漸染しており、存亡の機は慎まねばならない」と諭し、経術・行義ある郎を選んで王の起居を共にし詩書を誦し礼容を習わせることを提案、王も許したが、選ばれた張安ら十人は数日で追い出された。宮中にしばしば怪異があり、王が遂に問うと遂は「大憂あり、宮室が空になる兆し」と答えた(詳細は昌邑王伝)。折しも昭帝が崩じ子がなく昌邑王賀が嗣立、王の官属は皆京師に召され、王の相安楽は長楽衛尉に遷った。遂は安楽に涙して「王は天子となって以来ますます驕溢し諫めても聞かれない、今なお哀痛の期間中なのに近臣と飲食作楽し虎豹を闘わせ皮軒車を召し九流を東西に馳せ回る、これは道に悖る、古制では大臣に隠退の道があるが、今去ることもできず狂を装うこともできず、身が世の戮となるのを恐れる、君は故相としてぜひ極諫すべき」と告げた。王は即位二十七日で廃され、昌邑の群臣は王を悪に陥れたとして二百余人が誅殺されたが、遂と中尉王陽だけはしばしば諫争した功で死一等を減じられ髠刑・城旦に処された。
- 宣帝即位後しばらくして、勃海周辺の郡が凶作で盗賊が並び起こり二千石も鎮められず、上は治める能力のある者を求め、丞相・御史が遂を推挙、勃海太守に任じた。時に遂は七十余歳、召見された宣帝はその小柄な姿を見て評判ほどでないと軽んじたが、「勃海が乱れ朕は甚だ憂えている、君はどうやって盗賊を鎮め朕の意にかなえるか」と問うと、遂は「海辺の遠地に聖化が及ばず、民は飢寒に苦しみ吏もこれを恤まなかったため、陛下の赤子が陛下の武器を潢池(水たまり)で弄んでいるにすぎません。臣にこれを『勝つ』ようにお命じですか、それとも『安んじる』ようにお命じですか」と問い返し、宣帝はこれを喜び「賢良を選んで用いるのは、まさに安んじさせたいからだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのは乱れた縄を治めるようなもの、急いではならず、ゆっくりと解きほぐしてこそ治まります。丞相・御史には文法をもって臣を縛らず、便宜に従って処置させていただきたい」と願い、上はこれを許し黄金を加賜して送り出した。遂は駅伝で勃海の境に至ると、郡は新太守を迎えるため兵を発したが遂はすべて送り返し、属県に令を発して盗賊の逮捕を止めさせ、鋤や鉤などの農具を持つ者は良民として吏は問わず、武器を持つ者のみを盗賊とし、遂自身は単車で単独に府に赴くと、郡中は忽ち和らぎ盗賊も罷んだ。勃海にはなお集団で略奪する者が多かったが、遂の教令を聞くとただちに解散し武器を捨てて鉤鋤を取り、盗賊はことごとく平らいだ。民が土地に安んじ生業を楽しむようになると、遂は倉廩を開いて貧民に給付し、良吏を選んで慰撫養育させた。斉の風俗が奢侈で末技を好み田作を疎かにしていることを見た遂は、自ら倹約を実践して民に農桑を勧め、一人当たり楡百本・薤五十本・葱一畦・韮を植えさせ、一家に母豚二頭・鶏五羽を飼わせ、剣を帯びる者には剣を売って牛を買わせ、刀を持つ者には刀を売って犢を買わせ「なぜ牛を帯び犢を佩びるのか」と諭し、春夏は田畑に赴かせ秋冬は収穫と果実・菱・芡の蓄えを課し、郡内を巡り勧め回った結果、吏民はみな富み獄訟も止んだ。数年後、上が使者を遣り遂を召したところ、遂は議曹の王生を功曹として連れて行きたいと願ったが、王生は日頃酒を嗜み節度がないため憚られたが、遂は断りきれず同行させた。京師に着いても王生は連日飲酒し太守に会おうともしなかったが、遂が宮中に召された際、酔った王生が背後から呼び止め「明府、しばらくお待ちを、申し上げたいことがあります」と言い、遂が戻って理由を問うと「天子がもし『どうやって勃海を治めたか』と問われたら、ご自身の功として答えず『これはみな聖主の徳、小臣の力ではありません』とお答えなさい」と進言、遂はこれに従った。案の定、上は治績を問い、遂は王生の言葉どおりに答えると、天子はその謙譲を喜び「君はどこでそのような長者の言葉を身につけたのか」と笑って問い、遂は「臣が知っていたのではなく、議曹がそう戒めてくれたのです」と正直に答えた。上は遂が老齢で公卿の激務に堪えないとして水衡都尉に任じ、議曹の王生も水衡丞として遂を顕彰する形で登用した。水衡は上林禁苑を掌り宮館の供張・宗廟の牲を扱う職で天子に近く、上はこれを重んじ、遂は官のまま天寿を全うして卒した。