六情十二律の占術
- 翼奉、字は少君。東海下邳の人。斉詩を治め蕭望之・匡衡と同門であったが仕官せず律暦陰陽の占いを好んだ。元帝初め待詔に召され「治道の要は下の邪正を知ることにあり、その術は六情十二律にある」との師説を上奏し、方位・干支に配した六情(貪狼・陰賊・廉貞・寛大・姦邪・公正)の理論を展開、これに基づき朝廷の人事の吉凶を占う手法を説いた。中郎として召され、正辰・邪時の理論を用いた占術(辰は客、時は主人、正・邪の組み合わせで見える者と侍る者の実情を判じる法)を披露し「露わにすれば神ならず、独り行えば自ずから然り」と秘術を重んじた。関東の水害・地震が続く中、上疏して「聖人は天地の理を見て道を知り、賢者は経(詩書易春秋礼楽)を見て人道の務めを知る、易には陰陽、詩には五際、春秋には災異があり終始を推して得失を考え天心を察して王道の安危を言う」との学問観を述べ、災異の理論を用いて地震の兆しを説明した。また武帝以来の宮室奢侈・祭祀の煩費を批判し、文帝の質素な治世を範として成周(洛陽)への遷都を進言する大胆な建言も行ったが、実現には至らなかった。後に貢禹の宗廟迭毀論、匡衡の南北郊改革の議論も奉の説に発するとされる。奉は博士・諫大夫を経て老いて天寿を全うし、子孫も儒官に列した。