易の災異説と非業の死
- 京房、字は君明。東郡頓丘の人。梁の焦延寿(字は贛)に易を学んだ。延寿は六十卦を日に配当し風雨寒温を占う独特の説を唱え、房はこれを精緻に発展させ鍾律にも通じた。初元四年、孝廉で郎となり、西羌の反乱・日蝕・長期の日光不良などを次々と的中させ元帝の信任を得た。房は「古の帝王は功を挙げて賢を任じたため瑞応が現れたが、末世は毀誉で人を取るため功業が廃れ災異を招く、百官にそれぞれ功績を試させれば災異は息む」と説き「考功課吏法」を上奏したが、群臣の議論では煩雑として容れられなかった。中書令石顕とその友人五鹿充宗が房と経学上の立場を異にし対立、房は元帝との対話で「幽王・厲王が佞臣を用いて国を危うくした故事」を引き遠回しに石顕を批判したが、元帝は明言を避けた。房は讒言により魏郡太守に左遷され、赴任後も蒙気(悪気)の消長を天文の兆しとして繰り返し上書し、自らの危険を予感しつつ「涌水の異」「太陽の色を侵す蒙気」等の予兆を的中させ続けたが、建昭二年、淮陽憲王の舅張博と共に「政治への誹謗・天子への転嫁」の廉で石顕に告発され、房・博ともに棄市に処された。享年四十一。