倹約と制度改革の建言
- 貢禹、字は少翁。琅邪の人。明経絜行で知られ博士・涼州刺史・河南令を経て、元帝即位の初めに諫大夫に召された。凶作の年、古の宮室・車馬の質素な制を引き、武帝以来の奢侈の風潮を批判し、後宮の女御・厩馬の削減、東宮(太后宮)の浪費是正、諸侯の妻妾・豪富の蓄妾の抑制を説いた。天子はこれを容れ、太僕・水衡の食糧を減じ、角抵などの遊興を廃し、光禄大夫に昇進させた。禹は自らの俸禄の厚さと老いを述べて辞去を願ったが、天子は「先生の廉直と直言を頼みとする」と慰留し、長信少府を経て御史大夫となった。禹はさらに、口銭制度の見直し(幼児七歳未満は免除)、貨幣鋳造・鉱山採掘の停止(銅鉄採掘の労役と農業損失を指摘)、租税・俸禄の穀帛化、奢侈品の売買禁止など、農本に立ち返る改革案を数十回にわたり上奏した。また武帝の贖罪制度が姦悪の風潮を助長したと批判し、賞罰を厳正にし清廉な人材登用を勧めた。宣帝はこれらを一部採用し、口銭は民の産子七歳から徴収する制に改められた。禹は御史大夫在任数月で没し、天子は銭百万を賜り子を郎とした。禹の没後、その郡国廟廃止・宗廟迭毀の議は改めて実行に移された(詳細は韋玄成伝にある)。