漢書卷六十八 霍光金日磾傳第三十八 金日磾
金日磾、字は翁叔。匈奴休屠王の太子で、漢に降り武帝に見出されて近侍した忠臣。莽何羅の謀反を身を挺して防いだ功により重んじられ、武帝の遺詔で霍光の副として昭帝を輔佐した(秺侯、諡は敬侯)。子孫は日磾本人の系よりも弟倫の系(金安上ら)が繁栄し、後代まで内侍として仕えた。
出自と武帝への奉仕
- 金日磾、字は翁叔。匈奴休屠王の太子。武帝元狩年間、驃騎将軍霍去病の匈奴右地攻撃で休屠王の祭天金人が獲得され、その夏、去病の祁連山攻撃で単于は昆邪・休屠両王の敗北を怒って誅殺しようとした。両王は漢への投降を謀ったが、休屠王が後悔したため昆邪王がこれを殺しその衆を併せて漢に降った。日磾は父の不降を理由に殺されず、母の閼氏・弟の倫とともに官に没入され黄門で馬を養った。十四歳の頃、武帝が後宮を伴い馬を検分した際、居並ぶ牽馬の者の中で日磾だけが視線を伏せず堂々としていたため、その容貌(身長八尺二寸、容貌厳粛)に武帝は目をとめて問い質し、事情を知ると馬監に任じ、以後侍中・駙馬都尉・光禄大夫と累進した。日磾は近侍して過失なく、武帝の信愛は厚く、貴戚らが「陛下は一介の胡人を重んじすぎる」と陰口をきいても武帝はますます厚遇した。母の教誨が厳格であったため、その死後は甘泉宮に肖像を画かせ「休屠王閼氏」と題した。日磾はその画を見るたび拝礼し涕泣してから去ったという。
莽何羅の変を防ぐ
- 日磾の子二人は武帝に愛され弄児として近侍していたが、成人した後に殿下で宮人と戯れる不謹慎に及び、日磾はこれを見咎めて長子の弄児を自ら殺した。武帝は激怒したが、日磾が事情を説明すると哀しみつつも敬意を深めた。
- 莽何羅は江充と親しく、江充が衛太子事件で誅されると弟の莽通は太子討伐の功で封を得たが、太子の冤罪が判明すると江充一族も誅され、何羅兄弟はその累が及ぶことを恐れて謀反を企てた。日磾は何羅の様子に不審を抱き隠密に監視を続け、何羅もまた日磾に警戒し容易に事を起こせずにいたが、武帝が甘泉に近い林光宮に行幸した際、日磾がにわかの不調で臥所にいたところ、何羅とその弟通・安成が偽詔をもって夜間に使者を殺害し翌朝挙兵しようとした。日磾は厠に向かおうとして胸騒ぎを覚え、急ぎ武帝の臥内近くに戻ったところに刃を隠し持った何羅が現れ、日磾の顔色の変化に気づいて逃げようとし宝瑟につまずいて倒れた。日磾はこれを組み伏せ「莽何羅反す」と叫び、武帝が「日磾に当たるといけない」と制止したため兵に討たせず取り押さえさせ、詔獄で糾明の上一味は皆罪に伏した。この功により日磾は忠孝の節をもって知られ、以後数十年、宮中で決して不遜な視線を向けず、賜られた宮女にも近づかず、武帝が娘を後宮に入れようとしても固辞するほど篤慎であったため、武帝はいよいよこれを重んじた。
薨去と子孫
- 武帝が病篤くなり霍光に幼主の輔政を託そうとした際、光が日磾に譲ると日磾は「臣は外国人ゆえ、匈奴に漢を軽んじさせる恐れがある」と辞退し、光の副となった。光は娘を日磾の嗣子賞に嫁がせた。武帝の遺詔で莽何羅討伐の功により日磾は秺侯に封じられたが辞退し、輔政一年余りで病篤くなった際、大将軍霍光の奏上により臥したまま印綬を授けられ、その一日後に薨じた。諡は敬侯。
- 日磾の子賞・建は共に侍中として昭帝と同年で共に育ち、賞は奉車都尉、建は駙馬都尉となった。上官桀・霍光の対話にあるとおり「先帝の約束により功あって初めて侯となる」との原則が守られ、賞は宣帝の代に太僕となったが、霍氏の変に連座して妻を去らせたため咎めを免れ、元帝の代に光禄勲で薨じたが子なく国は絶えた。元始年間、絶えた功臣家を再興する詔により建の孫の当が秺侯として日磾の祀を継いだ。
- 日磾とともに漢に降った弟の倫は黄門郎で早世したが、その子孫は日磾の系より繁栄し、倫の子安上は侍中として宣帝に重用され、楚王延寿の謀反を密告した功で関内侯に封じられ、のち霍氏誅滅時に禁門を固めて霍氏を入れなかった功で都成侯となった。安上の子敞は元帝に近侍し忠孝の名で知られ成帝の代まで衛尉を務め、剛直な性格で天子にも憚られるほどであったという。敞の子渉は侍中として父の死に際し天子から特別な礼遇を受けた。渉の子湯・融は共に侍中となり、渉の従弟の欽は太中大夫給事中を経て尚書令に至った。
- 平帝の代、王莽が平帝の外家衛氏を誅した際、欽は日磾の功を根拠に自らの父祖のために廟を立てようとしたが、これは日磾の嫡系(当)の祭祀を軽んじる行為として甄邯に弾劾され、欽は自殺に追い込まれた。莽はその後、欽の弟の遵を用いて封侯し九卿の位を歴任させた。
史論
- 賛:霍光は幼少より宮中に近侍し、確固たる志を主君に示し、幼帝の輔佐を託されて廟堂に立ち、燕王・上官桀を退け権謀をもって敵を制してその忠を成し遂げ、廃立の大事に臨んでも節を曲げず、ついに国家を安んじて昭帝を保ち宣帝を立てた。その功績は周公・伊尹に比肩する。しかし光は学問なく大理に暗く、妻の邪謀を隠蔽し娘を皇后に立てるなど、放埒な欲望が破滅の禍を増幅させ、死後わずか三年で宗族は誅滅された、哀しいことである。かつて霍叔は晋(河東)に封じられたが、光もその末裔ではないか。金日磾は夷狄の亡国の虜でありながら篤敬をもって主君の心を悟らせ忠信をもって自ら顕れ、功を上将に勒し、国を子孫に伝えて七世にわたり内侍として忠孝の名を保った、まことに盛んなことである。日磾は本来休屠が金人を作って天を祭った故事にちなんで金の姓を賜ったという。