漢書卷六十八 霍光金日磾傳第三十八 霍光
霍光、字は子孟。驃騎将軍霍去病の異母弟で、武帝に長く近侍した後、昭帝・宣帝2代にわたり輔政を担った漢の重臣(?–地節二年)。武帝の遺詔で昭帝を補佐し、上官桀・燕王旦らの謀反を鎮圧、昌邑王を廃して宣帝を擁立するなど廃立を主導し周公・伊尹に比肩すると評された一方、妻子の専横を抑えきれず、死後まもなく一族は謀反の疑いで誅滅された。
出自と武帝への奉仕
- 霍光、字は子孟。驃騎将軍霍去病の異母弟。父の霍中孺は河東平陽の人で、平陽侯家に県吏として仕えた際に侍女の衛少児と私通し去病を生んだが、任期を終えて帰郷し正妻を娶って光を生み、以後衛家との縁は絶えた。少児の妹の衛子夫が武帝の寵を得て皇后に立つと、去病は皇后の甥として貴顕し、壮年になって初めて実父が霍中孺であることを知った。匈奴討伐で河東を通った際に父と対面し、田宅・奴婢を買い与え、光を伴って長安に至らせた。光は十余歳で郎となり、諸曹侍中を経て去病の死後は奉車都尉・光禄大夫となり、二十余年間武帝の側近くに仕えて謹厳で過ちがなく厚く信任された。
輔政の遺詔と昭帝擁立
- 征和二年、衛太子が江充の讒により敗死し、燕王旦・広陵王胥も素行に問題があった。武帝は末子の鉤弋夫人所生の子(後の昭帝)を後継に定め、群臣中ひとり霍光のみ社稷を託せる重臣と見なし、周公が成王を抱いて諸侯に朝せしめる図を光に賜った。後元二年、武帝が病篤くなった際、光は金日磾には及ばないと譲ったが、日磾も自らは外国人ゆえ光に及ばないと譲り、結局光を大司馬大将軍、日磾を車騎将軍、上官桀を左将軍、桑弘羊を御史大夫とし、四人が武帝の枕元で遺詔を受けた。翌日武帝崩御、太子が即位して昭帝となる。帝はわずか八歳で政務はすべて光の決裁に委ねられた。後元元年、侍中僕射の莽何羅とその弟重合侯莽通の謀反を光・日磾・上官桀らが共に誅した功により、光は博陸侯、日磾は秺侯、桀は安陽侯に封じられた。
- 光は身長七尺三寸、色白く眉目秀麗で、出入りの立ち位置まで寸分違わぬ端正な人物として知られた。ある夜宮中に怪異があり群臣騒然とした際、光は尚符璽郎から玺を取り上げようとしたが郎は剣に手をかけ「臣の首は渡せても璽は渡せぬ」と拒み、光はこれを義として翌日その秩を二等進めさせた。
燕王旦・上官桀らの謀反鎮圧
- 光は左将軍上官桀と姻戚関係を結んだが、桀の子安の妻(光の長女)の縁で桀の一族が急速に台頭し、桀の孫娘が皇后に立てられた。桀・安父子は昭帝の姉鄂邑蓋主の寵臣丁外人の封侯や光禄大夫任官を光に求めたがいずれも拒まれ、蓋主・上官桀父子は光への怨みを深めた。燕王旦も昭帝の兄として帝位への未練を抱き、御史大夫桑弘羊も酒榷・塩鉄の専売で功を誇りながら子弟の官職を得られず不満を抱いていた。四者は結託し、燕王の名で「光が郎の閲兵に際し法駕を用いた」「大将軍長史の楊敞をいわれなく捕虜功で捜粟都尉に取り立てた」「莫府校尉を私に増員した」などと光の専権を弾劾する上書を偽って提出させ、光の休沐の日を狙って奏上させた。光がこれを聞き画室に籠って出仕しなかったところ、昭帝は「燕王が告発してから校尉の任命まで十日も経っておらず、燕王がそれを知るはずがない、これは偽書だ」と見抜き、光の無罪を明言した。以後、上官桀一派が光を讒言しても昭帝は取り合わなくなった。桀らはやむなく長公主の酒宴に乗じて光を謀殺し、帝を廃して燕王旦を迎え立てようと企てたが、事は露見し、光は桀・安・桑弘羊・丁外人とその宗族、燕王旦・鄂邑蓋主をことごとく誅殺・自尽に追い込んだ。光の威は海内に震い、昭帝は元服後も政務を光に委ね続け、十三年にわたる治世で百姓は富み四夷も服属した。
昌邑王の廃立
- 元平元年、昭帝が嗣子なく崩御。武帝の遺した六男のうち生存するのは広陵王胥のみであったが、素行を理由に武帝に用いられなかった経緯から光は不安を抱いた。ある郎が「周の太王が太伯を廃し季を立て、文王が伯邑考を廃し武王を立てた故事」を挙げ、長幼にかかわらず適任者を立てるべきと上書したことが光の意にかない、丞相楊敞らと諮り、皇太后の詔をもって昌邑王賀(武帝の孫、昌邑哀王の子)を迎えさせた。ところが賀は即位すると淫乱な行いに及び、光は大司農田延年の勧めで伊尹が太甲を廃した故事に倣うことを決意し、丞相以下群臣を集めて廃立を諮った。群臣は驚愕して沈黙する中、田延年が剣に手をかけ決断を迫り、光は「九卿の言はもっともだ、天下の不安の責は私が負う」と述べて衆議は一決した。光は皇太后に奏上して未央宮に諸門を固めさせ、昌邑の群臣二百余人を捕らえ、王の乱行の数々――喪中にもかかわらず私に飲食楽舞を行い、璽綬をみだりに開封し、従官二百余人を引き入れて放縦にふけり、二十七日の間に千百二十七件の詔を乱発した等――を数え上げて廃位を上奏、皇太后はこれを許した。光は王の璽組を解いて皇太后に奉り、王を昌邑邸に送り「王自ら天に背いた、臣らは駑怯にして殉死もできぬが社稷は裏切れぬ」と涙して別れを告げた。昌邑の群臣二百余人は輔導を誤った罪で誅殺された。
宣帝の擁立
- 広陵王は先に武帝に退けられた経緯があり、燕王旦の子も議に加えられず、近親では衛太子の孫にあたる皇曾孫(民間で病已と称された、後の宣帝)のみが候補に残った。光は丞相楊敞らと共に「孝武皇帝の曾孫病已は掖庭で養われ、詩・論語・孝経を学び節倹慈仁、昭帝の後を継ぐにふさわしい」と上奏し、皇太后の許しを得て曾孫を陽武侯に封じた上で未央宮に迎え、璽綬を高廟に奉じて即位させた(宣帝)。翌年、光の輔政の功に対し東武陽の地を加増し封邑二万戸、黄金七千斤・銭六千万・雑繒三万匹・奴婢百七十人・馬二千匹・甲第一区が賜与された。光の子禹・兄孫の雲は中郎将、雲の弟山は奉車都尉侍中となり胡越の兵を領し、光の二女婿は東西両宮の衛尉に、昆弟諸婿・外孫も諸曹大夫・騎都尉に任じられ、一族は朝廷に根を張った。光自身は昭帝崩御後から国政を秉持し続け、宣帝即位後も政を返上せず、諸事は必ず光を経て上奏される体制が続いた。
薨去
- 地節二年、光が病篤くなると宣帝自ら見舞い、光は分邑三千戸を割いて兄孫の奉車都尉山を列侯とし、去病の祭祀を継がせたいと願い出た。同日、光の子禹は右将軍に任じられた。光の薨去に際し宣帝・皇太后自ら喪に臨み、金銭・繒絮・繡被・璧珠璣・玉衣・梓宮・便房・黄腸題湊・樅木外蔵椁・東園温明など天子に準じる厚葬の器具一式が賜与され、輼輬車で柩を茂陵に送り諡は宣成侯とされた。葬儀に三河の卒が動員され、園邑三百家が守墓に置かれた。天子は光の功徳を偲び、その爵邑を子々孫々世襲させ蕭何に准ずる厚遇を与える詔を下し、翌年には太子の外祖父許広漢が平恩侯に封じられ、光の兄孫雲も冠陽侯に封じられた。
霍氏一族――専横と滅亡
- 光の死後、子の禹が博陸侯を嗣いだ。妻の顕は光の生前の墓域を大々的に改造し、輦道・祠室を華美に飾り、輦車を金で装飾するなど僭上の限りを尽くし、光の生前からの寵僕馮子都と密通した。禹・山も邸宅の造営や田猟に耽り、雲は病と称して朝請を怠り賓客を集めて狩猟に興じ、蒼頭の奴に朝謁の代行までさせたが咎める者はなかった。顕とその娘たちも長信宮に無礼な出入りを重ね、宣帝は霍氏の専横を内心快く思わなくなっていた。
- 光の薨後、御史大夫魏相が政務に加わり、皇后(霍氏出身)の縁者の奴が御史家と道を争って叩頭謝罪する事件を機に霍氏の不安が高まった。折しも、光の生前、顕が乳医淳于衍を使って許皇后(宣帝の先の皇后)を毒殺し、娘の成君を皇后に立てさせていた事実が露見しかけ、顕は光にこれを打ち明け、光は驚きつつも黙認して衍の罪を不問に付す上奏に署名していた。光の死後この件がしだいに漏れ始め、宣帝は事実を把握しつつも確証を得ないまま、霍氏一族の娘婿らを地方官に転出させ、禹の右将軍屯兵の権限を剥奪して名目だけの大司馬とし、諸領兵権をことごとく許氏・史氏系に付け替えていった。
- 禹は病と称して不満を募らせ、旧長史の任宣に「大将軍の時ならばこうはならなかった」と漏らし、任宣はこれに乗じて煽動した。顕・禹・山・雲は互いに泣いて怨み、当時の丞相魏相が旧法を次々改め、大将軍時代の過失を暴いていることを憎んだ。密告の風説(「霍氏が許皇后を毒殺した」)が広まる中、山・雲・禹は謀反を決意、太后を欺いて丞相・平恩侯らを誅殺し帝を廃して禹を立てる計画を立てたが、密告や凶兆(顕の夢、井戸の水の溢れ、鴞の怪異、門の自壊等)が相次ぎ、事は発覚した。雲・山・眀友(光の女婿范眀友)は自殺、禹は要斬、顕とその娘・昆弟は棄市とされ、皇后のみ廃されて昭台宮に幽閉された。連座して誅滅された家は数千戸に及んだ。密告の功により張章・董忠・楊惲・金安上・史高がそれぞれ博成侯・高昌侯・平通侯・都成侯・楽陵侯に封じられた。
- 当時茂陵の徐生は「霍氏は必ず滅ぶ、驕奢は不遜を生み不遜は上を侮り、侮上は逆道である、権勢日久しく害する者多い上に逆道を行えば滅びぬはずがない」と予見し、三度上書して抑制を勧めたが取り合われず、後に「曲突徙薪(煙突を曲げ薪を遠ざける先見の功労)」に喩えて自らの功が顧みられなかったことを訴え出て、天子は帛十匹を賜り後に郎とした。
- 宣帝は即位の当初、高廟謁見の際に光が驂乗するとひどく畏縮し「背に芒刺ある如し」と感じていたと伝わり、後に張安世が代わって驂乗すると安堵したという。世に「威震主者不畜(主君を威圧するほどの臣は生き延びられない)」の言があり、霍氏の禍はこの驂乗の一件に萌したとされる。成帝の代には光のために守冢百家が置かれ、元始二年、光の従父昆弟の曾孫陽が博陸侯千戸に封じられた。