漢書卷六十七 楊胡朱梅云傳第三十七 云敞

師の遺骸を収めた義

  • 云敞は字を幼孺といい平陵の人である。同県の呉章に師事し、章は『尚書』を治め博士となった。平帝が中山王から即位すると年幼く、王莽が政を秉り自ら安漢公と号し、平帝を成帝の後継とし私親を顧みることを許さず、帝母や外家の衛氏はみな中山に留め京師に至らせなかった。莽の長子・宇は莽が衛氏を隔絶することが帝の成長後に怨みを招くと恐れ、呉章と謀り夜に莽の邸の門に血を塗り鬼神の戒めに見せかけ莽を懼れさせようとしたが、章はこれに乗じて莽の咎を説こうとしていたところ事が発覚し、莽は宇を殺し衛氏を誅滅し関係した死者は百余人に及んだ。章は腰斬に処され屍は東市の門で磔にされた。
  • 章は当世の名儒として教授が盛んで弟子千余人があったが、莽は彼らを悪人の党として禁錮し仕宦させないこととし、門人は皆改めて他の師を仰いだと言い章の弟子であることを隠した。しかし敞は当時大司徒掾であったが自ら吳章の弟子であると名乗り出て、章の屍を抱き取って棺に収め葬った。京師はこれを称えた。車騎将軍王舜はその志節を高く評し欒布(旧主の屍を収めた漢初の忠臣)になぞらえ、表奏して掾に取り立て中郎諫大夫に推挙した。莽が簒位すると王舜は太師となり再び敞が輔職に足る人物として推挙したが敞は病により免ぜられた。唐林は敞が郡を典めるに足ると言い魯郡大尹に抜擢された。更始の時、安車で徴され御史大夫となったが再び病により免ぜられ家で没した。

史論

  • 賛にいう。昔、仲尼は「中行を得られなければ狂狷を思う」と言った(中庸の人を得られなければ進取的な狂者か節を守る狷者と共にありたいの意)。楊王孫の志を見れば秦始皇よりはるかに賢明である。世は朱雲の名声を実像以上に伝えるが、孔子の「知らずして作る者もあるだろうが、私にはそれがない」(実のない述作をしない意)の言のとおり、実に即して記すべきだろう。胡建は敵に臨んで武を断行し外にあって明を昭らかにし姦隙を斬伐して軍旅を落とすことがなかった。梅福の言は『詩』大雅に合い「老成の人はなくとも典刑(先例)はある」「殷の鑑遠からず、夏后の世にあり」との言のとおり、武王が殷に克った故事に倣い、秦が二周を滅ぼし六国を夷らげて後を立てなかったために滅んだことを鑑戒とすべきだと説いたものだ。福はついに好むところに従い性を全うし市門に隠れた。云敞の義は呉章に対する行いに著れており、「仁を為すは己に由る」との言のとおり、再び大府(大司徒府・車騎将軍府)に入った。清ければ纓を濯う(『楚辞』漁父の歌)道理のように、遠く隔たったものではない。