漢書卷六十七 楊胡朱梅云傳第三十七 梅福

孔子の後裔を封じ王氏を戒めよと訴える

  • 梅福は字を子真といい九江寿春の人である。若くして長安に学び『尚書』『穀梁春秋』に明るく郡の文学として南昌尉に補された。のち官を去り寿春に帰り、しばしば県道(駅路)を通じて非常の変事を上言し、小車の伝馬を借り行在所に赴き急政を条ごとに対じたが、そのたびに報われず罷められた。
  • 当時成帝は大将軍王鳳に委任し、鳳は権勢を専らにし朝を擅にしており、京兆尹王章は素より忠直で鳳を譏刺したため鳳に誅された。王氏はますます盛んになり災異がしばしば現れたが群下は誰も正言しなかった。福は再び上書し「箕子は殷で狂を装いながら周のために洪範を陳べ、叔孫通は秦を逃れ漢に帰りその儀礼制度を制作した、叔孫先生は不忠だったのではなく、箕子も家を疎んじ親に叛いたのではない、そう単純には言えない、昔、高祖は善を納れることに及ばぬかと恐れ諫めを聞くこと転がる丸のように容易く、言を聴くにその能を求めず功を挙げるにその素性を問わなかった、陳平は亡命の身から謀主となり韓信は行陣から抜擢され上将軍に立てられ、天下の士は雲のごとく集まり漢に帰した、奇異を争って進み知者は策を尽くし愚者は慮を尽くし勇士は節を極め怯夫は死を勉め、天下の知と威を合わせたからこそ秦を挙げるに鴻毛のごとく楚を取るに遺物を拾うがごとくであった」と述べた。
  • 「これが高祖が天下に敵なきに至った所以で、孝文皇帝は代谷から起こり周召の師も伊呂の佐もなかったが高祖の法に循い恭倹を加え天下はほぼ平らかとなった、これより言えば高祖の法に循えば治まり循わなければ乱れる、秦が無道であったのは仲尼の跡を削り周公の軌を滅ぼし井田を壊し五等の礼を廃し楽を崩し王道が通じなかったからで、王道を行おうとする者はその功を致せなかった、孝武皇帝は忠諌至言を好み、爵を出すに廉茂を待たず慶賜するに顕功を要さなかった、これにより天下の布衣が各々志を励まし精を竭くし闕廷に赴き自ら鬻ぐ者は数え切れず、漢家が賢を得たことこの時が最も盛んであった」と述べ、「もし孝武皇帝がその計を聴用していれば太平は致せたはずだが、実際には積尸暴骨で胡越に快心を求め、淮南王安が隙に乗じて起った、しかしその謀議が漏れたのは衆賢が本朝に集まり大臣の勢が陵ぎ淮南に和従しなかったからだ」と論じた。
  • さらに「今、布衣が国家の隙を窺い間を見て起こる者が蜀郡に現れ、また山陽の亡徒蘇令の一味が名都大郡を跋扈し党与を求めながらも逃げ隠れる気がないのは、皆大臣を軽んじ畏憚するところがなく国家の権が軽んじられているため匹夫が上と権威を争おうとするのだ、士は国の重器で士を得れば重く士を失えば軽い、『詩』に『済済たる多士、文王以て寧し』とある通りだ、廟堂の議は草莱の身が言うべきではないが、臣は身が野草に埋もれ屍が卒伍と並ぶことを恐れるからこそしばしば上書して求見しては罷められている」と述べ、斉桓公が九九(算術)を持って謁見を求めた者を拒まなかった故事、秦の武王が力士の任鄙を関で叩いて自ら売り込ませた故事、繆公が覇を行った故事を挙げ、「陛下が三度臣を拒まれたのは天下の士が集まらぬ所以だ、上書して求見する者を尚書に送り言うことを問わせ、採るべき言があれば升斗の禄・一束の帛でも与えれば、天下の士は憤懣を発し忠言嘉謀が日々上に聞こえ国家の条貫表裏が明らかになるだろう」と説いた。
  • 「四海の広さ士民の数多さに比べれば言葉巧みな者は多いが、儁傑にして世を指し政を陳べ文章を成し先聖に質して謬らず当世に施して時務に合う者はごく僅かだ、爵禄・束帛は天下の底石(砥石)であり高祖が世を厲まし鈍を摩いた所以であり、孔子の『工が事を善くしようとすればまず器を利くする』の言のとおりだ、しかし秦は誹謗の網を張って漢のために除けを作ったに過ぎず、泰阿の剣を倒さに持って柄を楚(陳勝・項羽)に授けたようなもの、誠にその柄を失わなければ天下に不順があっても敢えてその鋒に触れる者はない、これが孝武皇帝が地を辟き功を建て漢の世宗となった所以だ」と述べた。
  • 「今、覇道に循わず三代の選挙法で当時の士を取ろうとするのは、伯楽の図を見て市で騏驥を求めるようなもので得られないことは明らかだ、故に高祖は陳平の過ち(嫂と通じ賄賂を受けた噂)を棄てその謀を得、晋の文公は周の天王を召し(河陽の狩の名目で天子を朝見させた)、斉の桓公はその仇(管仲)を用いた、時に益がなければ順逆を顧みない、これが覇道というものだ、一色で成る体を純白と言い黒白が雑じるを駁という、太平の法をもって暴秦の余緒を治めようとするのは、郷飲酒の礼で軍市を理めようとするようなものだ、今、陛下は天下の言を納れず加えて戮を行っている、鳳凰が害を遭えば仁鳥(鸞鳳)も飛び去り、愚者が戮せられれば知士は深く退く、近頃愚民の上疏が急でない法に触れ廷尉に下され死ぬ者も多い、陽朔以来天下は言うことを憚り朝廷はとくに甚だしい」と述べ、「群臣は皆上意に従うのみで正を執る者がいない、それを証すには、陛下が善しとする民の上書を試みに廷尉に下せば必ず『言うべきでないこと、大不敬』とされるだろう、これで一目瞭然だ」と述べた。
  • 「故京兆尹王章は資質忠直で面と向かい廷争を敢えてし孝元皇帝は彼を抜擢し具臣(無為の臣)を励まし曲がった朝廷を正させたが、陛下の代に至り妻子にまで戮が及んだ、悪を悪むはその身にとどめるべきで王章に反畔の罪があったわけではないのに家にまで殃を及ぼしたのは直士の節を折り諌臣の舌を結ぶことになる、群臣は皆その非を知りながら争わず、天下が言うことを戒めとするのは国家の最大の患いだ、陛下は高祖の軌に循い亡秦の路を杜ぎ、しばしば十月の歌(『詩』小雅十月之交、后族の盛んすぎることを刺る詩)を御覧になり、亡逸の戒(周公が成王を戒めた篇)に留意し、不急の法を除き諱む所なき詔を下し博く覧ね兼ね聴き疏賤の者にも謀を及ぼし、深き者を隠さず遠き者を塞がぬこと、これがいわゆる『四門を辟き四目を明らかにする』ことだ」と述べ、「不急の法は誹謗の微なるものに過ぎない、往くものは及ばずとも来るものはなお追える、今、君命が犯され主威が奪われ外戚の権が日々隆んになっているのに陛下はその形を見ておられない、どうかその影(兆し)を察してほしい、建始以来の日食・地震は率にして『春秋』の三倍、水害も比べるものがないほどだ、陰盛陽微で金鉄が飛ぶ怪異まで起きている、これは何の兆しか」と述べた。
  • 「漢が興ってより社稷は三度危うくなった、呂氏・霍氏・上官氏はいずれも母后の家だ、親を親しむ道は全うすることが上策であり、賢師良傅を与えて忠孝の道を教えるべきなのに、今は逆にその位を尊寵し斗の柄(権力)を授け驕逆に至らせ夷滅させている、これは親を親しむ大義を失うものだ、あの賢明な霍光ですら子孫の慮りを尽くせず権臣が世を易えれば危うくなった、『書』に『火の始め庸庸たるが若きこと毋かれ』とある、勢いが君に陵ぎ権が主に隆んになってから防いでも間に合わない」と述べたが、上はついにこの言を納れなかった。
  • 成帝が長く後嗣を得られなかったため、福は三統(夏殷周の後を各々存続させる制度)を建て孔子の子孫を殷の後継として封じるべきだと考え、再び上書した。「臣は聞く、その位にあらざれば其の政を謀らずというが、位は職、位卑くして言高きは罪である、しかし職を越え罪に触れても危言を世に憂え、たとえ伏質(斬刑)で身首が分かれても構わないというのが臣の願いだ、職を守り言わず生涯を終え死しても屍が腐らぬうちに名が消えるのでは、たとえ景公のような位で歴(車馬)千駟を伏しても臣は貪らない」と述べ、「文石の陛に登り赤墀の道を渉り戸牖の法坐に当たり、平生の愚慮を尽くし時に益なく世に遺すことがないなら、これが臣の寝食を安んじられぬ理由だ、陛下、深く臣の言を省みてほしい」と訴えた。
  • さらに「人を存するは自ら立つ所以、人を壅ぐは自ら塞ぐ所以、善悪の報いはその事のとおりだ、昔、秦は二周(東周・西周の君)を滅ぼし六国を夷らげ隠士を顕さず佚民を挙げず三統を絶ち天道を滅ぼした、ゆえに身は危うく子は殺され孫は嗣がなかった、これがいわゆる人を壅いで自ら塞いだ例だ、武王は殷に克ってから車を下りる間もなく五帝の後を存し殷を宋に封じ夏を杞に継がせ、三統を明らかにし独り有するにあらざることを示した、これにより姫姓は天下の半ばを占め遷廟の主は戸から溢れるほど広まった、これがいわゆる人を存して自ら立つ例だ、今、成湯の祀は絶え殷人に後がない、陛下の継嗣が久しく微いのはおそらくこのためだろう」と述べた。
  • 「『春秋』に『宋、その大夫を殺す』とあり『穀梁伝』は『名姓を称さないのはその祖の位にあり尊んだためだ』と説く、これは孔子がもと殷の後裔であることを言っている、正統ではなくともその子孫を殷の後として封じるのは礼にかなう、なぜなら諸侯は宗を奪い聖の庶子は嫡を奪う(文王が伯邑考を差し置いて武王を立てた例)というように、孔子は庶子でも殷の後となり得る、伝に『賢者の子孫は宜しく土を有すべし』とある、まして聖人でありかつ殷の後裔ならなおさらだ。昔、成王は諸侯の礼で周公を葬ろうとしたところ皇天が威を動かし雷風で災いを著した(『尚書大伝』の逸話)、今、仲尼の廟は闕里を出ず孔氏の子孫は編戸の民に過ぎない、聖人でありながら匹夫の祀を受けているのは皇天の意にかなわない、陛下が誠に仲尼の素功(無位ながらの功徳)に基づきその子孫を封じられれば国家は必ずその福を得るだろう、また陛下の名は天とともに極まりない、なぜなら聖人の素功に因みその子孫を封じた先例はまだないからだ、後世の聖人が必ずこれを則とし不滅の名となろう、努めるべきではないか」と説いた。福は身分低く疎遠な上に王氏を鋭く譏ったため、結局この訴えも容れられなかった。
  • 初め武帝の時、周の後裔・姫嘉を周子南君に封じ、元帝の時、周子南君を周承休侯に尊び位を諸侯王に次ぐものとし、諸大夫・博士に殷の後を求めさせたが、殷の子孫は十余姓に分散し郡国に散った大家からその子孫を推求しても系統が絶えて紀すことができなかった。当時、匡衡は「王者が二王の後を存するのは先王を尊び三統に通ずるためだが、誅絶の罪を犯した者は絶やして更に他の近親を始封君として王者の始祖を承けさせるべきで、『春秋』の義では諸侯が社稷を守れなくなればその封を絶やす、今、宋国はすでにその統を守れず国を失っている、ならば新たに殷の後を立てて始封君とし上は湯の統を承けさせるべきで、宋の絶えた侯を継ぐべきではない、殷の後を明らかに得ればそれでよい、今の宋の嫡流を推求してももはや久遠で得られず、たとえ嫡を得てもその嫡の先祖はすでに絶えており立てるべきでない、『礼記』に孔子が『丘は殷人なり』と言ったことが先師の共に伝えるところ、孔子の世を湯の後とすべきだ」と論じたが、上はその語が経に合わないとしてこれを見送った。
  • 成帝の時、梅福は再び孔子の後を封じ湯の祀を奉じるべきだと言い、綏和元年、二王の後を立てる際、古文(左氏・穀梁・世本・礼記)を推し合わせ、詔して孔子の世を殷紹嘉公に封じた(詳細は成帝紀にある)。この頃、福は家に居て読書養性を事としていたが、元始中、王莽が政を専らにするに及び、福は一朝にして妻子を棄て九江を去り、以後仙人になったと伝えられた。のちある者が会稽で福を見たといい、姓名を変え呉市の門卒になっていたという。