漢書卷六十七 楊胡朱梅云傳第三十七 胡建

軍法による監軍御史の処断

  • 胡建は字を子孟といい河東の人である。孝武帝の天漢中、軍正丞(軍法官の丞)を守(代行)し、貧しく車馬もなく常に走卒(歩兵)と起居を共にし彼らを慰め名簿を挙げるなど心を得ていた。当時監軍御史が姦を働き北軍の塁垣を穿って賈区(商売の小屋)を作っていた。建はこれを誅そうと走卒に「私はあなた方と共に誅すべき者を誅したい、私が『取れ』と言ったら取り、『斬れ』と言ったら斬れ」と約束した。折しも士馬を選ぶ日、監御史と護軍の諸校が堂皇(壁のない広間)に列座しているところ、建は走卒を率いて堂皇下に趨り拝謁し、堂皇に上って走卒も皆上がった。
  • 建は監御史を指して「あの走卒を取れ」と命じ引きずり下ろすと「斬れ」と命じ斬った。護軍・諸校は皆愕然として理由が分からなかったが、建はすでに成奏(用意した上奏文)を懐に入れており上奏した。「臣が聞くに軍法は武を立てて衆を威し悪を誅して邪を禁じるためのものです。今、監御史は公然と軍の垣を穿って商利を求め私かに士と売買を行い、剛毅の心・勇猛の節を立てず士大夫を率先することもできない、これは道理を大いに失っています、公にせず文吏の議に任せては重法に至りません」と述べ、黄帝李法の「壁塁がすでに定まっているのに穿ち窬(穴を穿つ)て正路によらぬ者は姦人であり、姦人は殺す」との条文を引き、「臣が謹んで軍法を案ずるに、軍正は将軍に属さず将軍に罪あれば既に上聞する定めであり、二千石以下は軍正が法を行うとあります、丞(軍正丞たる私)が法の適用に疑いなくこれを執行することは上に累を及ぼすものではありません、謹んで斬りたる旨を昧死をもって上聞いたします」と結んだ。
  • 詔して「『司馬法』には『国容(平時の礼容)は軍に入れず、軍容は国に入れず』とある、何ゆえ文吏(の議)に頼る必要があろうか、三王のある者は軍中で誓い民に先んじてその慮を成させ、あるものは軍門の外で誓い民に先んじて事に備えさせ、あるものは刃を交える際に誓い民の志を致した、建は何を疑うことがあろうか」と裁可された。建はこれにより名を顕し、のち渭城令となり治績を挙げた。
  • 折しも昭帝は幼く、皇后の父・上官将軍安が帝の姉・蓋主と私通する丁外人と親しかったが、外人は驕慢で怨みを買い、故京兆尹樊福が客に命じ外人を射殺させたところ客は公主の廬に匿われ吏も捕らえられなかった。渭城令の建が吏卒を率いて包囲し捕らえようとすると、蓋主はこれを聞き外人・上官将軍と共に多くの奴客を従え矢を放ちながら駆けつけ吏を追い散らした。主は僕を使い渭城令が游徼(巡回の吏)が公主の家の奴に傷を負わせたことを劾させたが、建は「他に落ち度なし」と報告した。蓋主は怒り建が長公主を侵辱し甲舎(公主の邸)の門を射たと告発し、また吏が奴を殺傷させたことを知りながらこれを避け報告を歪め窮審しなかったと訴えた。
  • 大将軍霍光はこの奏を握りつぶして留めたが、のち光が病むと上官氏が代わって政務を執り、建を捕らえるよう下吏に命じた。建は自殺し、吏民はこれを寃と称え、今に至るまで渭城に建の祠が立てられている。