漢書卷六十六 公孫劉車王楊蔡陳鄭傳第三十六 鄭弘

京房事件で免官

  • 鄭弘は字を穉卿といい泰山剛の人である。兄の昌は字を次卿といい共に学を好み経学・法律・政事に明るかった。次卿は太原・涿郡太守を、弘は南陽太守を務めいずれも治績を挙げ条教法度を後世に伝えられたが、次卿の刑罰は厳しく弘の平明さには及ばなかった。弘は淮陽相に遷り高第で右扶風に入り京師で称えられ、韋玄成に代わり御史大夫となったが六年後、京房との議論に坐して免ぜられた(詳細は京房伝にある)。

史論

  • 賛にいう。いわゆる鹽鐵の議は始元中、文学賢良を徴して治乱を問うたことに始まる。皆、郡国の鹽鐵酒榷均輸を廃し本業(農)を務め末業(商)を抑え天下と利を争わないようにすれば教化が興ると答えたが、御史大夫桑弘羊は「これはむしろ辺境を安んじ四夷を制する国家の大業であり廃すべきでない」と論じ、当時互いに詰難し議論が盛んであった。文(記録)は宣帝の時、汝南の桓寛(字は次公)が『公羊春秋』を治め郎に挙げられ廬江太守丞に至った人物が、博通で文に優れこの鹽鐵の議を推し広げ条目を増して数万言の書を著した(今に伝わる『鹽鐵論』十巻がこれである)。これもまた治乱を究め一家の法を成そうとしたものである。
  • その序に「公卿賢良文学の議を観るに私の聞いていたところと異なる」(孔子の弟子・子張の言に倣った表現)とあり、汝南の朱先生から聞いた話として、当時英俊が並び進み賢良の茂陵唐生・文学魯国万生の徒六十余人が皆闕庭に集まり六蓺の風を述べ治平の原を陳べ、知者はその慮を助け仁者はその施しを明らかにし勇者はその決断を示し弁者はその弁舌を騁せ、齗齗として争い行行として剛強であったと記す。中山の劉子は王道を推し当世を正そうとする彬彬たる弘博の君子であり、九江の祝生は史魚の節を奮い懣を発して公卿を譏り介然として直で撓まず強圉を畏れぬ人物であった。桑大夫(弘羊)は当世に依拠し時変に合わせ権利の略を論じ、正法ではないとはいえ鉅儒宿学もその理を崩しきれぬ博物通達の士であったが、公卿の柄を握りながら古を師とせず末利に流れ、位にあらざる所に処し道にあらざる所を行い、ついにその身を陥れ宗族にまで及んだ(上官桀との謀反に誅された事を指す)。
  • 車丞相(千秋)は伊尹・呂尚に列する立場にありながら要職にあって囊を括って言わず容身して去った(『易』坤卦「囊を括る、咎なく誉れなし」の意)、「彼哉彼哉」(取るに足らぬ者だ、との孔子の評言)と評される。丞相・御史の両府の士で正議をもって宰相を輔けられず同類・同行に阿り意に迎合して上を悦ばせるだけの者どもは、斗筲の徒(度量の狭い小人)に過ぎず数えるにも値しない。