漢書卷六十六 公孫劉車王楊蔡陳鄭傳第三十六 劉屈氂
戾太子討伐と誅死
- 劉屈氂は武帝の庶兄・中山靖王の子である。どのような経緯で登用されたかは詳らかでない。征和二年春、詔で「故丞相賀は旧故を恃み高位に乗じて邪を為し、美田を興して子弟賓客を利し元元を顧みず辺の穀を益することもなく、賄賂が上流に流れることを朕は久しく忍んできたがついに自ら改めなかった」と非難し、涿郡太守の屈氂を左丞相とし丞相長史を両府に分けて天下遠方からの選抜に備えさせ、親を親しみ賢を任ずるのは周唐の道であるとして澎戸二千二百を封じて澎侯とした。
- その秋、戾太子が江充に讒言されて兵を発すると、丞相府に兵が入り屈氂は身一つで逃げ印綬を失った。当時上は甘泉宮で避暑しており、丞相長史が急使でこれを報告すると、上は「丞相は何をしていたか」と問い「密かにしていて発兵を敢えてしなかった」と答えると、上は怒って「事はこれほど紛糾しているのに何が密かにだ、丞相には周公の風がない、周公は管蔡を誅さなかったか」と詰り、丞相に璽書を賜り「反者を捕らえ斬る者には賞罰がある、牛車を楯とし短兵を交えず士衆を多く死傷させぬようにせよ、城門を堅く閉じ反者を出すな」と命じた。
- 太子はすでに江充を誅した後、兵を発し帝が甘泉で病困していると宣言し変事があり姦臣が乱を作ろうとしていると訴えた。上は甘泉から城西の建章宮に来幸し、三輔近県の兵を発し中二千石以下を統率させ丞相にも兼ねて将とさせた。太子もまた使者に詔を矯めさせ長安中の都官の囚徒を赦し武庫の兵を発し、少傅石徳・賓客張光らに分担させ長安囚人の如侯に節を持たせ長水・宣曲の胡騎を発せしめたが、装備が整ったところで侍郎莽通が長安に来ていた如侯を追い捕らえ、胡人に「節は詐りだ、聴くな」と告げさせ如侯を斬って騎を引き入れた。また輯濯士(船の漕ぎ手)を大鴻臚商丘成に発した。もとの漢の節は純赤であったが太子が赤節を持っていたため、黄色の旄を加えて区別した。
- 太子は北軍を監督する使者・任安に北軍の兵を発するよう求めたが、任安は節を受けながら軍門を閉じて応じなかった。太子は兵を引いて長安四市の民数万を駆り集め長楽宮西闕下で丞相軍と合戦し五日にわたり死者数万、血が溝に流れ込むほどであった。丞相軍が次第に優勢となり太子軍は敗れ南へ逃れ覆盎城門から脱出したが、折しも夜、司直の田仁が城門の警備を担当しており太子の脱出を許した罪に問われ丞相が仁を斬ろうとしたところ、御史大夫暴勝之が「司直の吏は二千石、先に上奏すべきなのに擅に斬るのはいかがなものか」と諌め丞相は仁を釈放した。上はこれを聞いて激怒し御史大夫を吏に問責させ「司直が反者を放ったのを丞相が斬ろうとしたのは法にかなう、大夫はなぜ擅にこれを止めたのか」と詰めると、勝之は恐懼して自殺した。北軍使者任安も太子の節を受け二心を懐いたとして、司直田仁も太子を放ったとして共に腰斬に処された。
- 上は「侍郎莽通は反将如侯を捕らえ、長安の男子景建は通と共に少傅石徳を捕らえた、元功と言えよう。大鴻臚商丘成は力戦し反将張光を捕らえた」として、通を重合侯、建を徳侯、成を秺侯に封じた。太子の賓客で嘗て宮門に出入りした者はみな坐して誅され、太子の発兵に随い反乱に加担した吏士で劫略された者は敦煌郡へ徙された(本心からではなく太子に脅されたゆえの措置)。太子が外にいる間、初めて長安の諸城門に屯兵が置かれ、その二十余日後、太子は湖県で捕らえられた(詳細は太子伝にある)。
- 翌年、貳師将軍李広利が匈奴討伐に出た際、丞相は祖道(送別の祭)を渭橋まで送り、広利と別れる際「君侯(丞相)は早く昌邑王を太子に請うてほしい、もし帝に立てば君侯は長く何の憂いもない」と言われ屈氂は承知した。昌邑王は貳師将軍の妹・李夫人の子で、貳師の娘は屈氂の子の妻であったため二人はともに昌邑王擁立を望んでいた。折しも巫蠱の獄が急を告げる中、内者令の郭穰が、丞相夫人が丞相のたびたびの譴責に対し巫を使い社に祈らせ主上を呪詛する悪言を発し、貳師将軍と共に昌邑王を帝に立てようと祈祷していたことを告発した。有司が奏請し案験すると罪は大逆不道に当たるとされ、屈氂は厨車(食料運搬車)に乗せて市中を引き回された上、東市で腰斬に処され、妻子は華陽街で梟首された。貳師将軍の妻子も収監され、貳師はこれを聞いて匈奴に降り、宗族はついに滅んだ。