漢書卷六十四 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳第三十四 主父偃

主父偃(斉国臨菑の人、?―元朔中)。長短縦横の術を学び晩年に易・春秋・百家を修めたが、諸国を遊学しても容れられず困窮した末、上書により武帝に見出された。諸侯の子弟に地を分けさせる「推恩の令」を献策して諸侯の勢力を削ぎ、朔方郡の設置も進言するなど武帝の政策に大きな影響を与えたが、権勢を恃んで驕り、斉王を自殺に追い込んだ罪により一族もろとも誅された。

年表(2件)
  • 元光元年衛将軍に見えたのち上書し、朝に奏して夕に召見される
  • 元朔中斉王の淫乱を告発したことにより斉相に任じられる

推恩の策と誅族

  • 主父偃は斉国臨菑の人である。長短縦横の術を学び晩年に易・春秋・百家の言を学んだ。斉の諸子(諸侯王の子ら)の間を遊学したが儒生らに排斥され容れられず、家貧しく借財も得られず、燕・趙・中山を北游したがいずれも厚遇されず困窮し、諸侯に頼れる者がないと知り元光元年、西へ関に入り衛将軍(衛青)に見えた。衛将軍はしばしば上に推挙したが上は取り上げず、資用も尽き久しく留まり諸侯の賓客からも厭われたため、闕下に上書し朝に奏し夕に召見された。
  • 述べた九事のうち八事は律令に関するもの、一事は匈奴討伐を諌めるものであった。「明主は切諌を厭わず広く観、忠臣は重誅を避けず直諌する、ゆえに事に遺策なく功は万世に流れる」との前置きで、『司馬法』の「国大なりといえども戦を好めば必ず亡ぶ、天下平らかなりといえども戦を忘れれば必ず危うし」を引き、天下が平定されても春蒐秋獮で戦を忘れぬことの意義を述べつつ、「怒りは逆徳、兵は凶器、争いは末節」であり古の人君の一怒は必ず伏尸流血を招くため聖王はこれを重んじたと説いた。秦皇帝が戦勝の威に任せ六国を併呑し匈奴攻撃を欲したとき李斯が「匈奴は城郭を持たず遷徙して制しがたく、深入りすれば糧食が絶え、その地を得ても利なく民を得ても治めがたい」と諌めたが聞かれず、蒙恬に千里の地を攻めさせ黄河を境としたものの、その地は沢鹵で五穀を生ぜず、天下の丁男を発して北河を守らせ十余年戦死者数え切れず、ついに黄河を越え北進できなかったこと、天下から黄腄・琅邪の沿海諸郡を経て北河に転輸させ三十鍾で一石しか届かず男女とも疲弊し道に死者が相望んだこと、これが天下叛乱の始まりであったことを述べた。
  • 高皇帝が天下を定めた際、匈奴が代谷の外に集まったと聞き撃とうとしたが御史の成が「匈奴は獣のごとく集まり鳥のごとく散じ、追うのは影を掴むようなものです」と諌めたのに聞かず、平城の囲みに遭い後悔して劉敬を遣わし和親を結んだ結果、天下は干戈の事を免れた故事を引き、「師十万を興せば日に千金を費す」との兵法の言を挙げ、秦が数十万の兵を常備しながら単于を破っても得られるのは深い怨みだけで天下の費用に見合わないこと、匈奴の侵略は天性の生業で虞夏殷周も禽獣として畜うだけで課役を課さなかった歴史に鑑みるべきこと、兵が久しければ変が生じ辺境の民が疲弊し将吏が互いに疑い外国と私かに通じるようになる(尉佗・章邯の例)ことを述べ、『周書』の「安危は令の出づる所に在り、存亡は用うる所に在り」を引いて熟慮を求めた。
  • 折しも徐楽・厳安もそれぞれ世務を論じた上書をしており、上は三人を召見し「なぜこれほど遅く会うことになったのか」と述べ偃・楽・安を皆郎中に拝した。偃はしばしば上疏し謁者・中郎・中大夫に遷り一年に四度昇進した。偃は「古の諸侯は地方百里に過ぎず強弱を制しやすかったが、今の諸侯は連城数十・地方千里に及び、緩めれば驕奢淫乱に流れ、急に迫れば強さを恃んで合従し京師に逆らう、法をもって削れば逆節が萌す(前日の朝錯がその例)」と説き、「諸侯の子弟は十数人あっても嫡嗣一人だけが代を継ぎ他は骨肉でも尺地の封もないため仁孝の道が広まらない、陛下が諸侯に推恩の令を出し子弟に地を分けて侯に封じさせれば、人々は望みを得て喜び、上は徳を施す実を得ながら諸国は自ずと分かれ弱まる」と献策し、上はこれに従った。
  • また「茂陵が初めて置かれた今、天下の豪傑・兼并の家、乱衆の民をみな茂陵に徙せば、内は京師を実たし外は姦猾を除ける、これがいわゆる誅さずして害を除く策だ」と説き、上はこれにも従った。衛皇后を尊立させ燕王定国の陰事を発いた功もあり、大臣は皆その口を畏れ賄賂は千金を累ねた。ある者が「あまりに横柄だ」と偃を諌めると、偃は「私は結髪より四十余年学問に遊学したが身は遂げられず、親も子として認めず昆弟も収容せず賓客も見捨てた、私が困窮していた期間は長い、大丈夫は生きて五鼎食を得られなければ死んで五鼎で煮られるまでのこと、私はもう日暮れ(晩年)だからこそ倒行逆施するのだ」と答えた。
  • 偃は朔方の地が肥饒で外は黄河に阻まれ蒙恬が築いた城で匈奴を逐ったこと、内は転輸戍漕を省け中国を広げ胡を滅ぼす本になることを盛んに説いた。上はこの説を公卿に諮ると皆不便だと言い、公孫弘は「秦は嘗て三十万衆を発して北河を築いたが遂に成らず放棄した」と反対したが、朱買臣が弘を論駁し、朔方はついに置かれた。これは元は偃の献策である。
  • 元朔中、偃が斉王の内に淫乱の行いがあると言うと上は偃を斉相に拝した。斉に至ると兄弟賓客を悉く召し五百金を分け与えて責め立て「昔私が貧しかった時、兄弟は衣食を与えず賓客は家に入れなかった、今私が斉の相となると諸君は千里の道を迎えに来る、私は諸君と絶交する、二度と我が門に入るな」と言った。そして人を遣わし、斉王とその姉との姦事を密告させ、王を動揺させた。王は逃れられぬと悟り燕王の運命を恐れて自殺した。
  • 偃はもと布衣の頃、燕・趙を遊学したことがあり、貴顕すると燕の陰事を暴いたため、趙王は偃が自国にも害をなすことを恐れ上書して陰事を告発しようとしたが、偃が朝廷にいる間は憚っていた。偃が斉相として関を出るとすぐ、人を使って偃が諸侯から金を受けていると上書させた。斉王が自殺したとの報を受け、上は大いに怒り偃が王を脅して自殺させたと考え、召して吏に治めさせた。偃は諸侯の金を受けたことは認めたが斉王を脅して自殺させたことは実際にないと弁明した。上は偃を誅するに忍びなかったが、公孫弘は「斉王は自殺し後継なく国は除かれ郡に入った、偃こそ首悪であり偃を誅さねば天下に謝ることができない」と争い、上はついに偃を一族もろとも誅した。偃が貴幸を極めていた頃、賓客は千を数えたが、族滅の際に一人も遺骸を見に来る者はなく、独り孔車のみが収葬した。上はこれを聞き車を「長者」と称した。