漢書卷六十四 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳第三十四 朱買臣

貧窮から会稽太守へ

  • 朱買臣は字を翁子といい呉の人である。家は貧しく読書を好み産業を治めず、常に薪を刈って売り生計を立てた。薪を担いで歩きながら書を誦む姿を妻は恥じ、道で歌うのをやめるよう度々求めたが買臣はますます声高く歌った。妻は去ることを求め、買臣は「私は五十歳で富貴になる、今すでに四十余りだ、お前は長く苦労した、私が富貴になったらお前の功に報いよう」と言ったが、妻は怒って「あなたのような人はいずれ溝の中で餓死するだけ、富貴になどなれるものか」と言い、買臣は引き止められず去らせた。のち買臣は独り道で歌いながら薪を担ぎ墓の間を通っていると、再婚した妻とその夫が墓参りに来ており、買臣の饑寒を見て食を呼んで飲ませた。
  • 数年後、買臣は上計吏に従い卒として重車(荷車)を引いて長安に至り、闕下に上書したが久しく報われず、公車で待詔しながら糧に窮し、上計吏の卒に食を乞う有様であった。折しも同郷の厳助が貴幸を得ていたため買臣を推挙し、召見されて『春秋』を説き楚辞を語ると帝は大いに喜び中大夫に拝し厳助と共に侍中とした。当時朔方を築くことに公孫弘が中国の疲弊を理由に諌めたが、上は買臣に弘を論駁させた(詳細は弘伝にある)。のち買臣は事に坐して免官され、久しくして待詔に召された。
  • 当時東越がしばしば離反しており、買臣は旧東越王が泉山に拠り一人が険を守れば千人も上れない要害だが、東越王が居を南へ五百里移し大澤の中にいると聞き、兵を海に浮かべ泉山を目指し舟を並べ兵を列ねて南へ進めば席巻して破滅させられると献策した。上は買臣を会稽太守に拝し、「富貴になって故郷に帰らねば錦を着て夜歩くようなものだ、お前はどう思うか」と問うと、買臣は頓首して謝辞を述べた。詔して買臣に郡に着いたら楼船を治め糧食・水戦の具を備え、詔書が届き軍が共に進むのを待つよう命じた。
  • 買臣は免官後、待詔の間は会稽の守邸に寄居し食を賄われていたが、太守を拝された後も故の衣を着て印綬を懐に歩いて郡邸へ帰り、上計の日に会稽の吏が群飲していて買臣に気付かなかった。買臣が室に入り守邸と共に食事をしながら少しずつ綬を見せると、守邸が怪しんでこれを引き見ると会稽太守の印であった。守邸は驚いて上計掾吏に知らせたが皆酔って「大げさな噂だろう」と一笑に付した。守邸が「試しに見てこい」と言うと、かつて買臣を軽んじていた故人が見に行き、走り戻って「本当だ」と叫んだ。座は驚き守丞に告げ、皆列を成して庭中で拝謁した。買臣がゆっくりと戸を出ると、長安の厩吏が駟馬車で迎えに来ており、買臣は伝に乗って去った。
  • 会稽では太守が来ると聞き民に道を除かせ県吏が百余乗で送迎した。呉の界に入ると、かつての妻とその夫が道普請をしているのに出会い、買臣は車を止めて後車に乗せ太守の官舎に連れ帰り園中に住まわせ食を給した。一月後、妻は自ら首を吊って死に、買臣はその夫に葬儀の銭を与えた。買臣は故人を皆召して飲食を共にし、かつて恩を受けた者にはことごとく報いた。一年余りして買臣は詔を受け横海将軍韓説らと共に東越を撃破する功を立て、召されて主爵都尉に列し九卿に入った。数年後、法に坐して免官され再び丞相長史となった。
  • 張湯が御史大夫となった当時、買臣は厳助と共に侍中として貴用されていたが湯はまだ小吏で買臣らの前に走り出るような身であった。湯が廷尉として淮南の獄を治め厳助を陥れたことを買臣は怨んでいたが、買臣が長史となると湯はしばしば丞相事を代行し、買臣が素より貴かったことを知って故意に貶め、買臣が湯を見ても座ったまま礼を尽くさなかった。買臣は深く怨み常に湯を死に至らしめようと考え、のち湯の陰事を告発し湯は自殺した。上もまた買臣を誅した。買臣の子・山拊は官が郡守・右扶風にまで至った。