漢書卷六十一 張騫李廣利傳第三十一 張騫

漢中の人。建元年間、月氏との同盟を求め西域へ出発するが匈奴に捕らえられ十三年抑留された末に帰還、西域諸国の情報を初めてもたらした「鑿空」の功で知られる探検家・外交官。のちに烏孫へ再度使者として赴き、漢と西域諸国の通交の基礎を築いた。使者としての旅の後、大行を拝したが間もなく没した。

年表(2件)
  • 建元年間郎として月氏との同盟を求め西域へ出発するが、匈奴に捕らえられ抑留される
  • 元朔六年大将軍衛青に従い匈奴を撃った功により博望侯に封じられる

西域への使者

  • 張騫は漢中の人である。建元年間、郎として、匈奴が月氏王を破りその頭を飲器としたため月氏が逃れて匈奴を怨みながらも共に撃つ味方がいないと言う匈奴の降者の話を聞き、漢は胡を滅ぼそうと使者を通わせようとしたが、その道は必ず匈奴の中を通らねばならなかった。そこで使者を募ると、騫は郎として応募し月氏へ向かうこととなり、堂邑氏の奴・甘父とともに隴西を出て匈奴の地を経た。匈奴に捕らえられ単于のもとに送られると、単于は「月氏はわが北にある。漢がどうして行けようか。私が越に使いを出すとしたら漢は聴くだろうか」と言い、騫を十余年留め妻を与え子まで生ませたが、騫は漢の節を失わず持ち続けた。
  • 匈奴の西に居る間、騫は属官とともに逃れて月氏を目指し数十日西走して大宛に至った。大宛は漢の富を聞いて通交を望んでいたが果たせずにいたため騫を喜んで迎え、事情を聞くと康居への案内を発し、康居はさらに大月氏へ送った。大月氏の王はすでに胡に殺され、その夫人(あるいは太子)が王に立ち、大夏を臣として君臨し、地は肥饒で寇も少なく安楽であり、しかも漢が遠いことから胡への報復の志はなかった。騫は大月氏から大夏に至ったが、ついに月氏の意向を得ることができなかった。
  • 一年余り留まって帰る途中、南山沿いに羌の地を通って帰ろうとしたが再び匈奴に捕らえられ、また一年余り留められた。単于が死に国内が乱れると、騫は胡の妻・堂邑父とともに逃れて漢に帰り、騫は大中大夫、堂邑父は奉使君を拝された。騫は人となり強靭で寛大、人に信を置かれ、蛮夷にも愛された。堂邑父は胡人で弓に優れ、窮した時は禽獣を射て食を給した。出発時百余人であった一行のうち十三年を経て帰れたのは僅か二人であった。騫自身が至ったのは大宛・大月氏・大夏・康居で、さらに伝聞によりその周辺の大国五、六か国について天子に地形・産物を詳しく述べた(詳細は西域伝にある)。
  • 騫は「臣は大夏にいたとき卭竹の杖と蜀の布を見た。どこで手に入れたか尋ねると、大夏の商人は身毒国(インド)で買ったのだという。身毒国は大夏の東南数千里にあり、その俗は土着で城郭に定住し大夏と似るが低湿で暑く、民は象に乗って戦う。国は大水(インダス川)に臨む。私の推測では、大夏は漢から一万二千里、西南に位置し、身毒はさらにその東南数千里にあって蜀の物があるのだから蜀に遠くないはずだ。今、大夏へは羌の中を通れば険しく羌人に嫌われ、少し北へ寄れば匈奴に捕らわれる。蜀から直行するのが道理にかない冦もないだろう」と述べた。天子は大宛・大夏・安息などがみな大国で珍奇な産物が多く土着の風俗が中国に似ながら兵が弱く漢の財物を貴んでいること、その北の大月氏・康居が兵強く賂で誘い義をもって属させれば地を万里広げ幾重にも通訳を重ねて異俗を招き威徳を四海に広げられることを喜び、騫の言を然りとした。
  • そこで蜀・犍為から間道の使者を数路に分けて派遣し、駹・莋・徙・卭・僰の各方面へ各々一、二千里ずつ進ませたが、北方は氐・莋に、南方は巂・昆明に閉ざされ、昆明の族には君長なく寇盗を好み漢使を殺略したため、ついに通じることはできなかった。しかしその西千余里に象に乗る国・滇越があり、蜀の商人が私かに物を売りに赴くこともあると聞き、大夏への道を求めるうちに滇国との交渉が始まった。当初漢は西南夷への通交に費用がかさみ一度中止していたが、騫の言により大夏へ通じられると知り再び西南夷の経略を行った。
  • 騫は校尉として大将軍に従い匈奴を撃ち、水草の在処を知っていたため軍は物資に窮せずに済み、博望侯に封じられた(元朔六年)。その二年後、騫は衛尉として李広と共に右北平から出て匈奴を撃ったが、匈奴に李将軍の軍が包囲され損害が大きく、騫は期日に遅れたため斬に当たるところを贖って庶人となった。この年、驃騎将軍が匈奴の西辺を破り数万を殺し祁連山に至り、その秋渾邪王が衆を率いて漢に降ったため、金城・河西から南山沿い塩沢に至るまで匈奴の姿はほとんど絶えた。その二年後、漢は幕北に単于を撃ち走らせた。
  • 天子はしばしば騫に大夏方面のことを問うた。騫は爵位を失っていたことから答えて言う。「臣は匈奴にいたとき、烏孫王の号は昆莫といい、その父の難兜靡はもと大月氏とともに祁連・敦煌の間の小国にいたが、大月氏に攻め殺され地と民を奪われ、遺民は匈奴に逃れたと聞きました。生まれたばかりの昆莫は傅父の布就翖侯に抱かれて草中に置き去られましたが、狼に乳を与えられ烏に肉を運ばれたため神と信じられ匈奴に持ち帰られ、単于はこれを愛養しました。壮年に至り父の民衆と兵を与えられ数々の功を立てました。当時月氏はすでに匈奴に破られ西の塞王を攻め、塞王は南へ逃れ、月氏がその地に居ました。昆莫は健やかになると単于に父の怨みを報いることを願い出て西に大月氏を攻め破り、大月氏はさらに西の大夏の地へ逃れました。昆莫はその衆を略取して留まり居り兵はしだいに強くなりましたが、単于の死に乗じて匈奴に朝事しなくなりました。匈奴が兵を遣って撃っても勝てず、ますます神として遠ざけるようになりました」と述べ、「今、単于は漢に新たに困窮させられており、昆莫の地は空いて蛮夷は故地を恋しがりまた漢の物を貪っています。この機に烏孫を厚く賂して東の故地に招き居らせ、漢は公主を夫人として送り兄弟の誼を結べばその勢いは漢に従うでしょう。そうなれば匈奴の右腕を断つに等しく、烏孫と連なれば西の大夏なども招いて外臣とできましょう」と説いた。天子はこれを然りとし、騫を中郎将として三百人・馬各二匹・牛羊数万・金幣数千鉅万を持たせて烏孫に遣わし、多くの副使に節を持たせ道すがら旁国へも遣わした。
  • 騫は烏孫に至り天子の意を告げたが、その返答を得ることはできなかった(詳細は西域伝にある)。騫はさらに副使を大宛・康居・月氏・大夏へ分遣し、烏孫の使者数十人・馬数十匹とともに帰り、天子への謝礼を兼ねて漢の広大さを窺わせた。騫は帰って大行を拝したが一年余りで卒し、その死後一年余りして、遣わした副使が連れてきた大夏方面の使者たちが漢に到着し、ここに西北の国々が漢と通じ始めた。騫が初めて道を開いたことを「鑿空」と呼び、以後の使者は皆博望侯の名を外国への信用の証とした。その後、烏孫はついに漢と婚を結んだ。
  • はじめ天子が易を発して占うと「神馬は西北より来る」と出、烏孫馬を得て「天馬」と名づけたが、のち大宛の汗血馬を得るとさらに壮んなりとして烏孫馬を「西極馬」、宛馬を「天馬」と改めた。漢は令居以西に長城を築き酒泉郡を初めて置いて西北諸国との通交を図り、安息・奄蔡・犛靬・条支・身毒国へ使者を増発した。天子が宛馬を好んだため使者は道に相望むほどとなり、一行は多いもので数百人、少なくても百余人、持参する物は博望侯の頃を大きく上回った。その後は使わされること自体に慣れ人数が減っていったが、一年に多い時で十余、少なくても五、六の使節団が出て、遠国へは八、九年、近国へは数年で帰った。
  • 当時漢はすでに南越・蜀を平定し、通交した西南夷は震え、牂柯・越巂・益州・沈黎・文山の各郡を置いて地を大夏まで接続しようとし、年に十余の使節をこの新設の郡から発したが、いずれも昆明に閉ざされて殺され幣物を奪われた。漢は兵を発して昆明を撃ち数万を斬首したが、その後さらに使者を送ってもついに通じなかった(詳細は西南夷伝にある)。騫が外国への道を開いて以来、その吏士は競って外国の奇怪な利害を上書し使者となることを求めた。天子は絶遠の地であり誰もが楽しんで行きたがるものではないためその言を聴き、節を与えて吏民を募り出自を問わずに遣わして道を広げさせた。しかし帰還者の中には幣物を盗んだり天子の意に背いたりする者も絶えず、朝廷はこれに慣れて改めて重罪に問い直しては贖罪に功を求めさせ、使いになる者が後を絶たない一方で法を軽んじる者も多かった。吏卒もまた外国の産物を誇張して言い、大きく言う者には節を、小さく言う者には副使を与えたため、妄言・無行の徒がこぞって効い、官物を私用して安く買い付け利を得ようとした。外国もまた漢使を厭い、人ごとに言うことが軽重定まらず、漢兵が遠くて至れないと見て食物を絶って漢使を苦しめたため、漢使と外国の間で責め合い攻撃し合うようになり、道の要衝にある楼蘭・姑師のような小国は漢使を攻め劫かすことが甚だしく、匈奴の奇兵もしばしばこれを遮撃した。使者たちは口々に外国の利害を言い立て、いずれも城邑を持つが兵は弱く撃ちやすいと言うので、天子は従票侯趙破奴に属国騎と郡兵数万を率いさせて胡を撃たせると胡は皆去り、翌年には姑師を撃破し楼蘭王を虜にし、酒泉から玉門に至るまで亭鄣を連ねた。
  • 大宛など諸国も使者を漢使に随行させて漢の広大さを観に来させ、大鳥の卵や犛靬の眩人(幻術師)を漢に献じた。天子は大いに悦び、漢使は黄河の源を窮め、その山に玉石が多いことから採取して持ち帰った。天子は古図書に照らし河の出る山を昆侖と名づけたという。当時、上はしばしば海上を巡狩し、外国の客が来ればその都度財帛を散じ厚く賞賜して漢の富厚を示し、角氐(角抵の見世物)や奇戯・怪物を多く集めて観覧させ、酒池肉林の饗応をして倉庫府蔵を巡覧させ漢の広大さを誇示した。その眩者の技も年々巧みになり、この頃から外国使は絶えず往来するようになったが、大宛以西の国々は遠さを恃んで驕り、なお礼をもって靡かせて使うことは難しかった。
  • 漢使のうち経験の浅い者は天子に美事のみを進言する傾向があり、大宛には貳師城に善馬があるが漢使に見せようとしないと言う者があった。天子は宛馬を好んでいたためこれを聞いて渇望し、壮士車令らに千金と金馬を持たせ宛王に貳師城の善馬を求めさせたが、宛は漢の物資に不足しておらず、漢は遠く道中の困難も多いことから兵を送っても宛を破ることはできまいと考え、馬を与えなかった。漢使は怒って金馬を打ち壊して立ち去ると、宛の中貴人が「漢使はわれらを軽んじる」と怒り、東辺の郁成王に命じて漢使を遮り殺させ財物を奪わせた。天子は激怒し、かつて宛に使いした姚定漢らが宛兵は弱く漢兵三千で強弩を用いれば破れると言ったこと、また浞野侯趙破奴が七百騎で楼蘭を先取した実績があったことから、寵姫李氏の兄弟を侯にしたい思いもあって李広利を将軍とし宛を討たせた(張騫の孫・猛は字を子游といい俊才があったが、元帝の時に光禄大夫として匈奴への使いに給事中を兼ね、石顕に讒言され自殺した)。