九女の説と鳳への諫言
- 欽は字を子夏といい、若くして経書を好んだが、家が富み片目が見えなかったため吏となることを好まなかった。茂陵の杜鄴は欽と同姓同字(ともに子夏)で、共に才能をもって京師に称され、士大夫は欽を「盲杜子夏」と呼んで鄴と区別した。欽は疾を理由に貶められるのを嫌い、高さ僅か二寸の小冠を作ったため、京師の人々は改めて欽を「小冠杜子夏」、鄴を「大冠杜子夏」と呼んだ。
- 当時、帝の舅である大将軍王鳳は外戚として輔政し賢才を求めていた。鳳の父・頃侯禁は欽の兄・緩と親しかったため、鳳は欽の才能を深く知り、大将軍軍武庫令に奏請した(閑職で欽の好むところであった)。欽は人となり深謀の士であった。成帝が太子であった頃から好色で聞こえ、即位後皇太后が良家の女を採る詔を下すと、欽はこれに乗じ大将軍鳳に説いた。礼では一娶九女が陽数を極め嗣を広め祖を重んずる所以であり、必ず郷里に窈窕の女を広く求めて華やかな容色を問うべきでなく、娣姪が欠けても補わないことが寿を養い争いを塞ぐ所以であるとし、后妃の徳が寿夭・治乱の端であることを『周書』逸篇や晋の献公と申生の故事、『詩』小弁などを引いて説き、九女の制を今こそ立てて万世の法とすべきで、女色に溺れず淑女の質のみを求めるべきだと諫めた。鳳はこれを太后に告げたが、太后は故事に無いとして退け、欽は重ねて言わなかった。
- その後、日蝕・地震の変異が起こり、上は賢良方正・直言極諫の士を挙げさせると、合陽侯梁放が欽を推挙した。欽は対策で、日蝕地震は陽微陰盛の兆であり、臣は君の陰、子は父の陰、妻は夫の陰、夷狄は中国の陰であるとし、『春秋』に日蝕三十六・地震五の例があることを引き、今回の変異は「おそらく後宮に因るものだろう」と論じた。日が戊申・未の刻に蝕し、未は土性で中宮の部にあたり、その夜未央宮殿中で地震があったことから、これは嫡妾が寵を争い害をなそうとする兆であるとし、殷の高宗が雊雉の戒めに応じて身を正し百年の寿を得て殷道を復興させた故事、宋の景公が至誠によって熒惑を退けた故事を引き、陛下が后妾を正し女寵を抑え、奢泰を防ぎ佚遊を去り倹約を親しみ万事を節すれば咎異も消えるだろうと説いた。夏、上が直言の士を白虎殿に召して対策させると、欽は、天道は信を貴び地道は貞を貴ぶこと、王者は天地に法り仁義を広め身を正すべきこと、孝が万行の先であること、人を観るには本行・功能・挙用・富・窮・不取・行為・依拠する所を見るべきこと、殷が夏の質を、周が殷の文を承けたように漢は周秦の弊を承けているのだから文を抑え質を尚ぶべきことなどを論じた。そして玩色に厭くことがなければ好憎の心が生じ、寵愛が一人に偏れば嫡妾の争いと嫉妬を招くと重ねて説いた。
- 欽はこの一件で病を得て帛を賜り退けられたが、のち議郎となり、また病により免ぜられた。のち徴されて大将軍幕府に至り、国家の政謀をしばしば鳳とともに計った。名士の王駿・韋安世・王延世らをたびたび推挙し、馮野王・王尊・胡常の罪過を救い解き、絶えた功臣の家の継嗣や四夷の鎮撫にも関わり、当世の善政の多くは欽の発意によるものであった。
- 鳳が専政して権勢が泰重になるのを見て欽はこれを戒め、昔周公は至聖の徳と叔父の親をもってしても管蔡の流言に懼れたこと、穣侯魏冉は昭王の舅として権重かったが范睢の一朝の説によりついに就封を余儀なくされたこと、近く武安侯田蚡も同様に退けられたことを挙げ、三つの事跡は数百年を隔てながら符節を合わせたように似ているとし、周公の謙懼にならい穣侯の威・武安の欲を損い、范睢のような徒に付け入る隙を与えないようにと諫めた。のち再び日蝕があり、京兆尹王章が封事を上って鳳の専権蔽主を訴え退けるべきだと求めたため、天子は感悟し章を召して議論し鳳を退けようとした。鳳は憂懼し、欽は鳳に上疏して謝罪し骸骨を乞わせた。その文辞は哀切で、太后も涕泣して食を廃した。上は幼少より鳳に親しみ倚っていたためついに廃さず、鳳を復して位に就かせた。それでも鳳は慙じて病篤しと称し退こうとしたため、欽はさらに説いた。将軍が輔政十年にして変異により骸骨を乞い自ら咎を負うのは至誠だが、それは無属の臣が去就の節を守るに過ぎず、周公が老いても成周を離れず王室を忘れぬことを示したように、また異姓の臣である仲山甫が斉に就封してもなお宿夜徘徊し去るに忍びなかったように、将軍は主上のために留まるべきだと論じた。鳳はついに復して視事した。
- 上は尚書に命じて京兆尹章を劾奏させ、章は詔獄で死んだ(詳細は元后伝にある)。章の死により衆庶はこれを冤とし朝廷を譏ったため、欽は再び鳳に説いた。章が坐した事は内容が秘されており、吏民は章が素より上言を好んだために坐したのではなく日蝕の対策で何か言うところがあったためと疑っている、章の罪が実際にあったとしても暴かれなければ天下は誤解する、この機に直言極諫の士を挙げ郎従官に意を尽くさせ、主上が言をもって下を罪しないことを天下に示せば流言は消え疑惑も晴れるだろうと説いた。鳳はこれを聴きその策を行った。欽が過ちを補い美事を薦めたことはみなこの類であった。
- 欽は仕官を好まず優游のうちに天寿を全うした。欽の子・昆弟・友属で二千石に至った者はほぼ十人。欽の兄・緩は前に太常を免ぜられ列侯として朝請を奉じたが、成帝の時に薨じた。子の業が嗣いだ。