漢書卷五十九 張湯傳第二十九 張安世

出仕と昭帝擁立

  • 張安世、字は子孺。父の任により郎となり、達筆から尚書での勤務に従事し休暇にも出ないほど職務に専念した。武帝の河東行幸の折、紛失した書三箧の内容を誰も覚えていない中、安世だけがすべてを記憶して復元し、後に発見された原本と照合しても遺漏がなかった。武帝はその才を認め尚書令に抜擢、光禄大夫に昇進。昭帝即位後、大将軍霍光が政を執ると安世の篤実な人柄を重んじた。上官桀父子・御史大夫桑弘羊が燕王・盖主と共謀した謀反事件が誅されると、霍光は朝廷に旧臣が少ないことから安世を右将軍・光禄勲に推挙し副とした。昭帝は詔で「安世は輔政・宿衛に十三年、常に敬んで怠らず国は安寧である、親を親しみ賢を任じるのは唐虞の道」と、安世を富平侯に封じた。

宣帝擁立

  • 昭帝崩御後、大将軍霍光は安世を車騎将軍に転じさせ、共に昌邑王を擁立するが王の淫乱により廃し、霍光と安世が謀って宣帝を擁立した。宣帝即位後の恩賞で安世は「宿衛忠正、恩徳を宣べ勤労を尽くした」として一万六百戸を益封され、その功次は大将軍霍光に次ぐものとなった。安世の子千秋・延寿・彭祖も皆中郎将・侍中となった。

霍光没後の重用

  • 霍光の死後数ヶ月、御史大夫魏相が「大将軍を失った今、功臣を顕彰し藩国を鎮め、大位を空けて権力争いの種を残さぬべき」と上奏し、車騎将軍安世は「孝武皇帝に三十余年仕え忠信謹厚、大将軍と共に国策を定めた重臣」として大将軍に昇格させ、光禄勲の兼任を解いて専念させるべきと進言、さらに子の延寿を光禄勲に推した。安世はこれを恐れて固辞し「老臣は先んじて事を語ることの慎みを欠いた、大位を継ぐには不足、どうか老臣の命を全うさせてほしい」と願ったが、宣帝は「あなた以上に相応しい者がいない」と応じ、数日後、大司馬車騎将軍・尚書事の職に就けた。数ヶ月後、車騎将軍の屯兵を解いて衛将軍とし、両宮の衛尉・城門・北軍の兵を統括させた。霍光の子霍禹が右将軍であったが、大司馬に任じつつ屯兵を解き、実質的に兵権を奪う措置が取られた。その後霍禹は謀反を企て一族が誅されたが、安世はかねて驕り高ぶることを戒める慎重な性格で、孫娘が霍氏の外戚の妻であったため連座を恐れて憔悴し、宣帝がこれを憐れんで赦した。安世はますます謹慎を旨とし、大政が決した後は病と称して退出し、詔が下ると初めて知った振りをして丞相府に問い合わせるなど、自らの関与を朝廷にも悟らせないよう徹底した。推挙した者が礼を言いに来ると「賢を挙げるのに私礼などあってはならない」と怒り以後取り次がず、功高くして昇進しない郎が訴えても表向きは冷淡にあしらいつつ実際には昇進の道を開くなど、権勢を避ける姿勢を貫いた。光禄勲時代、殿上で小便をした酔った郎を処罰しようとした担当者に「盃の水がこぼれたのと変わらぬささいな過ちで罪に問うのか」と諭した逸話もある。

子と兄の恩義

  • 安世は父子ともに尊顕であることに不安を感じ、子の延寿を地方官に出すよう願い北地太守とするが、宣帝が安世の老齢を憐れみ延寿を左曹太僕として呼び戻した。安世の兄張賀はかつて衛太子(戾太子)に仕えたが太子の乱で賓客が皆誅された際、安世が救いを求めて宦刑(腐刑)で命を助けられ、後に掖庭令となった。宣帝が皇曾孫としてまだ幼く掖庭に養われていた頃、賀は太子の無実を悼み曾孫を密かに手厚く養育し、成長すると詩経を学ばせ家財で許妃を娶らせた。賀は曾孫の器量を安世に語ったが、安世は「少主がおられる時期にそのようなことを言うべきでない」と止めた。宣帝即位後、賀はすでに没していたが、宣帝は「掖庭令はかつて私を評していたのを将軍が止めさせた」と安世に語り、賀の恩に報いようと墓を「恩徳侯」の名で守らせる措置を取った。賀の子は早世し孫がなかったため、安世の末子彭祖を賀の養子とした。安世は固辞して守冢の戸数を減らすよう求め、宣帝は「これは私が掖庭令のために行うことで、将軍のためではない」として押し通した。後に賀のために三十家の守冢を置き、賀の弟の子で侍中関内侯の彭祖を陽都侯とし、賀には「陽都哀侯」の諡が贈られた。賀の孤孫霸も七歳で散騎中郎将・関内侯となった。

家風と晩年

  • 安世は父子で列侯となり位が過ぎることを恐れ俸禄を辞退し、詔により都内(官の蔵)に無記名で百万銭単位の張氏の私財が別途保管された。安世は公侯として食邑万戸を得ながら自身は黒色の粗末な服を着、夫人が自ら紡績し、家童七百人にも手仕事をさせ内職で財を殖やし、その富は大将軍霍光を上回った。天子は霍光を尊びつつ内心では安世に親密であった。元康四年、病を得て侯位の返上を願い出るが、宣帝は「先帝以来の大臣として意見を聞きたい、辞するには及ばない」として慰留、安世は無理を押して政務に復帰したが秋に薨去。天子は印綬を贈り軽車・介士を伴う葬送を行い「敬侯」と諡した。子の延寿が侯を継ぐ。

張延寿・張放

  • 延寿はすでに九卿を歴任し、侯国が陳留、別邑が魏郡にあり歳入千余万であったが、功徳もないのに大国を保つことを恐れ、封戸の削減を願い出て平原に移封され戸口はそのままに租税を半減させた。愛侯と諡され、子の勃が侯を継ぐ。元帝即位の茂材推挙で勃が推挙した太官献丞陳湯が罪を得たため封戸を削られたが、湯が後に西域で功を立てたことから「人を知る」と評され「繆侯」と諡された(罪を招いた推挙への皮肉を込めた悪諡)。子の臨が継ぎ、謙倹を旨とし「桑弘羊・霍禹の驕奢による破滅を戒めとしている」と語り、死に際して財産を宗族・故旧に分け薄葬を望んだ。臨は敬武公主を娶り、子の放が継いだ。鴻嘉年間、成帝が武帝の故事に倣い近臣と遊宴を好み、放は公主の子として聡明で寵愛され、皇后の弟平恩侯許嘉の娘を娶ると、成帝は「天子が嫁取りをするかのように」豪奢な邸宅・輿服を賜り、両宮の使者が絶えず千万単位の賞賜が下った。放は侍中・中郎将として平楽の屯兵を監督し、将軍並みの儀を許され成帝の寵愛は殊に厚く、微行のお供で甘泉から長楊・五柞まで随行、闘鶏や競馬に興じる年月が続いた。

張放――失脚

  • 成帝の外戚たちがその寵を害悪視し太后に訴え、太后は成帝がまだ若く行動が乱れがちなことを憂い放を咎めた。しばしば災異が起こると議者はこれを放らの責任に帰し、丞相薛宣・御史大夫翟方進は放の驕慢・奢侈・放縦を上奏。かつて放の家の従者が捕吏を拒み暴力を振るった事件、樂府の官吏との軋轢から従者が官舎を襲撃した事件などが重なり、「放の行いは軽薄で大悪を重ね陰陽を乱す咎がある、臣として不忠の最たるもの」として免官・帰国が求められ、成帝はやむなく放を北地都尉に左遷。数ヶ月で再び侍中に召すが太后の訴えで天水属国都尉に転出させられ、日食が続いた永始・元延年間には長く召還されなかったが璽書での慰問は絶えなかった。一年余り後に召し戻し母(敬武公主)の病を看させ、快復後は河東都尉に。成帝は放を愛しつつも太后・大臣に配慮しやむなく涙ながらに送り出すことを繰り返し、後に再び侍中光禄大夫として召すが、丞相翟方進の再度の上奏で免官・就国となり、五百万銭を賜って国に帰った。成帝崩御の報に放は思慕のあまり哭泣して死んだ。

張安世の子孫の評判

  • 安世の長子千秋はかつて霍禹と共に中郎将として度遼将軍范明友に従い烏桓を撃ち、帰還後の報告で霍光に戦術・地形を問われ、口頭で的確に答え地図まで描いて見せたのに対し、霍禹は文書がなければ答えられず、光は千秋を賢とし禹を不才として「霍氏は衰え張氏が興るだろう」と嘆いたという。その後、実際に霍氏は滅び、張安世の子孫は宣帝・元帝以来、侍中・中常侍・諸曹散騎・列校尉として十余人が仕えた。功臣の家系で金氏・張氏だけが外戚に匹敵する寵遇を保った。放の子純が侯を継ぎ、恭倹を旨とし漢家の制度・故事に通じ敬侯(安世)の遺風を保ち、王莽の時代にも爵位を失わず、建武年間には大司空にまで至り、富平の別郷を改めて武始侯に封ぜられた。張湯家はもと杜陵に居を構えたが、安世・武帝・昭帝・宣帝の各代で陵に付随して移住を繰り返し、三度の移転を経てまた杜陵に戻った。

史論

  • 賛:馮商は「張湯の先祖は留侯(張良)と同祖」と称したが司馬遷は記していないため、真偽は不明として措く。漢興以来、侯となった者は数百に上るが、国を保ち寵を持したことにおいて富平侯(張安世の家系)に及ぶ者はない。張湯は酷烈な吏であったがその身に及んだ咎の一方で賢を推し善を揚げた功があり、それゆえに子孫が栄えたのももっともなことだ。安世は満ちて溢れぬ道を守り、兄賀の陰徳もまた家門を助けたと言えよう。