漢書卷五十八 公孫弘卜式兒寛傳第二十八 公孫弘

菑川薛の人。若くして獄吏を務めるが免官後は貧しく海辺で豚を飼って暮らし、四十を過ぎて春秋の学を学び始めた大器晩成の官僚。対策で武帝に第一と評価されて以来急速に昇進し、丞相に至って平津侯に封ぜられ、丞相が列侯でなくとも封じられる先例を開いた。質素を装いつつ内心は猜疑深く、政敵を陥れる一面もあったが、八十歳で丞相在任のまま没した。

年表(2件)
  • 元光五年再び賢良文学に推挙され、対策で武帝に第一と評価されて博士となる
  • 元朔中丞相に任じられ、列侯でない身で平津侯に封ぜられる(丞相封侯の先例となる)

出自と晩学

  • 公孫弘、菑川薛の人。若い頃獄吏を務めるが罪を得て免官、貧しさから海辺で豚を飼って暮らし、四十過ぎて春秋の学説を学び始めた。武帝即位当初の賢良文学の選抜で、六十歳にして召され博士となるが、匈奴への使いから帰り報告した内容が意に沿わず武帝に無能とされ、病と称して帰郷した。

再登用と対策

  • 元光五年、再び賢良文学が徴されると菑川国は再び弘を推薦、弘は一旦辞退するが国人が固辞せず改めて推挙され、太常のもとに至った。武帝は諸儒に「上古の至治では衣冠を描くだけで犯罪がなく、陰陽調和し天下泰平であった、なぜそのような世が実現したのか。天人の道、吉凶の兆し、禹湯の水旱の由来、仁義礼智の適用、天命の符応について詳しく述べよ」との策問を下した。弘は「上古は爵賞を重んじずとも民は善を勧め、刑罰を重んじずとも姦は止まった、これは上に立つ者が身をもって正しく振る舞い民を信で遇したからだ。末世は爵賞・刑罰を重くしても民が従わないのは、上が正しくなく民を信で遇さないからだ。有能な者に官を任せ無用な言を排し無用な器物を作らせず民の時と力を奪わなければ百姓は富み、有徳者を進め無徳者を退ければ朝廷は尊ばれ、功ある者を上げ功なき者を下げれば群臣は励む――これら八つが治民の根本である。法が義に外れず和が礼に外れなければ民は服し犯さない」と説き、「気は同じくすれば従い声は比すれば応じる、人主が上で徳を和すれば百姓は下で和合する、これが陰陽の調和・五穀の豊作・天下泰平の由来である」と論じた。さらに仁・義・礼・智(術)の四つを治の根本と位置づけ、堯の洪水は禹が治め、湯の旱は桀の余弊であり、天徳に私なく順えば和が起こり逆らえば害が生じると結んだ。この時対策者は百余人あり、太常は弘の答案を下位に評価して奏上したが、武帝はこれを見て第一に抜擢、召見して博士とし金馬門で待詔とした。

再度の上疏と武帝の信任

  • 弘はさらに上疏し「陛下は先聖の位にありながら先聖の民や先聖の吏を得ていない。同じ勢いでも治まりが異なるのは吏の質による」と説き、「周公旦が天下を治めるに一年で変わり三年で化し五年で定まったという、陛下の志次第だ」と結んだ。武帝の下問に対し弘は「愚臣の材は周公に及ばぬが、虎豹馬牛のような制御しがたい獣も馴らせば人に従う、人はなおさら利害好悪に応じて変わりうる、一年で変わるというのはむしろ遅いくらいだ」と答え、武帝はこれを異とした。西南夷の経略が巴蜀を苦しめていた折、弘は視察を命じられ帰って盛んにその無用を論じたが聞き入れられなかった。以後、弘は朝議で自説の端緒だけ示し武帝に選ばせる姿勢を取り、面と向かって議論を挑まなかった。慎重で弁が立ち法律・実務にも儒術で修飾する手腕から武帝に気に入られ、一年で左内史に昇進。主爵都尉汲黯と共に事前に議を約束していても、いざ天子の前では約束を違えて上の意に順うことが多く、汲黯に「斉人は多くが偽り深く、初めは我らと共にこの議を立てながら今皆背くとは不忠だ」と朝廷で詰られた際、弘は「私を知る者は私を忠と見、知らぬ者は不忠と見る」と答え、武帝はこれを是とした。左右の幸臣が弘を謗るほど、かえって武帝は弘を厚遇するようになった。弘は談笑巧みで博識、「人主の病は度量の狭さにあり、人臣の病は倹約せぬことにある」を口癖とし、継母に孝謹を尽くしその喪に三年服した。

西南夷・蒼海・朔方の議

  • 内史を数年務め御史大夫に昇進。この頃、東に蒼海郡、北に朔方郡を置く計画があり、弘はしばしば「中国を疲弊させて無用の地に奉仕するのは廃止すべき」と諫めた。武帝は朱買臣らに命じ朔方設置の利点十策を挙げて弘に反論させたが、弘は一つも答えられず「私は東方の田舎者で理解できていなかった」と謝し、西南夷・蒼海の経略は廃止し朔方に専念することを願い出て許された。

質素と厳しさ

  • 汲黯が「弘は三公の位で俸禄も多いのに布の衾を用いるのは偽りだ」と武帝に告げると、弘は「その通りです、九卿の中で私と親しいのは汲黯のみですが、まさに今日の詰問こそ私の欠点を突いています。三公の身で布の衾とは名を釣ろうとする偽装です。管仲は斉の相として三度嫁ぐ女を娶り君主に匹敵する奢侈をしながら桓公は覇者となり、晏嬰は斉の景公の相として肉を重ねず妾に絹を着せず民に近い質素さで斉を治めた。今、私が布の衾を用いるのは、汲黯の言うとおり誠に狙いあってのこと。ただ汲黯がいなければ陛下がこの言葉を聞くこともなかったでしょう」と答え、武帝はますます弘を賢とした。元朔中、薛沢に代わり丞相となる。従来、丞相は列侯から選ばれるのが常であったが弘には爵がなく、武帝は詔を下し高成の平津郷戸六百五十を弘に与えて平津侯とし、これが後に丞相封侯の先例となった。

人柄の両面

  • 武帝が功業を興し賢良を頻繁に挙げていた頃、弘は自ら挙げられた第一人者として、徒歩から数年で宰相・侯に至った。客館を開き東閤を設けて賢人を招き議論に参画させ、自らは一皿の肉と脱粟の飯のみを食し、故人・賓客には俸禄をすべて分け与え家に余財を残さなかった。しかし内心は猜疑深く外面は寛大でも内は陰険であり、かねて自分と隙のあった者には表面上は善を装いつつ後に必ずその過ちを報復した。主父偃を死に追いやり、董仲舒を膠西へ左遷させたのも弘の力によるものであった。

謙譲の上疏

  • 淮南王・衡山王の謀反事件で党与の追及が急を告げていた頃、弘は重病を患い「功もないのに封侯・宰相の位を得ながら、諸侯の反逆を招いたのは大臣の職責を果たせなかった証だ、病死しては責めを塞げない」と上書し、「天下の通道は五つ(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友)、それを行う徳は仁知勇の三つ。陛下は孝弟を体現し三王に鑑み周道を建て文武を兼ね賢材を招いておられるのに、私は無功の身で列侯・三公にまで抜擢していただきながら能力が及ばず、病を得て報恩を果たせぬ前に、どうか侯位を返上させてほしい」と願い出た。武帝は「古より賞功襃徳は変わらぬ道理、朕は君と共に治めることを思うのみだ、病があるなら養生に努めよ」と返し、牛酒や雑帛を賜って慰留した。数ヶ月で回復し、丞相・御史大夫として六年、八十歳で丞相のまま没した。以後、李蔡・厳青翟・趙周・石慶・公孫賀・劉屈氂と丞相が相次いだが、蔡から慶までの丞相府の客館は荒れ果て、賀・屈氂の代には馬廐や車庫、奴婢の住居に転用されるほどであった。ただ石慶だけは篤実謹厳を貫き相位を全うし、他は皆誅殺の憂き目にあった。

子孫

  • 弘の子度が侯を継ぎ山陽太守となるが、十余年後、詔で徴された鉅野令の史成を都に留めて派遣しなかった罪で城旦の刑に処された。元始年間、功臣の子孫を顕彰する詔で「漢興以来、股肱の位にあって倹約を行い財より義を重んじた者は公孫弘に及ぶ者がない。宰相の位で布の衾と脱粟の飯を用い、俸禄をすべて故人・賓客に施し余財なく、内実の富貴でありながら外面だけ質素を装って虚名を釣る者とは全く異なる」として、弘の子孫のうち嫡流にあたる者に関内侯・食邑三百戸が与えられた。