漢書卷二十七下之下 五行志第七下之下

日食

春秋の日食は242年間で36回記録される。隠公三年二月の日食は、董仲舒・劉向により「戎が周使凡伯を捕えた事件、鄭が隠公を捕えた事件、戴の滅亡、衛・魯・宋での弑逆」の応とされる。以後、桓公三年(衛州吁の弑逆、魯宋の乱、楚の僭称王)、桓公十七年(衛侯朔の出奔と鄭伯突の簒立)、荘公十八年(周室の権威失墜と斉桓公の覇道)、荘公二十五年(狄による邢・衛の滅亡)、荘公二十六年(周室の衰微)、荘公三十年(魯の内乱・両弟の死・狄滅邢)、僖公五年(斉桓の覇道の陰り、諸侯の離反)、僖公十二年(楚の黄滅・狄の侵略)、僖公十五年(晋文公の覇道の予兆)、文公元年(大夫専権・楚の弑逆)、文公十五年(諸侯の弑逆相次ぐ)、宣公八年(楚荘王の強大化)、宣公十年(陳の夏徴舒の弑逆)、宣公十七年(晋・斉の争い)、成公十六年(鄢陵の戦い)、成公十七年(宋魚石の乱、莒斉の併呑)、襄公十四年(衛の孫寗による献公放逐)、襄公十五年(晋の覇権の乱れ)、襄公二十年(陳の内紛)、襄公二十一・二十三年(晋楚の内乱、斉慶封の専権)、襄公二十四年(比年の日食は「陽の絶える」象、六君の弑逆)、襄公二十七年(呉・蔡・莒の弑逆)、昭公七年(楚霊王の簒立、陳蔡の滅亡)、昭公十五・十七・二十一・二十二・二十四・三十一年(周室の内乱、諸侯の混乱)、定公五・十二・十五年(呉楚の争覇、晋の内乱)、哀公十四年(獲麟後)と、それぞれの日食の後に対応する歴史的事件が細かく結び付けられている。晋の叔向・魯の梓慎ら春秋の識者による「六物(歳・時・日・月・星・辰)」を用いた占例、京房易伝による日食の形態(既食・偏食・先後の天候等)ごとの占断の体系も詳述される。

漢代の日食は212年間で53回記録される。高帝三年10月の日食(燕地、後に燕王臧荼・盧綰の反乱)、恵帝七年の日食(呂氏の専権と嗣君詐立の禍)、高后二年・七年の日食(高后自ら「これは我がためか」と忌んだ)、文帝・景帝期の頻発する日食、武帝建元二年の日食(衛皇后の不遇な最期の予兆)、元光元年の日食(陳皇后廃立、淮南・衡山王の謀反)、元狩元年の日食(丞相公孫弘の薨去)、昭帝始元三年の日食(燕地、燕刺王の謀反誅殺)、元鳳元年の日食(昭帝の嗣なき崩御)、成帝建始三年の日食と同夜の未央殿地震(谷永・杜欽が「皇后・貴妾の失節、継嗣の断絶」と解く)、河平・陽朔・永始・元延年間の相次ぐ日食(谷永により酒色・宮室造営・重税などの失政と結び付けられる)、哀帝元寿元年・平帝元始二年の日食まで、歴代の日食とその政治的解釈が列挙される。

日月の乱行

成帝建始元年8月、両つの月が同時に見えた異変は、京房易伝により「婦が強く陰が陽を乗る象、朓(月が日より先に見える)・仄慝(月が日より遅れて見える)」の理論と結びつけられ、劉向・劉歆それぞれが君主の緩急と対応させて論じる。春秋時代は「仄慝」18回、「朓」1回、漢代は「晦の朓」36回で「仄慝」は皆無という統計が示され、劉歆の説の正しさが裏付けられるとする。元帝永光元年4月の太陽が青白く光を失った異変、成帝河平元年正月の連日の異常な太陽の色(赤・黄・黒気を伴う)についても、京房易伝に基づき「君の不徳・讒言の横行・祭祀の不敬」などの兆しとして細かく説かれる。

恒星不見・星隕如雨

荘公七年4月、恒星が見えなくなり夜半に星が雨のように降った。董仲舒・劉向は「列宿は人君、衆星は万民の象、列宿が見えぬのは諸侯の衰微、星の墜落は民が居所を失う兆し」とし、この年斉桓公が興って中国を救った経緯と結びつける。左氏伝は「常星が見えぬのは夜が明るいため、星隕は雨と共にあったため」と解釈し、劉歆は「昼は中国、夜は夷狄の象、常星が見えぬのは中国の衰微」と説く。成帝永始二年2月にも同様の星隕があり、谷永は「三代・秦の滅亡がいずれも婦人・讒言・酒色によるものだった」ことを引いて痛烈に諫めた。

星孛(彗星)

文公十四年7月、彗星が北斗に入った。董仲舒はこれを「悪気の生ずるもの、北斗は大国の象」とし、後に斉・宋・魯・莒・晋で相次いで弑逆が起こった。昭公十七年冬の彗星は大辰(心宿)に現れ「天子の象」とされ、後に周室が大乱し王猛・子朝の擁立争いとなった。哀公十三年冬の彗星は東方に現れ、後に楚が陳を滅ぼし、田氏が斉を簒い、六卿が晋を分割する事態に繋がったとされる。

漢代では、高帝三年7月の彗星(大角に現れる、項羽の覇権喪失の予兆)、文帝後七年9月の彗星(尾・箕から虚・危に及ぶ、呉楚七国の乱の予兆)、武帝建元六年の彗星(淮南王安の謀反、陳皇后の廃立の予兆)と同年の長星(蚩尤旗、四夷征伐の予兆)、元封元年の彗星(東井・三台に現れ、江充の巫蠱の乱の予兆)、宣帝地節元年の彗星(太白に近づく、大将軍霍光の薨去とその後の霍氏誅滅の予兆)、成帝建始元年の彗星(営室に現れ、後宮の懐妊者への害・許皇后の廃立の予兆)、元延元年の彗星(東井から天市に及ぶ大規模なもの、谷永が「上古以来まれに見る大乱の兆し」と評し、後に趙昭儀による皇子殺害、成帝の崩御、王莽の簒国に至る)が記録される。

隕石

釐公十六年正月戊申朔、宋に5個の隕石が落ち、同日6羽の鷁が退きながら宋都を過ぎて飛んだ。董仲舒・劉向はこれを「宋襄公の覇道への企てとその挫折の戒め」とし、石は陰類ながら数は陽(5)で「陰が陽の行いをする」象、鷁は水鳥で退くのは「進もうとして退く」象とする。翌年斉桓公が死に宋襄公が斉を伐ち、後に泓の戦いで敗れ傷を負って諸侯の笑いものとなった経緯が続く(前掲の天文志・史論部分と重なる記述)。左氏伝では宋の内史叔興が「これは陰陽の事であり吉凶の生ずる所ではない、吉凶は人による」と評した逸話も引かれる。

漢代の隕石記録として、恵帝三年、緜諸道に1個。武帝征和四年2月丁酉、雍に2個(晴天に雷鳴のような音が400里四方に響いた)。元帝建昭元年正月、梁国に6個。成帝建始四年正月、槀・肥累に各1個。陽朔三年2月、白馬に8個。鴻嘉二年5月、杜衍に3個。元延四年3月、都関に2個。哀帝建平元年正月、北地に10個、9月虞に2個。平帝元始二年6月、鉅鹿に2個。恵帝から平帝までの隕石は合計11回、いずれも光を伴い雷鳴が轟いたとされ、成帝・哀帝の代にとりわけ頻発したと記す。