漢書卷二十七下之上 五行志第七下之上
思心之不睿
伝に「思心の不睿、これを不聖という。その咎は霿(愚昧)、その罰は常風、その極みは凶短折、その時には脂夜の妖・華の孽・牛禍・心腹の痾・黄眚黄祥、そして金木水火が土を沴う現象がある」とある。人君が寛大でなく貌・言・視・聴の四つが皆失われれば区霿(暗愚)無知となり咎は霿となる。雨旱寒燠もすべて風を本とするため四気が乱れその罰は常風となり、常風は物を傷めその極みは凶短折(人に凶、禽獣に短、草木に折)となる。心が霿昧であれば脂夜の妖(夜に脂のような怪異)が生じ、暖かく風が吹けば螟螣が生じ祼虫(裸虫)の孽が起こり、地気が盛んなら秋冬に木が再び花をつける華の孽が起こり、思心の気が毀れれば牛禍が起こり、人には心腹の病(心腹の痾)が多くなり、土の色である黄の眚祥が現れる。
- 釐公十六年正月、6羽の鶂(水鳥)が退きながら宋の都を過ぎて飛んだ。劉歆はこれを常風の罰とし、宋襄公の区霿自用(頑迷で臣下を容れぬ)、司馬子魚の諫めを聞かず楚と盟を争った応とし、6年後に楚に捕えられたことを6鶂の数に対応させる。京房易伝は各種の風の異変(大風・暴風・逆風など)を政治の失に細かく対応させて説く。
- 文帝二年6月、淮南国の都寿春で大風が民家を壊し人を殺した。劉向は「南越の侵攻に対する淮南王長の暴走、その後の謀反」の応とする。文帝五年、呉で暴風雨が城・官府・民家を壊した事件は呉王濞の謀反の予兆、同年10月、楚国の都彭城で大風が市門を壊し人を殺した事件は楚王戊の淫乱・呉楚の乱の予兆とされる。昭帝元鳳元年、燕の都薊で大風雨が宮中の巨木16本を抜き城楼を壊した事件は燕王旦の謀反発覚の予兆とされる。
- 釐公十五年9月晦(月末)、雷が夷伯の廟を撃った。劉向は「陪臣(大夫)が廟を持つべきでない、季氏の専権の兆し」とし、翌年季友(季氏の祖)が卒し、以後季氏が代々政を執った。成公十六年6月晦、昼が真っ暗になった事件も「陰が陽(君)を制する」象とされ、その冬季氏が公子偃を殺した。
- 隠公五年秋の螟(害虫)は隠公が漁を観る貪利の応、桓公八年9月の螟は鄭伯の貪利の応とされる。荘公六年秋の螟は衛侯朔の復位を巡る諸侯の賄賂の応、文帝後六年秋の螟はその年の匈奴大侵入の応とされる。
- 宣公三年、郊祭の牛の口が傷つき、改めて占った牛も死んだ。劉向は「宣公が公子遂と共謀して子赤を殺して立ち、喪中に娶った区霿昏乱」の応とする。秦孝文王五年の五本足の牛の出現は、始皇の離宮建設の奢侈と滅亡を予兆したとされる。景帝中六年、梁孝王の田猟で背中から足の生えた牛が獲られた事件は、梁孝王の驕奢・苑地建設・爰盎暗殺未遂の応とされる。
- 昭公二十一年、周景王が無射の鐘を鋳ようとした際、楽官泠州鳩は「王は心疾で死ぬだろう」と予言、翌年景王は心疾で崩じた。昭公二十五年、魯の叔孫昭子と宋元公が宴で共に泣き合った故事も、楽祁により「哀楽が逆転するのは喪心の兆し」と評され、その年のうちに両者とも死んだ。
- 昭帝元鳳元年、燕で黄鼠が尾をくわえ王宮の門で舞い続けた事件は燕王旦の謀反発覚と重なる(既出の話が再度引かれる)。成帝建始元年、西北に火のような光と赤黄の砂塵を伴う大風が起こった事件は、大司馬大将軍王鳳の専権開始・五侯(王鳳一族)の封侯と結び付けられ、諫大夫楊宣は「爵土の過制が土気を乱した祥」と評した。哀帝の外戚丁氏・傅氏・鄭氏の六人の列侯化にも同様の異変が伴ったとされる。
- 周幽王二年、涇・渭・洛の三川が皆震えた事件を、太史伯陽甫は「陽が陰に塞がれ水源が涸れる、国の亡兆」と評し、実際に岐山も崩れ、10年を経ずして幽王は褒姒に惑い正后を廃し、申侯・犬戎に殺された。文公九年9月の地震は、斉桓・晋文・魯釐の賢君没後の周襄王の失道・楚穆王の弑逆父殺しなど諸侯の専横の応とされ、後に宋・魯・晋・莒・鄭・陳・斉で相次いで弑逆が起こった。襄公十六年・昭公十九年・二十三年・哀公三年の各地震も、それぞれ諸侯間の盟約の乱れ、大夫の専権、権力闘争の激化に応じたものとされる。恵帝二年正月の地震(隴西で400余家圧死)、武帝征和二年の地震、宣帝本始四年の地震(河南以東49郡、6千余人死亡)、元帝永光三年・成帝綏和二年の地震(京師から北辺郡国30余、415人死亡)も記録される。
- 釐公十四年8月、沙麓(山)が崩れた。劉向は「臣下が離反し上に仕えぬ象」とし、斉桓公の覇道の衰退・管仲の死後の徳の衰えと結びつける。成公五年夏、梁山が崩れ黄河が3日せき止められた。劉向は「山は君、水は陰・民の象、君道の崩壊」とし、後に晋で三卿(郤犨・郤錡・郤至)が誅され厲公も弑された。文帝元年4月、斉楚地方で29の山が同日に崩れ水が噴出した事件は、劉向により「斉楚の王が制度を失う予兆」とされ、後に景帝三年の呉楚七国の乱に繋がった。成帝河平三年・元延三年の犍為・蜀郡での山崩れ・河川氾濫は、劉向により「周の岐山崩壊・三川枯渇が幽王滅亡の前兆であったのと同じ、漢の興った蜀の地での山崩れ・星孛の兆し」とされ、後に王莽の簒位に至った。
皇之不極
伝に「皇の不極、これを不建という。その咎は眊(老いぼれた愚昧)、その罰は常陰、その極みは弱、その時には射妖・龍蛇の孽・馬禍・下人が上を伐つ痾・日月の乱行と星辰の逆行がある」とある。人君の貌・言・視・聴・思の五事がすべて失われ中道を得られなければ万事が眊悖に失し、咎は眊となる。王者が天を承け万物を治めるのに雲が乱れれば罰は常陰となる。上が中を失えば下が強盛になり君の明を蔽い、賢人が下位にあって輔けがなければ極みは弱となる。陽気が微弱で下が奮動すれば射妖が生じ、陰気が動けば龍蛇の孽が生じ、馬(乾=君の象)の気が毀れれば馬禍が生じ、下が上を伐つ痾が生じる。
- 荘公十八年秋、蜮(水辺の妖物)が現れた。劉向は「南越の淫風から生じる妖、荘公が斉の淫女を娶ろうとした戒め」とし、実際に荘公は娶り後に禍を招いた。
- 哀公時代、隼(猛禽)が陳の朝廷で楛矢・石砮を身に貫かれた姿で死んだ故事は、孔子により「昔武王が粛慎に献じさせた矢が陳に伝わっていた由来」と説明され、劉向は「陳の眊乱・不服従、後の楚による滅亡」の予兆とする。
- 夏后氏の衰退期、二龍が朝廷に現れ「我らは褒の二君である」と告げた故事、その涎(漦)が匵に納められ夏から殷・周へと伝わり、厲王の代に開けて婦人に触れさせたところ玄黿と化し、後宮の童女が身籠って産んだ子が捨てられ、後に褒人により献じられた女が褒姒となり、幽王がこれを愛して申后・太子を廃し、ついに申侯・犬戎に殺された故事が詳述される。
- 昭公十九年、鄭の時門外の洧淵で龍が闘った。劉向は「鄭が晋楚呉の間に挟まれ徳を修めねば危うい兆し」としたが、子産の善政により鄭は難を免れた。恵帝二年正月、蘭陵の井戸に二龍が現れ数日で去った事件は、劉向により「龍が井戸で困窮する象、諸侯の幽閉の禍」とされ、後に呂太后が三趙王を幽殺し諸呂も誅滅された。
- 荘公時代、鄭の南門で内蛇と外蛇が闘い内蛇が死んだ事件は、鄭厲公の出奔・復位・子儀殺害という政変の予兆とされた。文公十六年、蛇が泉宮から出て国都に入った事件は、文公の母姜氏の薨去の予兆とされる。武帝太始四年7月、趙で蛇同士が闘い邑中の蛇が死んだ事件は、後の衛太子巫蠱事件(趙人江充が発端)の予兆とされる。
- 定公十年、宋の公子地の白馬を巡る兄弟の争い(景公が馬を奪い地が出奔、弟辰も後を追って出奔し宋に叛いた)は馬禍の類とされる。秦孝公・昭王の代の「馬が人を生む」「牡馬が子を生んで死ぬ」怪異は、秦の武力による天下統一とその後の自滅(趙高・李斯、始皇の出自が呂不韋の子との説)を予兆したとされる。文帝十二年、呉で馬に角が生えた事件は呉王濞の驕慢・謀反の予兆、成帝綏和二年の大厩の馬の角は王莽専権の兆し、哀帝建平二年の三本足の馬駒は董賢の急速な出世と失脚を予兆したとされる。
- 文公十一年、長狄(大男)の兄弟三人がそれぞれ魯・斉・晋で討たれた事件は、周室衰微下の大国の驕りへの戒めとされ、後に三国とも簒弑の禍を被った。秦始皇二十六年、臨洮に身長5丈の大人12人が現れた事件は、始皇の夷狄的な暴虐(焚書坑儒・南北への大規模築城)と、14年後の秦滅亡を予兆したとされる。
- 魏襄王十三年、女が男に変わった事件、哀帝建平中の予章の男が女に変わり嫁いで子を生んだ事件、平帝元始元年の朔方の女趙春が死後に蘇生した事件も、陰陽の転倒・継嗣の異変として記録される。
- 景帝二年9月、膠東下密の老人(77歳)に角が生えた事件は、その年の呉楚七国の乱(膠東・膠西・済南・斉の四王を含む)を予兆したとされる。成帝建始三年10月、9歳の少女陳持弓が未央宮深くまで無断で入り込んだ事件は、王鳳一族の専権の予兆とされる。成帝綏和二年、鄭の男子王襃が絳衣に剣を帯び北司馬門から前殿に入り「天帝が我にここに居れと命じた」と称した事件は、王莽の再登用と簒国の予兆とされる。哀帝建平四年、民が禾稈を持って「行詔籌」と称し西王母を祀り大騒動になった事件は、杜鄴により「傅太后の政への干与、外戚丁氏・傅氏の専横への戒め」と評された。