漢書卷二十七中之下 五行志第七中之下

視之不明

伝に「視の不明、これを不悊という。その咎は舒、その罰は常燠、その極みは疾、その時には草妖・蠃虫の孽・羊禍・目の痾・赤眚赤祥がある。水が火を沴う」とある。上が不明で暗昧に蔽われれば功なき者に賞を与え罪ある者を殺さず百官が廃乱し、その咎は舒(緩み)となる。盛夏の日が長く暑さが物を養うように政が弛緩すれば常燠の罰となり、疾病が民に及べば極みは疾となる。誅罰が行われなければ霜が草を殺さず、これによって草妖が生じる。暑い年には蠃虫(螟・螣の類)の孽が生じ、羊の目が精明でない性質から羊禍が生じ、人には目の病(目痾)が多くなり、火の色である赤の眚祥が現れる。

  • 桓公十五年春、氷が張らなかった。劉向は「連年隣国と戦い再敗した(郎の戦い・宋の戦い)にもかかわらず、内は百姓を失い外は諸侯を失いながら誅罰を行わなかった、鄭の突(厲公)が兄を簒って立ち桓公と相親しんだ」応とし、董仲舒は「夫人(文姜)の不正、陰の失節の象」とする。
  • 成公元年二月、氷がなかった。董仲舒は「宣公の喪の直後に炕陽にも丘甲を興した」応とし、劉向は「成公が幼弱で政が舒緩だった」とする。
  • 襄公二十八年春、氷がなかった。劉向は「三軍設置による侵陵の意、隣国からの13年余の侵伐、飢饉、公の㢮縦(誅罰を行わぬこと)、楚に従う心」の応とする。周は舒(緩み)で衰え、秦は急(厳酷)で滅んだとされ、武帝元狩六年冬、氷がなかった年は逆に大将軍衛青・霍去病の遠征後の慶賞・存問(民への慰問)が行われた年、昭帝始元二年冬に氷がなかった年は霍光の寛緩政治の始まりの年とされる。

草妖の類として、僖公三十三年12月、霜が降っても草を殺さなかった事件があり、劉歆・劉向はこれを公子遂の専権・三桓の世官化の兆しとし、後に子赤が殺され三桓が昭公を逐う事態に繋がったとする。殷の高宗の代、桑と穀の木が朝廷に共生した瑞兆(伊陟の戒めで木は枯れた)、雉が鼎の耳に止まって鳴いた瑞兆(祖己の諫言)の故事も引かれ、いずれも人君が徳を修めれば災いは福に転じる例とされる。僖公三十三年12月、李・梅が季節外れに実を結んだ事件は、劉向により「臣が君の権を専らにする象」、董仲舒により「李梅の実は臣下の彊さ」とされ、公子遂の専権、後の子赤殺害と結びつけられる。恵帝五年10月の桃李棗の異常結実、昭帝時代の上林苑の枯柳が再生し葉に「公孫病已立」の虫食い文字が現れた事件(眭孟が「民間から天子が出る」と解釈し誅死したが、後に民間出身の宣帝=本名病已が即位)、元帝初元四年の王莽の高祖父の墓門の梓柱が芽吹いた事件(王氏の興隆・王莽簒位の予兆とされた)なども同類とされる。成帝永始元年の河南街郵の樗の木に人頭のような枝が生じた事件、哀帝建平三年の汝南の柱が倒れて人形の枝を生じた事件、零陵の巨木が倒れて自ら再び立った事件(京房易伝は「妃后の専寵、木が倒れて立ち直る」の兆しとする)も記される。元帝永光二年・平帝元始三年に草が天から降った事件は、京房易伝により「君が禄を吝み賢を疎んじる」兆しとされる。

  • 昭公二十五年夏、鸜鵒(かささぎ)が来て巣を作った。劉歆は羽虫の孽で黒祥、劉向はこれを「季氏が昭公を逐う兆し」とし、昭公は悟らず季氏を攻めて敗れ斉に出奔し客死した。
  • 景帝三年11月、白頸烏と黒烏の群闘があり、白頸が敗れて泗水に多数落ちて死んだ。劉向は「楚王戊の暴虐、呉楚の乱での敗北」の応とし、実際に王戊は丹徒で越人に斬られた(劉奉世は「墯死したのは呉王濞であり劉向の説は誤り」と指摘する)。
  • 昭帝元鳳元年、燕王宮の池上で烏と鵲が闘い黒い烏が池に落ちて死んだ。燕王旦の謀反発覚と重なる。
  • 昭帝時代、昌邑王賀の殿下に鵜鶘(禿鶖)が集まり、王がこれを射殺した。劉向は「王の驕慢・不敬の応」とし、後に王は廃された。
  • 成帝河平元年、泰山山桑谷で鴟(とび)が巣を焼かれ雛3羽が焼死した事件は、後の趙飛燕の専寵・皇子殺害・成帝の断絶を予兆したとされる。
  • 鴻嘉二年、博士の大射礼で雉が庭に飛来し階を上り堂に登って鳴いた事件は、大司馬車騎将軍王音により「陛下への譴告」と解かれ、その部下寵は成帝に対し「繼嗣が立たず微行を重ねる罪を悔い改めよ」と痛烈に諫めた。
  • 綏和二年、天水平襄でツバメが雀を生んだという怪異が記され、京房易伝は「賊臣が国にあれば燕が雀を生む」とする。
  • 定公時代、季桓子が井戸を掘り羊に似た虫を得た故事(定公が孔子を用いず季氏に惑わされた応、後に家臣陽虎が桓子を捕える事態)、宋の共姫の侍女が赤毛の女児を拾い育てた「棄」の故事(後に伊戻の讒言で太子痤が殺され、宋の名族華氏一族が相次いで出奔した)も記される。
  • 恵帝二年、宜陽で一頃ほどの範囲に血の雨が降った。劉向は「呂氏専権・讒言横行・三皇子誅殺・不当な王の擁立への応」とし、京房易伝は「獄を民に帰し解かねば血の雨」とする。哀帝建平四年にも山陽湖陵で血の雨が降り、後に王莽が丁氏・傅氏・董賢ら外戚大臣を誅滅した。

聴之不聰

伝に「聴の不聡、これを不謀という。その咎は急、その罰は常寒、その極みは貧、その時には鼓妖・魚の孽・豕禍・耳の痾・黒眚黒祥がある。火が水を沴う」とある。君主が偏聴で下情が塞がれば謀慮が利かず咎は急となり、厳冬の寒さが物を殺すように政が促迫すれば常寒の罰となり、百穀が実らず上下ともに貧しくなればそれが極みとなる。君が厳猛で臣が恐れ口を閉ざせば妄聞の気が音声に発し鼓妖が生じ、寒気が動けば魚の孽(魚が水を離れて死ぬ等)が生じ、豕(易では坎に配され耳が大きいが聡くない)の禍、耳の痾、水の色である黒の眚祥が現れる。

庶徴の恒寒について、劉向は「春秋にはその応がない」とし、秦始皇の代の呂不韋・嫪毐の淫乱と専権を例に挙げる(冬の雷は陽気が閉じられない異変、始皇が嫪毐を誅した際に数百人が斬られ大臣20人が車裂きにされ一族が房陵に移された)。桓公八年10月の雨雪は夫人(文姜)の淫行と桓公の妬みの応、釐公十年冬の大雨雪・大雨雹は釐公が妾を夫人に立てた陰の盛んなることの応、昭公四年正月の大雨雪は昭公が同姓の呉から娶った非礼と三桓の専権の応、文帝四年6月の大雨雪はその3年後の淮南王長の謀反の予兆、景帝中六年3月の雨雪はその後の匈奴侵入と条侯周亜夫の獄死の予兆、武帝元狩元年12月の大雨雪は淮南・衡山王の謀反発覚の予兆、元鼎二年3月の大雪は御史大夫張湯の獄死の予兆、元鼎三年3月〜4月の水氷・雨雪は関東の飢饉と占緡銭(財産税)の苛政の予兆、元帝建昭二年11月の斉楚地方の大雪は魏郡太守京房の獄死の予兆、建昭四年3月の雨雪は谷永により「皇后の桑蚕・祭祀への不誠実」と評され、後に許皇后が廃された。定公元年10月の隕霜は季氏が昭公を逐い定公が立った臣下専断の象、釐公二年10月の霜が草を殺さなかった事件は東門襄仲の専権の象とされる。武帝元光四年の隕霜は馬邑の役の失敗とその後30余年の対四夷遠征・人口半減の予兆、元帝永光元年の隕霜は中書令石顕の専権の応とされる。

  • 釐公二十九年秋、大雨雹。劉向は「陽気が盛んな時に陰気が脅かして転じたもの」とし、釐公末年の公子遂の専権と後の子赤殺害に結びつける。昭公三年の大雨雹も季氏専権の象、元封三年・地節四年(雹で20人死亡、飛鳥皆死)・河平二年にも雹害が記録される。
  • 釐公三十二年12月、晋文公の柩から牛のような音がした。劉向は「近い将来の兵禍の兆し」とし、翌年秦穆公が鄭を襲おうとして晋の崤で大敗、以後数世代にわたり秦晋が争い続けた。哀帝建平二年、丞相朱博・御史大夫趙玄の任命の儀で鐘のような大音が響き、李尋・揚雄はこれを「鼓妖」「聴の失」と解き、8月に朱博・趙玄はともに姦謀の罪に問われ朱博は自殺した。
  • 秦始皇八年、黄河の魚が大量に浮き上がった。劉向は「魚の孽、民の逆流の象」とし、翌年嫪毐の誅殺があった。武帝元鼎五年の蛙と蝦蟇の群闘、成帝鴻嘉四年・永始元年・哀帝建平三年の巨魚の出現も、それぞれ南越遠征・海の異変として記録される。
  • 桓公五年秋の螽(イナゴ)、荘公二十九年の蜚(負蠜)、釐公十五年の螽なども、それぞれ諸侯の貪虐・淫乱・軍旅の応として記録され、文公三年の宋の螽害は宋昭公の無実の大夫殺害と暴虐の応、宣公六年・十三年・十五年の螽害は対外遠征の頻発の応、襄公七年の螽害は頻繁な軍事行動の応、哀公十二・十三年の螽害は田賦(重税)の応とされる。宣公十五年冬の蝝(イナゴの幼虫)の発生は初税畝(田畝への課税開始)の応とされる。
  • 景帝中三年の蝗害は匈奴侵入への軍備、武帝元光五・六年、元鼎五年、元封六年、太初元年・三年、征和三・四年の各蝗害はいずれも匈奴・南越・朝鮮・大宛への遠征と結びつけられ、平帝元始二年の蝗害(天下に遍く発生)は王莽の秉政の時期にあたる。
  • 荘公八年、斉襄公が田猟で豕の怪異(公子彭生の亡霊)に驚き車から落ち足を傷めた故事は、後の公孫無知による襄公殺害を予兆したとされる。昭帝元鳳元年、燕王宮の永巷で豕が竈を壊し釜を宮殿前に運んだ事件は燕王旦の謀反発覚と重なる。
  • 周霊王時代、穀水・洛水が争い王宮を毀そうとした事件は、有司の諫言にもかかわらず王が川を塞いだため、後に儋括の簒殺の謀、景王・敬王の代の五大夫による権力闘争(子猛・子朝の擁立争い)に発展した。秦武王三年・昭王三十四年の渭水が赤く染まった事件は、秦の苛烈な連坐法・棄灰黥刑などの厳罰政治への戒めとされ、京房易伝は「君が酒色に溺れ賢人が身を潜めれば流水が赤くなる」と説く。