漢書卷十八 外戚恩澤侯表第六
序文
- 古来、天命を受けた君主や中興の君主は、必ず滅んだ家を興し絶えた世を継ぎ、廃れた官を修め隠れた賢者を挙げてこそ、天下は仁に帰し四方の政が行われた。武王が殷を克ち、車を下りる間もなく賢聖の子孫を存続させたという故事も同じ理である。世は変わってもその原則は一つである。高帝は乱を平定し暴を誅して事業は草創であったが、それでも六国の祭祀を修め、四皓を招き、魏の信陵君の墓を過ぎては敬意を寄せ、趙に至っては楽毅の後裔を封じた。
- 論功行賞にあたっては、爵は功をもって先後を定め、官は能をもって次序を定めた。その後継者たちは恭しく先業を継ぎ、旧臣も踵を接して位にあった。武帝の代になると元功の宿将もほぼ尽き、帝は文学を興し隠逸を抜擢し、公孫弘は海辺の地から身を起こして宰相となり、列侯の爵をもって寵せられた。また前代の賢を求め耆老を訪ね、周の後裔を得てさらに爵邑を加えた。これ以後、宰相はことごとく侯に封じられるようになった。元帝・成帝の頃には殷の後裔も得て賓位に備えた。
- 漢の興りに際し外戚として天下平定に与った者で侯となったのは二人(呂沢・呂釈之)である。誓いには「劉氏にあらざれば王とせず、功なく上の定めるところでないのに侯となる者があれば天下ともにこれを誅せよ」とあった。それゆえ高后が諸呂を王にしようとした際には王陵が廷争し、景帝が王氏を侯にしようとした際にも修侯が色を正して諫めた末に沙汰止みとなった。
- その後、薄昭・竇嬰・上官・衛・霍の一族が功によって爵を受け、その他の后の父は『春秋』が紀を褒めた義に倣い、帝の舅は『詩』大雅の申伯の故事に倣って封ぜられるようになり、次第にその範囲が広がっていった。ゆえにこれを別立てて記すものである。
表本体について
表本体(外戚恩澤侯の名・封国・年月の一覧)は底本に採録されていないため省略する。