漢書卷十二 平帝紀第十二 平帝
孝平皇帝、諱は衎。元帝の庶孫、中山孝王の子で母は衛姫(前9–5年)。三歳で中山王を嗣ぎ、哀帝崩後に九歳で即位。太皇太后が臨朝し大司馬王莽が実権を握って安漢公・宰衡の号を得るなど、王莽簒奪への道が敷かれた治世であった。
出自と生い立ち
- 孝平皇帝(諱は衎)は元帝の庶孫、中山孝王の子。母は衛姫。三歳で中山王を嗣ぐ。元寿二年六月、哀帝崩、太皇太后の詔で「大司馬董賢は年少で衆心に合わない」として印綬を上げさせ、董賢は即日自殺。新都侯王莽が大司馬領尚書事となる。秋七月、車騎将軍王舜・大鴻臚左咸を遣わし中山王を持節で迎える。辛卯、皇太后趙氏(成帝の皇后)を貶し孝成皇后として北宮に退居させ、哀帝の皇后傅氏も桂宮に退居。孔郷侯傅晏・少府董恭(董賢の父)ら免官の上、合浦に徙される。九月辛酉、中山王が皇帝に即位、高廟に謁し大赦。帝は九歳で太皇太后が臨朝し、大司馬王莽が秉政、百官が王莽の意向に従う体制となる。
- 赦令の意義を説き、赦前の事を持ち出して罪を累加することの非を戒め、選挙において歴職更事を難保として廃すことの非を戒める詔。この後、群臣が王莽の功徳を周公に比すとして安漢公・太師の号等を奏し(詳細は莽伝)、天下の民に爵一級、二百石以上の吏に真の秩を賜う。
元始元年(1年)
- 春正月、越裳氏が重訳して白雉・黒雉を献ずる瑞祥、三公にこれを宗廟に薦めさせる。大司馬王莽の功徳を安漢公・太師に比すべしとの群臣の奏、太師孔光らも増封(詳細は莽伝)。天下の民に爵一級を賜う。故東平王雲の太子開明を王に、故桃郷頃侯の子成都を中山王に立てる。宣帝の耳孫劉信ら三十六人を列侯に、太僕王惲ら二十五人(定陶傅太后の尊号に阿らず守法を貫いた者、右将軍孫建、大鴻臚左咸、宗正劉不悪、執金吾任岑、中郎将孔永、尚書令姚恂、沛郡太守石詡ら)を、それぞれ功により関内侯に封ずる。諸侯王・列侯・関内侯で子なく孫や同産の子がある場合の嗣子を認める。宗室で属未尽ながら罪により属を絶たれた者を復す。吏比二千石以上で年老致仕した者に故禄の三分の一を終身給する。義陵の民の冢が陵に妨げない限り発掘しない詔。羲和官・外史・閭師を新設し教化を頒ち淫祀を禁じ鄭声を放つ。夏五月丁巳朔、日食、大赦、公卿将軍中二千石に敦厚直言の士を挙げさせる。六月、少傅左将軍甄豊を遣わし帝の母中山孝王姫に璽書を賜い中山孝王后とする。帝の舅衛宝・衛玄に爵関内侯、帝の女弟四人に君号と食邑二千戸を賜う。周公の後公孫相如を襃魯侯、孔子の後孔均を襃成侯に封じ孔子を襃成宣尼公と追諡。明光宮及び三輔馳道を廃す。女徒で罪の定まった者を帰宅させ顧山銭を給する。
元始二年(2年)
- 春、黄支国が犀牛を献ずる。皇帝の二名(諱)が器物名に通ずることを避け改名する詔。夏四月、代孝王の玄孫の子劉如意を広宗王、江都易王の孫盱台侯劉宮を広川王、広川恵王の曾孫劉倫を広徳王に立て、故大司馬博陸侯霍光の従父昆弟曾孫、陽宣平侯張敖の玄孫張慶忌、絳侯周勃の玄孫、共舞陽侯樊噲の玄孫の子を列侯に復爵。故曲周侯酈商らの後裔百十三人に爵関内侯を賜う。郡国が大旱・蝗害、青州が特に甚だしく、安漢公・四輔・三公卿大夫吏民二百三十人が田宅を献じ貧民を救済。捕蝗した民には石斗により銭を賜う。貲不足の民・被災郡国の租税を免除、疾疫者には空邸第を医薬所とする。死者には葬銭を賜う(六尸以上五千、四尸以上三千、二尸以上二千)。安定の呼池苑を廃し安民県とし貧民を徙し田宅什器・犂牛種食を給する。長安城中に五里・宅二百区を起こし貧民を居らせる。秋、勇武明兵法の郡一人を公車に詣らせる。九月戊申晦、日食、大赦。使者謁者・大司馬掾四十四人を遣わし辺兵を巡視。執金吾候陳茂を遣わし江湖の賊成重らを諭す。冬、中二千石に治獄平の者各一人を挙げさせる。
元始三年(3年)
- 春、皇帝の納采(安漢公王莽の女)の礼を有司に議させる(詳細は莽伝)。光禄大夫劉歆らに婚礼を定めさせ、四輔・公卿大夫・博士・郎吏の家属もみな礼により娶り親迎する。夏、安漢公が車服制度・吏民の養生送終嫁娶奴婢田宅器械の品を奏し、官稷・学官を立てる(郡国は「学」、県道邑侯国は「校」とし経師一人を置き、郷は「庠」、聚は「序」とし孝経師一人を置く)。陽陵の任横ら盗庫兵の乱を大司徒掾が討伐。安漢公の世子王宇、帝の外家衛氏との謀により下獄死、衛氏誅せられる。
元始四年(4年)
- 春正月、高祖を郊祀して天に配し孝文を宗祀して上帝に配す。殷紹嘉公を宋公、周承休公を鄭公と改称。夫婦の道を正す詔、貞婦帰女徒の復(先の詔)を再確認し、老幼者への刑罰不加を明らかにし、苛暴吏の拘繫を戒める詔。二月丁未、皇后王氏を立て大赦。太僕王惲ら八人を遣わし天下の風俗を観察させる。九卿以下六百石・宗室有属籍者に爵、天下民に爵一級、鰥寡孤独高年に帛を賜う。夏、皇后が高廟に見え、安漢公の号を宰衡とし、公の太夫人を功顕君、公子の王安・王臨をみな列侯とする。安漢公が明堂辟廱を建てることを奏す。孝宣廟を中宗、孝元廟を高宗と尊び天子世世献祭とする。冬、西海郡を置き犯禁者を徙す。梁王立、罪により自殺。京師を分け前輝光・後丞烈の二郡を置く。公卿大夫八十一元士の官名位次及び十二州名分界郡国の所属を改める。冬、大風で長安城東門の屋瓦がほぼ吹き飛ぶ。
元始五年(5年)
- 春正月、明堂で祫祭。諸侯王二十八人・列侯百二十人・宗室子九百余人を助祭に召す。帝王の徳をもって民を撫すること、堯の九族親睦・舜の惇叙の故事を引き、宗室子(太祖高皇帝子孫及び兄弟の吳頃・楚元の後)が十余万人に及ぶも王侯を糾察する者がないことを憂う詔、宗師を置き教訓させる制を定める。羲和劉歆ら四人に明堂辟廱の造営を命じ、太僕王惲ら八人を天下に遣わし徳化を宣べさせ列侯に封ずる。天下に通知逸経古記・天文歴算・鍾律・小学・史篇・方術本草及び五経論語孝経爾雅に通じた者を徴し、応じた者数千人が京師に至る。閏月、梁孝王の玄孫の耳孫劉音を王に立てる。
- 冬十二月丙午、帝は未央宮に崩ず(九歳で即位、在位五年、享年十四)。大赦。有司の議により礼をもって歛し元服を加える。康陵に葬る。帝の遺詔――疾のたびに気が逆上し言語に障りが出たため遺詔を残せなかったとし、出媵妾はみな帰家させ孝文帝の時の故事のように嫁を許す。
史論
- 賛(班固)にいう。孝平の世は政が王莽から出て、善を襃め功を顕して自ら尊盛を図った。その文辞・方外の状を見れば、百蛮が服さぬものなしという有様を頌するが、休徴嘉応と頌声が並び起こる一方で、変異が上に現れ民が下に怨むに至っては、王莽もまたこれを文飾することができなかった。