前漢演義第八十九回 馮婕妤は身を挺して猛獣を防ぎ、朱雲は義のため友を救う (馮婕妤挺身當猛獸 朱子元仗義救良朋)

賈捐之の諫言と失脚

  • 珠崖郡の反乱鎮圧が長引く中、賈誼の曾孫である賈捐之は遠征の中止と珠崖放棄を進言し、元帝はこれを容れて珠崖郡を廃した。
  • 官職を得られず焦っていた捐之は、長安令楊興と結託し、互いに推挙し合う密約を交わした上で、石顕を関内侯に推挙する上奏を出したが、これが露見。元帝は二人を下獄させ、捐之は死罪、楊興は減刑され城旦刑となった。

周堪・張猛の死と石顕の党

  • 経生の匡衡が災異の解釈で元帝に評価され、光禄大夫に抜擢された。度重なる天変を受け、元帝は周堪・張猛を呼び戻したが、尚書には石顕の党(五鹿充宗・牢梁・伊嘉・陳順)が揃い、周堪は孤立無援のまま病死。張猛は石顕の讒言で逮捕されると自ら剣で命を絶った。劉更生は二人の死を悼み『疾讒救危及世頌』を著した。

傅昭儀と馮婕妤の寵愛

  • 元帝の後宮では王皇后のほか傅・馮の二婕妤が寵愛を受けた。傅婕妤は子の康(済陽王)とともに元帝に深く愛され昭儀に進んだ。
  • 馮婕妤は羌の反乱鎮圧で功のあった馮奉世の娘で、子の興を生み婕妤となった。

馮婕妤、熊に立ち向かう

  • 長楊宮での猛獣見物の際、檻から野熊が飛び出して御座に迫った。妃嬪らが逃げ惑う中、馮婕妤だけが動じず御前に立ちはだかり、武士が熊を討ち取るまで元帝を守ろうとした。元帝が理由を問うと「熊が陛下を害するのを恐れ、身をもって防ごうとした」と答え、元帝はいたく感嘆し馮婕妤を昭儀に進めた。これにより傅昭儀は嫉妬し、両者の間に確執が生じた。

京房の直言と石顕の報復

  • 石顕は馮奉世の子・馮逡を登用しようとしたが、逡が石顕の専権を痛烈に批判したため元帝の怒りを買い降格され、以後石顕は馮氏を敵視するようになった。
  • 易学者の京房は、周の幽王・厲王の故事を引きながら元帝に暗に石顕を退けるよう説いたが、元帝は真意を掴みきれず、京房は逆に魏郡太守に左遷された。
  • その後、京房の岳父・張博が淮陽王欽に取り入り金品をだまし取っていたことが発覚し、京房も謀反・誹謗の罪に連座して処刑された。京房と親しかった御史大夫鄭弘も連座して免官となった。

陳咸・朱雲の獄と朱博の義侠

  • 御史中丞陳咸と槐里令朱雲は石顕を厳しく非難していたが、朱雲が丞相韋玄成を弾劾しようとした際に殺人の疑いで告発され、陳咸が密かに朱雲を助けようとした行為が露見し、両者とも逮捕・拷問を受けた。
  • 陳咸の友人朱博は医者を装って獄中の陳咸を見舞い、廷尉に冤罪を訴えて拷問を受けながらも陳咸を弁護し、韋玄成の病臥もあって陳咸は死罪を免れ城旦刑、朱雲も庶人に落とされるにとどまった。

韋玄成の死

  • 翌年、丞相韋玄成が病死し、後任の人選は次回に持ち越される。

評語

馮婕妤の当熊の勇気は父馮奉世の気概を受け継ぐものであり、それが傅昭儀の嫉妬を招き身を滅ぼす一因になったことを惜しむ。元帝の治世では宦官が権勢を振るい忠臣義士が次々陥れられたことを嘆き、賈捐之は自業自得としても、陳咸が友人朱博のおかげで死を免れたのは幸いであったとし、「女子と小人は御しがたし」という孔子の言葉を引いて結ぶ。