前漢演義第六十六回 李広は石を射て奇跡を示し、主父偃は賄賂を受け諫言を拒む (飛將軍射石驚奇 愚主父受金拒諫)
李広、匈奴に捕らわれ脱出す
- 元光六年、匈奴が塞内に侵入。武帝は衛青・公孫敖・公孫賀・李広の四将を四路に分けて出撃させた。
- 李広は匈奴の伏兵にかかり、大軍に包囲されて生け捕りにされた。護送中、隙を見て胡兵の馬を奪って脱出し、追ってきた敵を射殺して逃げ帰った。
- 公孫敖は大敗し兵の多くを失う。公孫賀は敵に遭わず無事帰還。衛青のみ小勝を収め、関内侯に加封された。李広と公孫敖は敗戦の罪を金納で贖い、庶人に落とされた。
衛子夫、皇后となる
- 衛青の姉・衛子夫が男子(劉拠)を出産。武帝は禖祠を建てて祝い、衛子夫を皇后に立てた。枚皋の賦には暗に諫める意が込められていたが、武帝は特に咎めなかった。この年、元光七年を元朔元年と改元。
李広、右北平太守となる
- 匈奴が遼西を襲い太守を殺害。派遣された韓安国は苦戦の末に憤死。武帝は李広を右北平太守に起用した。
- 李広は赴任前、夜間通行を咎めた霸陵県尉を、赴任後に召し出して斬った。武帝は李広を咎めず励まし、匈奴は李広を恐れて「飛将軍」と呼んだ。
石を射る逸話
- 右北平で虎と見誤った岩に矢を放ったところ、矢が深く石に突き刺さった。以後何度射ても入らなかったという評判が広まった。李広は五年間右北平を守った後、郎中令として召還された。
主父偃の建言と栄達
- 衛青は主父偃を推薦したが用いられず、困窮した主父偃は匈奴討伐を諫める上書を提出。秦・漢の故事を引き、兵を興し続けることの弊害を説いた。
- 武帝はこれを気に入り郎中に抜擢。以後主父偃は次々と建言し、一年で四度昇進する異例の出世を遂げた。
推恩の策と朔方築城
- 主父偃は諸侯の子弟に分封させる「推恩の策」を献策し、武帝はこれを採用して諸侯の勢力を弱めた。
- 元朔二年、衛青・李息が匈奴を破って河套の地を得ると、主父偃はこの地に朔方郡・五原郡を置き移民させる策を進言。公孫弘は反対したが武帝は採用し、国庫を大きく費やした。
郭解の悲劇
- 主父偃は豪民を茂陵に移す策も進言。侠客として知られた郭解も対象となり、衛青の口添えも武帝に退けられ移住を余儀なくされた。
- 移住先で恨みを買い、関係者が次々に殺される事件が起こる。郭解自身は事件に直接関与していなかったが、公孫弘の主張により一族皆殺しの刑に処された(子孫の一部のみ助命)。
燕王・斉王をめぐる告発
- 燕王劉定国は父の妾と密通し弟の妻を奪うなど乱倫を重ね、告発しようとした臣下を殺していた。主父偃がこれを暴き、武帝は劉定国に死を賜った。
- 主父偃の権勢を恐れた朝臣は賄賂を贈るようになり、主父偃はこれを平然と受け取った。友人の忠告に対し「日暮れて道遠し、ゆえに道に逆らって事を行う」と嘯いた。
- その後主父偃は斉王の内情を暴いて斉相に任じられ、故郷に錦を飾るが、後に破滅を招くことになる(趣旨の詩:栄華は驕りを招き、後に禍となると詠む)。
評語
- 李広の石を射た逸話は奇跡ではなく、石にたまたま隙があったところに全力の一矢が当たっただけと評する。李広は勇に優れるが謀に乏しく、しばしば功を挙げられなかった。
- 主父偃は権謀で栄達したが、驕り極まって身を滅ぼした。得ることを喜ばず失うことを憂えぬ心構えこそ肝要と説く。