前漢演義第六十四回 田蚡は物の怪に祟られ落命し、司馬相如は夷人を慰撫し名を揚げる (遭鬼祟田蚡斃命 撫夷人司馬揚鑣)

東朝の裁定

竇嬰と田蚡は御前で灌夫の是非を争う。竇嬰は灌夫の功績を挙げ酔って犯した過ちに過ぎないと弁じ、田蚡は灌夫一族の横暴を並べ立てて反論、次第に竇嬰は劣勢となり、逆に田蚡の奢侈と国政への害を非難する。田蚡は「自分は太平の世を享受しているに過ぎないが、竇嬰・灌夫は日夜豪傑を集めて陰謀をめぐらせている」と切り返した。武帝が群臣に意見を求めると、韓安国は両者の言い分にそれぞれ理があると玉虫色の答えをし、汲黯は竇嬰を支持したが、鄭当時は日和見な態度を見せ、武帝の叱責を受けた。武帝は内心田蚡の非を認めつつも、太后の手前強く出られず、その場は結論を出さぬまま散会した。

田蚡の暗躍と竇嬰・灌夫の死

退出した田蚡は韓安国から「竇嬰を悪しざまに言うのは大人げない、むしろへりくだって見せれば主上の心証もよくなる」と諭され反省するが、勝負に確信が持てず、王太后に助けを求める。太后は激怒し武帝に迫り、武帝はやむなく竇嬰を拘束させる。竇嬰は景帝からの遺詔(不便あらば直接奏上してよいとの内容)を根拠に反論を試みるが、尚書の調査で「詔の記録なし、竇嬰の家丞が偽造したものだろう」とされ、灌夫は一族もろとも処刑された。竇嬰も、田蚡が「嬰が獄中で恨み言を言っている」と讒言したことで武帝の怒りを買い、年の暮れに処刑されてしまう。いずれも大した罪のない冤罪であった。

田蚡の横死

元光五年春、得意の絶頂にあった田蚡は突然、竇嬰と灌夫の亡霊に打たれたと叫んで倒れ、全身に激痛を訴えて狂乱する。武帝が遣わした術士も「竇嬰と灌夫の霊が代わる代わる田蚡を打っている」と告げ、数日のうちに田蚡は全身が青く腫れ上がり、七竅から血を流して絶命した。武帝は平棘侯薛沢を新たな丞相に任じた。

河間献王と魯王余の逸話

武帝の兄弟王のうち、河間王劉徳は学を好み古書を蒐集して儒者として名高く、元光五年に入朝して雅楽を献上し、後に薨じて「献王」と諡された。

魯の地では魯王劉余が孔子の旧宅を取り壊そうとした際、壁の中から蝌蚪文字の古書(後の壁中書、『尚書』『礼記』『論語』『孝経』等)が現れ、また廟内から音楽の音が聞こえるという不思議が起きて畏れをなし、工事を中止して書を孔子の子孫に返した。魯相の田叔は、劉余が民から財を奪う訴えを受けると、劉余自身に弁償させて名君の評判を保たせ、狩猟に付き従って諫言を控えつつも自らの老いた身を野に晒して暗に諫めるなど、劉余を陰で支えた。田叔の死後、百姓が集めた祭礼金を息子の田仁は受け取らなかった。

唐蒙による南夷経略

郡国が安定したのを機に、武帝は西南夷の平定を図る。番陽令唐蒙は南越で枸醬(蜀の産物)が出回っているのを知り、夜郎国を通じた交易路の存在に気づく。唐蒙は上書して夜郎経由で南越を制する策を献じ、武帝はこれを認めて唐蒙を中郎将に任じ夜郎へ派遣した。夜郎王・多同は漢の威容に圧倒されて内属を承諾し、鍵為郡が設置された。しかし唐蒙が道路建設のため軍法を用いて厳しく民を使役したため、蜀の民の間に動揺が広がった。

司馬相如の西南夷慰撫

武帝は蜀の出身である司馬相如を派遣して事態を鎮めさせる。相如は檄文を著して民心を安定させ、さらに西夷の邛・莋・冉駹の諸部族が内属を望んでいることを奏上し、中郎将として正使に任じられ西夷へ赴いた。

この時の相如の行列は威風堂々たるもので、蜀郡では太守以下が郊外まで出迎え、かつて相如を見下していた卓王孫も牛酒を献じて歓待し、「司馬長卿がこれほどの人物になろうとは」と態度を一変させた。卓王孫は文君を臨邛に迎え入れ、家財を息子と同等に分け与えた。相如は西夷の各部族にも幣物を分け与えて内属を実現させ、沫若水・牂牁江に至るまで境域を広げ、道と橋を通して邛都に至る道を開いた。都尉一・県令十を設けて蜀に帰属させた。

蜀の父老は西夷経略の益なきを説いたが、相如は文章でこれを論駁して黙らせた。復命した相如は武帝に厚遇されるが、出使中の収賄を同僚に弾劾され免官となる。その後茂陵に文君と暮らし、再び郎に召される。武帝の熊・猪への狩猟を諫めた上書や、秦二世の非業の死を悼む賦などが評価され、孝文園令に任じられた。武帝が神仙を好むと『大人賦』を献じて婉曲に諫めた。晩年、茂陵の女を妾にしようとして文君の「白頭吟」に諭され思いとどまり、持病の消渇に苦しみながらも、長門宮からの依頼で一篇の賦を病を押して書き上げた。

小子に詩あり。「富貴都從文字邀、入都獻賦姓名標、詞人翰墨原推重、可惜長門已寂廖」。

その賦が誰のために書かれたのかは次回に続く。

評語

鬼神は必ずしも実在するとは限らないが、応報は確かに違わぬものである。田蚡が私怨から灌夫一族を族滅し竇嬰を殺したのに、もしそのまま栄華を極めたなら、世の悪人は皆やりたい放題となろう。突然の重病が竇嬰・灌夫の祟りによるものかは定かでないが、天が田蚡の魂を奪い病を重くし、自ら罪を叫びながら悶死させたことは、善悪の応報が確かにあることを示している。ただ田蚡一身のみが罰され一族には及ばなかった点は、竇嬰・灌夫のために依然として無念が残る。西南夷への通路開拓については、好大喜功と武帝を非難する論者もいるが、開拓そのものは誤りではなく、土地を得ることだけを図って民を懐柔することを知らなかった点が誤りであった。司馬相如が蜀に入った際、太守や卓王孫らが先を争って媚びへつらう様は、まさに世の中の炎涼の情を映し出している。