前漢演義第六十二回 夫の貧しさを厭い去った妻は悔い、出塞するも戦功を得られず (厭夫貧下堂致悔 開敵釁出塞無功)
朱買臣と妻の離縁
呉の朱買臣は読書を好み家業を顧みず、四十を過ぎても薪売りで糊口をしのぐ貧しい儒生であった。柴を担いで歩きながらも古書を口ずさむ夫に妻はうんざりし、貧苦に耐えかねて離縁を求める。買臣は「五十で富貴になる」と説くが妻は聞き入れず、ついに離縁状を書いて別れた。
墓前の再会
その後買臣は相変わらず薪を売って暮らしていたが、ある清明節、雨に濡れて墓地で雨宿りしていたところ、たまたま墓参りに来た元妻とその後夫に出会う。元妻は買臣の困窮を見かねて食べ物を分け与えた。
長安への上京と莊助の引き立て
数年後、買臣は会稽郡の上計吏に従って長安に上り、上書するも長らく沙汰がなかった。同郷の莊助の口添えで武帝に謁見し、『春秋』『楚辞』の学識を認められて中大夫に任じられる。その後一時免官となるが、再び待詔として召される。
閩越・東越・南越をめぐる情勢
このころ南方では、閩越王郢が呉王濞の遺児の唆しで東越を攻め、東越は漢に救援を求めた。莊助の進言で武帝は救援を決し、閩越軍は撤退、東越は江淮の地へ内徙した。閩越はさらに南越へも侵攻したが、南越王胡は武力に訴えず漢に訴え、武帝は王恢・韓安国を派遣して閩越を討たせた。閩越では郢の弟・餘善が兄を殺して漢に降り、無諸の孫繇君丑が新王に立てられたが、餘善はこれに服さず、武帝はやむなく餘善も東越王として認めた。莊助は南越への使者として功を挙げ、会稽太守に任じられる。
買臣、会稽太守となる
会稽太守莊助の治績が振るわなかったため、東越の餘善が朝命に従わないことを機に、買臣は東越討伐の献策を行い、武帝はこれを喜んで莊助を召還し、買臣を会稽太守に任じた。「錦を衣て故郷に帰る」ようにと武帝に励まされた買臣は、赴任の際、印綬を懐に隠して昔と変わらぬ粗末な身なりで郡の宿舎に入り、上計吏たちに冷遇される。しかし懐から金印が現れると一同は驚愕し、居並んで拝礼するに至った。
任地では吏民が歓迎する中、道端に元妻の姿を見つけた買臣は車を止めて声をかけ、その後夫ともども郡の後園に住まわせ、衣食を与えた。しかし元妻は自らの過去の選択を悔い、後夫の留守中に縊死してしまう。買臣はこれを悼み、葬儀の費用を出させた。
東越討伐の中断と北方情勢
買臣は武帝の命に従い船や武具を整え東越討伐に備えたが、武帝は北方の匈奴対策に気を取られ、東越討伐は後回しとなった。
漢は文帝・景帝以来、匈奴に和親策を取ってきたが小規模な侵掠は絶えず、辺境には李広のような驍将が配された。李広は上郡・上谷などの太守を歴任し、少数の手勢で匈奴の将を射殺するなど武勇で知られたが、軽率な出撃を危ぶむ声もあった。武帝は李広を未央宮衛尉に、厳格な統率で知られる程不識を長楽宮衛尉に召還した。両者は用兵の風が対照的で、士卒は李広を慕ったが、程不識自身は厳格な統率をより正当と見ていた。
馬邑の謀と失敗
元光年間、匈奴が和親を申し入れると、朝廷では大行王恢が強硬策、御史大夫韓安国が和親継続を主張して対立した。馬邑の商人聶壹の献策により、王恢は匈奴を馬邑城におびき寄せて伏兵で討つ策を武帝に上奏し、採用される。韓安国を護軍将軍、王恢を将屯将軍、公孫賀・李広・李息らを従え、三十余万の兵が密かに出撃した。
聶壹は単于に偽って城を売り渡すと持ちかけ、死刑囚の首を県令のものと偽って城門に掲げさせたが、途中で単于は牧民の姿が見えないことに不審を抱き、たまたま捕らえた漢の亭尉から漢軍の伏兵計画を聞き出してしまう。単于は急ぎ兵を退き、代郡に回り込んで背後を突く手はずだった王恢は、寡兵ゆえに追撃を断念して兵を退いた。韓安国らも空しく引き上げるほかなく、作戦は失敗に終わった。首謀者の王恢は功なく罪ありとして処罰を免れない立場に立たされる。
小子に詩あり。「婁敬和親原下策、王恢誘敵豈良謀、勞師卅萬輕挑釁、一死猶難謝主懮」。
王恢の処罰の行方は次回に譲る。
評語
貪欲の一字は男女を問わず身を滅ぼす。朱買臣の妻は富を貪って夫を見捨て、王恢は功を貪って匈奴を誘い、いずれも身を滅ぼす結果となった。富を貪った者は名節を失ってなお貧苦から逃れられず、功を貪った者は謀略に終始して罪に問われた。買臣の妻の死は買臣の薄情のせいではなく、王恢の死も武帝の非情のせいではない。すべては自ら招いたことである。貪欲を戒めとすべきである。