前漢演義第六十一回 卓文君を口説き即席で琴を弾き、妻と別れ都で賦を献じる (挑嫠女即席彈琴 別嬌妻入都獻賦)
司馬相如の生い立ちと梁国遊学
司馬相如は蜀郡成都の人。若くして読書と剣術を好み、藺相如を慕って名を改めた。蜀郡太守文翁の下で学び、後に文翁に招かれて官学の教授となる。文翁の死後は長安に出て郎官となり、武騎常侍に任じられたが、文人肌の相如には武職が合わなかった。梁王劉武の入朝に従っていた鄒陽・枚乗らと意気投合し、病と称して官を辞して梁国に赴く。梁王に厚遇され、鄒陽らと詩酒を楽しむ日々の中で「子虚賦」を作り、名声を得た。
臨邛での王吉の計略
梁王の死後、同志は四散し、相如は困窮して成都に戻るが頼るあてもなく、旧友で臨邛県令の王吉を頼って身を寄せる。王吉は一計を案じ、相如を都亭に住まわせて自らは連日訪ねる素振りを見せ、相如には仮病を使わせて人々の関心を煽った。噂は瞬く間に広まる。
卓家の宴と琴の弾奏
臨邛の富豪卓王孫と程鄭が、評判の貴客をもてなそうと宴を開く。相如はもったいぶって遅れて出席し、大歓待を受ける。酒宴の中で琴の演奏を求められた相如は、あらかじめ用意させていた愛琴「緑綺琴」を弾く。その音に誘われて屏風の陰から現れたのが、若くして夫を亡くし実家に戻っていた卓王孫の娘・卓文君であった。相如は彼女を一目見て心を奪われ、「鳳求凰」の曲に思いを込めて弾き、文君もその意を察した。
卓文君との駆け落ち
宴の後、侍女から相如の身の上(未婚で近く帰郷するという話)を聞いた文君は動揺し、侍女の勧めもあって夜中に相如の元へ走ることを決意する。その夜、文君は侍女とともにひそかに卓家を抜け出し、都亭の相如を訪ねて契りを結ぶ。翌朝、卓家に知れることを恐れた二人はそのまま成都へ駆け落ちした。
卓王孫は娘の失踪に気づくが、家の恥として公にはできず、諦めるしかなかった。王吉も相如が黙って去ったことを知りつつ、深追いはしなかった。
成都での困窮と当壚売酒
成都に戻った文君は、相如の家が実際にはひどく貧しいことを知って落胆する。持参の金品も尽き、ついには相如の愛用の鷫鹴裘まで質に入れて酒肴を求める始末となった。窮状を見かねた文君の勧めで、二人は再び臨邛に赴き、卓王孫からの援助を求めるが、旅宿で聞いた話では卓王孫は激怒し、一切の援助を拒んでいるという。そこで相如は一計を案じ、酒屋を開いて自ら下働きの格好をし、文君には店先で酒を売らせ、卓王孫の体面を突く作戦に出た。
卓王孫の許しと富貴
文君が酒を売る姿は評判となり、卓王孫の耳にも入って恥辱と受け止められる。親戚たちの説得を受け、卓王孫はついに折れ、家僮百人と銭百万、および文君の嫁入り道具を相如に贈った。相如は店を畳んで文君とともに成都へ帰り、以後は富裕な暮らしを送るようになる。田宅を構え、琴台を築いて文君と楽しみ、邛崍に酒の井戸(文君井)を設けるなど風流な生活を送ったが、酒色にふけった結果、持病の消渇(糖尿病様の病)が悪化し床に伏す。名医の治療で快復した後、自戒として「美人賦」を著した。
長安への召命と「子虚賦」
そこへ朝廷から召命が届く。相如は同郷の楊得意(狗監)の口添えで武帝に子虚賦を評価されて召し出されたことを知り、上京する。武帝に「子虚賦」の真筆かを問われた相如は、諸侯の事を描いたに過ぎないとして、改めて「遊猟賦」を献じることを申し出、その場で見事な作品を書き上げて武帝を感嘆させ、郎官に任じられた。
枚皋の登場
当時、相如と並び称されたのが枚皋である。父の枚乗は呉王劉濞の郎中であったが、呉王の反乱を諫めて難を免れ、後に景帝に召されて弘農都尉となるも辞して梁国に遊び、梁王の食客として重んじられた。梁の民女を妾として枚皋をもうけたが、梁王の死後、淮陰へ帰る際に妾子を置き去りにした。武帝が枚乗を召そうとした時には既に道中で病死しており、代わってその子・枚皋が見出される。若くして文才を認められ、武帝の命で「平楽館賦」を即座に書き上げ、その速さは相如をしのぐほどであったが、出来映えの精緻さでは相如に及ばなかった。世に「馬遅枚速」と称される所以である。
小子に詩あり。「髦士峨峨待詔來、幸逢天子撥眞才、馬遲枚速何遑問、但擅詞章便占魁」。
なお朱買臣の逸話も併せて語られるべきものとして、次回に続く。
評語
文君の駆け落ちは古来佳話とされるが、実のところ貞節を欠く行いであり、相如もまた文君の美貌と富に目がくらんでこれを誘い、辱めた点で名教の罪人というべきである。才子佳人の情事を美談として語る風潮が、後世の不義密通を助長した面もある。今日の自由恋愛の風潮はさらにそれを推し進めたものといえよう。とはいえ文君が相如に従って貧窮にも怨まず、当壚に立つことも厭わなかった点は、軽々しく別離を繰り返す近時の風潮に比べれば、なお救いがあるとも言える。