前漢演義第043回 審食其は救われ恩人に謝し、呂后は権勢を挟んで少帝を立てる (審食其遇救謝恩人 呂娥姁挾權立少帝)
審食其の投獄と朱建の恩義
- 恵帝は母后と審食其の密通に激怒し、別の罪をでっち上げて審食其を投獄させた。呂后は恵帝に頼みづらく、群臣も審食其を嫌って誰も助命しようとしなかった。
- 審食其はかつて金品を贈って恩を売っていた平原君・朱建を頼ろうとする。朱建はもとは節義を重んじる人物だったが、母の葬儀の際に審食其から多額の香典を受け取ったことで関係ができていた。
- 投獄された審食其が使者を送ると、朱建は「今は関われない」と表向き断りつつ、裏で恵帝の寵臣・閎孺に「審食其が処刑されれば、あなたも太后の恨みを買う」と説き伏せた。これにより閎孺が恵帝に取りなし、審食其は恩赦で釈放された。
- 審食其は後に真相を知り、朱建に感謝した。
恵帝と外孫女の婚姻
- 釈放された審食其は再び呂后のもとへ通うようになる。呂后は恵帝を牽制するため、姉・魯元公主の娘(恵帝の姪にあたる)を恵帝の皇后に立てることを計画する。
- 恵帝四年、年齢差や近親の問題をよそに、この甥姪婚が強行された。呂后は婚儀を未央宮で行わせ、恵帝を長楽宮から分離させて自らの密会をしやすくし、同時に若い皇后に恵帝を見張らせる狙いがあった。
- 婚儀と同時に大赦、孝悌力田の推挙、苛法の緩和(民間の蔵書禁止の解除)などが行われた。
復道建設と原廟
- 恵帝は長楽宮に通いやすくするため両宮を結ぶ複道の建設を命じたが、叔孫通に「高祖の衣冠が通る御幸路を遮ることになる」と諫められる。
- 叔孫通は工事の中止ではなく、渭北に「原廟」を新設し衣冠の巡行路を変える案を提示し、恵帝はこれを採用した。
- この年、宮中で火災(長楽宮の鴻台、未央宮の凌室・織室)が相次ぎ、雨血・雷・季節外れの開花結実など怪異が多発した。
蕭何・曹参・張良の死
- 丞相曹参が病没(懿と諡される)。呂后は王陵・陳平を左右丞相に、周勃を太尉に任じた。
- 留侯張良も病没。晩年は仙術を称して穀を断っていたが、呂后の勧めで食事を戻していた。黄石を墓に共に葬るよう遺言した。
- 舞陽侯樊噲(呂后の妹婿)も没し、武と諡された。
恵帝の崩御と少帝擁立
- 恵帝七年、恵帝は病んで未央宮で崩御(享年二十四)。呂后は哭礼の場で涙を見せず、周囲を訝しませた。
- 侍中・張辟疆はこれを見抜き、陳平に「太后は皇帝が幼い実子を残さず、大臣に権力を握られることを恐れている。呂台・呂産を南北軍の将にすれば太后は安心するだろう」と進言。陳平がこれを太后に上奏すると即座に許可され、以後呂后は初めて涙を流して哭いた。
- 恵帝は安陵に葬られ、孝恵皇帝と諡された。皇后張氏には子がなかったため、呂后は後宮の子をひそかに皇后の子と偽り太子に立て、生母は口封じのため殺害した。この子が後の少帝である。
- (詩:呂后の専横と婦徳の乱れを嘆く内容)
評語
- 朱建の逸話を取り上げ、審食其のような小人を救った朱建の行いは私情に厚いだけで公道に反すると批判し、司馬遷・班固がこれを美談として扱ったことにも疑問を呈す。
- 陳平が張辟疆の言を軽々しく信じて呂氏に将軍位を許した判断も批判の対象とする。
- 呂后が審食其を寵愛し、諸呂を重んじ、他人の子を皇統に紛れ込ませたことは、漢の丞相たちがそれを容認したためだと指摘し、回の見出しに「呂太后」でなく「呂娥姁」と実名を用いたことに、著者の強い嫌悪が込められていると述べる。