前漢演義第三十三回 婁敬は遷都を勧めて献策し、韓信は偽りの巡遊で捕らえられる (勸移都婁敬獻議 偽出遊韓信受擒)

朱家の説得と季布の赦免

  • 朱家は洛陽で滕公夏侯嬰と親しくなり、機を見て「季布は主君のために尽くした忠臣であり、新たに天下を得た主上が私怨で報復すれば人心を失う。追い詰めれば北の匈奴か南の粤へ逃げ、敵に利することになる」と説いた。夏侯嬰はこれを高祖に取り次ぎ、季布は赦免されて洛陽に召し出され、郎中に任じられた。
  • 朱家は救った季布に見返りを求めず、生涯会おうとしなかった。

丁公の処刑

  • 季布の異父弟である丁公(彭城の戦いで高祖を見逃した人物)が、季布の赦免を見て自分も恩賞にあずかれると考え洛陽に参上した。
  • 高祖は一変して激怒し、「項王の臣でありながら忠を尽くさず主君を敗れさせた者だ」として丁公を斬らせ、軍中に晒して「不忠の見せしめ」とした。

婁敬の遷都論

  • 隴西の戍卒婁敬が高祖に謁見し、洛陽定都を周に倣うものと見立てる高祖に対し、「周は徳を積んで天下を得たが、漢は数十戦を経て民を苦しめて得た天下であり事情が異なる。関中は山河に囲まれた要害の地であり、変事があっても対応できる。洛陽ではなく関中に都すべきだ」と進言した。
  • 群臣の多くは山東出身で反対したが、高祖が張良に諮ると、張良も「洛陽は狭く四方から攻められやすいが、関中は三方を険阻に守られ一方で東の諸侯に臨める。婁敬の説は理にかなう」と賛成し、高祖は関中遷都を決定した。

関中遷都と燕王臧荼の反乱

  • 高祖は太公・后妃・太子を伴い西へ向かい、まず櫟陽に入った。咸陽の宮殿は項羽の焼き討ちで荒廃していたため、蕭何に修築を命じた。
  • そこへ燕王臧荼の反乱の報が入る。高祖は自ら親征し、たちまち薊城を攻め落として臧荼を捕らえ処刑した。子の臧衍は脱出して匈奴に逃げた。

盧綰の燕王擁立

  • 高祖は幼馴染で太尉の盧綰を燕王に立てたいと考え、表向きは群臣の推挙という形を取りつつ裏で根回しをし、盧綰を燕王に封じた。

潁川侯利幾の反乱鎮圧

  • 元楚臣で潁川侯に封じられていた利幾が反旗を翻したが、小城の潁川はたやすく陥落し、利幾は討たれた。

鍾離昧をめぐる疑惑と偽の雲夢遊幸

  • 漢六年、高祖は楚王韓信が旧知の鍾離昧(項王の遺臣)を匿っていると知り、引き渡すよう命じたが、韓信は情に絆されて拒んだ。
  • 密偵から「韓信が出巡の際に数千の護衛を従え威勢を張っている」との報告を受け、高祖は謀反を疑うようになる。
  • 諸将は討伐を主張したが、高祖の相談を受けた陳平は「漢の兵力・将才では楚に及ばず、討伐は逆に韓信を追い詰めて反乱を招く」と諫め、代わりに「雲夢へ遊幸すると称して諸侯を陳に集め、韓信が謁見に来たところを捕らえよ」と献策した。高祖はこれを採用した。

鍾離昧の自刎と韓信の捕縛

  • 韓信は不審に思いつつも陳への出迎えを決意し、部下の勧めで鍾離昧を差し出そうとした。鍾離昧は韓信の裏切りを察して「私を殺してもあなたも次に滅ぼされるだけだ」と罵り、自ら首を刎ねて死んだ。
  • 韓信はその首を持って陳で高祖を出迎えたが、その場で武士に取り押さえられ捕縛された。韓信は「狡兎死して走狗烹らる」の故事を引いて嘆いた。高祖は謀反の疑いありとして韓信を連行し、諸侯の招集は取りやめて洛陽へ帰った。

評語

  • 洛陽よりも関中に都したことは婁敬の献策の通り正しかったが、険固だけで安泰とは言えないことは秦の滅亡が示す通りであり、結局は徳をもって天下を治めることが肝要である。
  • 高祖が季布を赦し丁公を斬った処置は、後世「忠を勧めるもの」と称えられるが、実際には筋が通らない。恩には恩、怨には正直をもって報いるのが本来のあり方であり、季布は赦してよいが、丁公を処刑して恩を仇で返したのは背徳も甚だしい。丁公が不忠だというなら項伯もまた誅すべき対象であるはずなのに、一方は封じ一方は誅すというのは道理に反する。
  • 結局、高祖は詭道を好み人の意表を突くことを得意とする雄主であり、季布の赦免と丁公の処刑もその一環に過ぎない。偽って雲夢に遊ぶと称し韓信を誘い出して捕らえたのも、陳平の献策とはいえ、その根底には高祖の猜疑心があった。韓信は謀反していないのに謀反ありと誣告されたのであり、これも丁公処刑と同じ詭謀である。雄主が薄情であることの証左といえよう。