前漢演義劉邦は県令を殺し身を起こし、項梁は郡守を殺し挙兵する(十二 戕縣令劉邦發跡 殺郡守項梁舉兵)
呂氏の来訪
- 芒碭山に隠れる劉邦のもとへ、妻の呂氏が子女を連れて訪ねてくる。呂氏は「雲気を望んで居場所を知った」と告げ、邦は始皇帝がかつて「東南に天子の気あり」と言っていたことを思い出し、自分がその主かもしれないと考える。
- 呂氏は邦が出奔した後、県の役人に捕らえられ投獄されていた経緯を語る。獄吏に凌辱されかけたところを、邦と交誼のあった小吏・任敖が助け、蕭何の裁定で獄吏が処罰され呂氏は釈放されたという顛末だった。
- 邦は芒碭山中に一時の住まいを構え、家族と暮らす。
沛県での挙兵
- 陳勝が蘄州で挙兵し四方に檄を飛ばすと、沛県令も一時は陳勝に降ろうとするが、蕭何・曹参の進言で思いとどまり、代わりに劉邦を呼び戻して補佐に立てようとする。使者には樊噲(呂雉の妹婿)が立った。
- 邦が百人ほどの手勢を率いて沛県に向かう途中、蕭何・曹参が「県令が翻意し自分たちを誅殺しようとした」として逃げてきたのに出会う。
- 邦は蕭何に手紙を書かせ、矢文で城内に射込み、「県令を誅し子弟の中から立てるべし」と訴えた。城内の父老がこれに応じて県令を殺し、城門を開いて邦を迎え入れた。
- 邦は再三固辞したが、父老たちの推挙により沛公として擁立される。時に邦は四十八歳であった。
沛公として体制を整える
- 邦は黄帝・蚩尤を祭り、以前の斬蛇の逸話(赤帝子が白帝子を斬った)にちなみ赤色の旗幟を用いた。蕭何を丞、曹参を中涓、樊噲を舎人、夏侯嬰を太僕、任敖らを門客に任じた。
- 蕭何・曹参に沛の子弟二三千人を集めさせ、樊噲・夏侯嬰を将として胡陵・方与を攻めさせたが、母の劉媼が亡くなったため喪を理由に兵を退かせ、豊郷で喪に服した。
項梁・項羽の出自
- 会稽郡で項梁・項籍(項羽)の叔姪が挙兵し、子弟八千を集めて呉中を横行していたことが語られる。項梁は楚将項燕の子で、秦に滅ぼされた楚の恨みを抱いていた。
- 項籍は幼くして父を失い項梁に育てられる。読書も剣術も長続きしなかったが、「万人の敵となる兵法を学びたい」と志を語り、項梁を感心させ兵法を教わることになった。しかし飽きっぽい性格で兵法の奥義までは究めなかった。
- 項梁は仇討ちで人を殺め、項籍を伴って呉中に逃れ、身分を隠して暮らすうち、土地の大事の差配などで人望を集めた。始皇帝の東巡を見物した際、項籍が「あの皇帝の地位、自分に取って代われる」と口にし、項梁が慌てて口を塞いだ逸話も語られる。
会稽郡守殷通の誅殺
- 陳勝の挙兵を機に、会稽郡守の殷通が項梁を招き、挙兵の相談を持ちかける。殷通は項籍にも同席させ勇士桓楚を呼びに行かせようとするが、項梁は密かに項籍に合図を送り、項籍が剣で殷通を斬殺する。
- 項梁は印綬を取り、殷通の首を提げて外へ出ると、多数の武官に囲まれるが、項籍が単身で数十人を斬り倒し、残る者を敗走させた。項梁は動揺する府中の文吏や父老を説得し、会稽郡を掌握する。
- 項梁は自ら将軍兼会稽郡守となり、項籍を偏将とする。人を見る目に厳しく、力量の足りない者の自薦を断る場面も描かれる。項籍は下県を巡って八千の兵を集め、二十四歳でその首領となった。項籍は字の子羽から「項羽」と呼ばれるようになる。(詩:大業を成すには勇より徳が難しいとし、殷通を斬った項籍の行いを苛烈と評す)
評語
- 劉邦と項梁の挙兵は表面上似ているが、事情は大きく異なると論じる。沛令は蕭何の言に従い劉邦を呼び戻したが、後に翻意しなければ自ら死を招くことはなかった。また県令を殺したのは沛の父老であり、劉邦自身が手を下したわけではない。
- 一方、項梁は郡守殷通の誠意ある招きに応じながら、その恩義に反して項籍に命じて殺害させた。殷通は秦の皇帝ではなく、殺す名分に乏しく、その行為はむしろ項梁の貪欲・狡猾さを示すものだとする。この対比に劉邦と項梁の仁と暴、ひいては後年の成敗の分かれ目が既に表れていると結ぶ。