殘唐五代史演義傳第五十九回 郭威、衆のために黄袍を加えられる (郭威為眾加黃袍)
澶州から梅坡への進軍
- 郭威の軍が澶州に至ると李洪義がこれを受け入れ、王殷も合流した。郭威が一旦退く意を見せると、諸将は「国家の大事は今この一挙にある、なぜ退くのか」と奮い立ち、士気は大いに高まった。
- 翌日、梅坡に陣を張る。隠帝は郭威軍の接近に驚き、袁義・劉重進らを赤岡に、慕容彥超を七里店に配して迎撃態勢を敷いた。
七里店の戦いと隠帝の最期
- 郭威軍の挑戦に応じて慕容彥超が出馬させた李榮と交戦するが敗走し、以後周辺の士気は衰えた。北軍の侯益らは密かに郭威に降った。
- 慕容彥超は敗れて兗州へ逃走。隠帝はわずかな供とともに七里寨に留まったが、翌朝の帰城の途中、玄化門で劉銖に矢を射かけられ、逃げる途中の趙村で追手に討たれた。蘇逢吉・閻晉卿・郭允明らも自殺した。
- 郭威は迎春門から入城し、諸軍も入城して掠奪を行った。
劉贇擁立から郭威即位へ
- 太后は百官の求めに応じ、隠帝の弟で河東節度使の劉贇を新帝に迎えることを詔した。劉贇がまだ到着しないうちに契丹の侵入があり、太后は郭威に迎撃を命じる。
- 澶州で出発しようとしたところ、将士数千が騒ぎ、黄旗を裂いて郭威に着せ、これを担ぎ推戴した。郭威は太后に上箋して漢の宗廟を奉じ太后を母として事える意を示す一方、劉贇は湘陰公に廃され、郭威は監国となり、諸方の勧進を受けて漢を廃した。
- 漢は二代・四年で滅亡した。史臣は、高祖は精鋭の兵と要地を得て契丹の北帰に乗じて天下を得たに過ぎず、隠帝は政を自ら執らず、群小の謀を信じて跋扈の臣を除こうとしてかえって禍いを招いた、これほど短命の王朝は稀であると論じた。
郭威の出自と後周建国
- 郭威は太原の人。唐の莊宗の宮人柴氏が実家に戻った際、郭威(当時「郭雀兒」と呼ばれた従軍馬使)に嫁ぐことを望み、父母の反対を押し切って結ばれた逸話が語られる。
- 郭威は即位し、周の虢叔の後裔と称して国号を後周、太祖高帝と号し、広順と改元。柴氏を皇后とし、子がないため妻の兄柴守禮の子柴榮を後嗣として晋王に封じた。
北漢の成立
- このとき劉崇は晋陽で自立していた。隠帝の遭難を聞き挙兵を考えるが、劉贇擁立の報に喜び、劉贇の死を知ってついに自ら帝を称した。並・汾など十二州を領し、国号を北漢とした。
柴榮(世宗)の即位と郭威の崩御
- 郭威が鄴都にいた頃見出した小吏曹翰は、柴榮(晋王)に仕え、榮に内政専念を促す進言をして評価された。
- 郭威は重病となり晋王榮に聴政を命じ、自らの葬儀は倹約に徹するよう遺言(紙衣・瓦棺、石を用いず、民を労役させないこと等)して崩御した。享年五十三、広順三年二月であった。
- 史臣は、郭威が二君を弑して帝位を纂奪しながらも、即位後は貢献の負担を軽減し、諫言を奨励し、税制を整え、孔子廟に参拝するなど善政を敷いたことを評価しつつ、その出自(刺青)を持つ身で帝位に即いたことを皮肉って評した。
- 晋王榮が即位し世宗皇帝と称し、顯德と改元。郭威を太祖皇帝と諡し、柴皇后を太后として尊んだ。
北漢の侵攻と世宗の親征決断
- 北漢主劉崇は郭威の死を喜び、契丹に援軍を求め自ら大軍を率いて洛陽へ迫った。世宗は自ら出陣する意を示すが、群臣は劉崇の勢いは既に衰えており大将を遣わせば足りると反対した。
- 世宗は「劉崇は朕の若さを侮って自ら攻めてくるはずだ」として親征を主張し、馮道の諫めにも「唐太宗も自ら兵を率いた」と応じたが、馮道の「陛下は太宗たり得るか」との問いに不快感を示し、王溥のみが親征を支持した。勝敗の行方は次回に続く。
評語
卓吾子は評して言う。世宗が北漢の未服を憂え自ら矢石を冒して必勝を期したのは、英武の主と称するに値する、と。