殘唐五代史演義傳第六十回 周世宗、位を宋祖に禅る (周世宗禪位宋祖)
高平の戦い
- 世宗の軍は澤州に至り北漢軍と対峙。北漢が十里退くと世宗はこれを追撃の好機とみて全軍を配置するが、周軍右翼の樊愛能・何徽が北漢将楊兗との交戦のさなかに一千余の兵とともに逃走・降伏し、周軍は大混乱に陥った。
- 世宗自ら矢石を冒して督戦。宿衛将趙匡胤は「主君がこれほどの危機にあるのに黙っていられない」と決意し、張永德とともに精兵各二千を率いて左右から挟撃、北漢軍を大破した。北漢主はかろうじて晋陽へ逃げ帰った。
戦後処理と趙匡胤の抜擢
- 世宗は逃亡した降兵を処刑し、戦線離脱した樊愛能・何徽ら七千余人を「歴戦の宿将でありながら朕を利用して劉崇に売り渡そうとした」と厳しく責め、斬首に処した。これにより驕将惰卒は畏れを知るようになった。
- 張永德は趙匡胤の智勇を称え、匡胤は殿前都虞候に抜擢された。
世宗の崩御
- 顯德六年秋、大風で太祖陵の松柏が汴城まで飛来する異変が起き、世宗はこれに驚いて病を得る。魏仁浦を同平章事に、趙匡胤を殿前都点検に加え政務を託し、群臣を集め後事を託して崩御した。享年三十九、在位六年であった。
- 世宗は即位後、高平の勝利によりその英武を天下に知られた。史臣は、世宗が柴氏の子として大統を継いだこと、乱世を憂い天下平定に努めたこと、軍法を正し弊政を改め、南は江西・秦鳳を、北は三関を取るなど威武の誉れ高く、また唐の元稹の均田図を天下に頒布させるなど民本に留意した治績を、五代十二君の中でも随一と評した。
恭帝の即位と陳橋の変
- 七歳の太子宗訓が即位し恭帝と称され、范質・魏仁浦が輔政、趙匡胤は歸德節度使に封じられた。匡胤は涿郡の人で、父弘殷は洛陽の禁衛将校。誕生の際に異香が満ちたという逸話が伝わる。世宗の下で六年軍政を掌り功を立てたが、かつて世宗が「点検、天子となる」との書を見て点検であった張永德を退け匡胤に替えていた経緯があった。
- 河東の劉鈞が遼と結んで侵入したとの報を受け、恭帝は匡胤に出兵を命じる。軍中では「幼君のもとで戦功を立てても報われない、点検を天子に立てるべき」との声が高まり、陳橋駅で将士は匡胤に黄袍を着せ推戴した。眠っていた匡胤は目覚めて驚くが、将士に押し立てられ、汴梁へ帰還する。
- 匡胤は「命に従うなら受けるが、そうでなければ天子にならない」と諸将に誓わせ、「幼帝・太后への礼を守り、公卿を侵さず、府庫を掠奪しない」ことを条件に受諾。軍は秋毫を犯さず入城した。
宋の建国
- 抵抗した侍衛指揮使韓通は王彥升に討たれた。宰相范質・王溥らが崇元殿に集まり、翰林承旨陶谷が用意していた禅譲の詔を用いて、匡胤に帝位を譲る形が整えられた。
- 詔では、天命が匡胤に帰したこと、高祖・世宗に仕えて功績を積んだことなどが述べられ、堯舜の禅譲になぞらえられた。
- 周は三代の帝・二姓、九年で宋に代わった。匡胤は袞冕を着けて即位し太祖皇帝と称し、周の顯德七年を建隆元年と改め、国号を宋とした。周の恭帝は鄭王に封じられ、弟光義は殿前都虞侯、趙普は樞密直学士に任じられた。太廟を立て、母杜氏を皇太后と尊んだ。
- 太祖は太平の宴を開き群臣を集め、朝廷は文武の人材で満ち、堯舜の風があったという。華山の隠士陳搏はこれを聞いて「天下はこれで定まった」と喜んだと伝えられる(宋代の事績は本編では詳述しない)。
結びの詩
- 逸狂の詩:五代の戦乱が続き乱臣賊子が中原を乱したが、点検(趙匡胤)が真命の主として陳橋の兵変により太平の世を開いたのは偶然ではないと詠う。
- 後賢の詩:五代の乱離を経てついに天が開け、草木も新たな恵みを受け、車書は万里に及ぶと詠う。
- 麗泉の詩:幼主が無知のまま社稷を終わらせ、危急に降伏し、恥を忍んで鄭州へ移った様を詠う。
評語
卓吾子は評して言う。五代は絶えず干戈が続き、胡虜が交々馳せ、乱賊が横行して中原に安寧はなかったが、幸い宋太祖が中華を統一したのは、世道の幸いであろう、と。