殘唐五代史演義傳第三十六回 晋王、兵を起こし朱温を伐つ (晉王起兵伐朱溫)

朱溫の即位と昭宗殺害

朱温は即位して太祖皇帝を称し、年号を開平元年に改め、大赦を行い、国号を大梁とした。昭宗を済陰王に格下げして幽閉同然とし、張文蔚・楊涉を平章事、蘇循・薛貽矩を左右僕射、王彦章を馬歩禁軍都元帥、王彦龍を保駕上将軍に任じた。かつての黄巣配下の尚譲・斉克譲らも節度使に取り立てた。功を誇り昇進を求めた李英進は、逆に朱温の怒りを買って処刑された。翌年正月、済陰王(昭宗)は王彦龍によって絞殺され、哀皇帝と追諡された。

晋王、挙兵を決意

太原の李晋王(李克用)は、朱温が昭宗を弑して自立した知らせを受けて号泣し、百官に喪服を着させて北へ向かい哭礼を行わせた。潞州王李杰が復讐を訴えて援軍を率いて来たため、晋王は各地の王族・節度使に檄を発して挙兵を促した。岳彦真・赫連鐸ら諸将も加わり、四十余万の兵を率いて雞寶山に布陣した。

諸侯の結集と檄文

一月足らずで河南王李善・青州王李畢・蘇州王李演・四川王李輔・江夏王李遜・膠州王李漢・雲南王李弘ら唐室ゆかりの諸侯二十七鎮、総勢九十四万(号して百万)が雞寶山に集結した。晋王は宗室を集めて軍議を開き、潞州王が結束を説いた。先鋒には二太保李思昭が名乗りを上げた。晋王は「朱全忠は恩を仇で返し、君を弑して帝位を奪った大逆の賊」と糾弾する檄文を発した。

開戦、梁軍の猛将王彦章

関を守る梁の将から急報を受けた梁帝は、王彦章を天下兵馬正征討に任じ、十万の兵と世子朱友珪を副えて出撃させた。両軍は雞寶山で対峙し、河南の猛将鄭績が挑んだが、王彦章にわずか三合で討ち取られた。続く二太保李思昭も一槍で落馬させられ、李存直も追撃を受けて討ち死にした。

唐軍、連戦連敗

晋王の太保六名(存龍・存虎・存海・存豹・存江・存愛)が彦龍と戦うも敗走。翌日は彦章が再び挑み、岳彦真とその子存訓が相次いで討たれた。劉知遠も鞭打たれて吐血しつつ敗走し、赫連鐸・河南王配下の樂栄も彦章に斬られた。唐軍は将を次々に失い、晋王は存孝の死を惜しみながら痛哭し、後続を後回に譲る形で回は終わる。

評語

李克用は君のために賊を討とうとしながら戦うたびに敗れ、将士の士気は挫けた。李存孝(勇南公)亡き今、誰も彦章に対抗できず、晋王の悲嘆もやむを得ないことであった、と評される。