揚州十日記

  • 要旨: 著者は本文の記録に続けて、揚州陥落の責任を論じる。史可法(道鄰)は死をもって百姓に詫びるべき立場にあったが、実際に城下を破滅させた最大の原因は、内通する裏切り者の存在と、高傑軍への処遇を誤った史可法自身の失策にあったと断じ、江南崩壊の責めは史可法にあるとの友人の言を引いて結ぶ。

督師(史可法)の責任

  • 当時、督鎮(史可法)は死をもって百姓に謝罪するほかなかった。
  • ある者は「督鎮は大臣であり、地方官なら殉職すべきだが、督鎮ほどの大臣は死ぬべき立場ではない」と言う。死なずに生き延びた者は、江南防衛のための計略を温存する望みがあったからだ、という論である。
  • しかし著者は次のように反論する。死ぬことは容易く、江を守ることは難しい。難事をあえて引き受け、易きに逃げなかった者こそ賢者と言うべきである。
  • 河を守るのも、江を守るのも、広陵(揚州)を守るのも、結局は同じ理屈である。河・泗の防衛線を守り切れなければ白洋河を守り、白洋河が守れなければ広陵(揚州)を守り、広陵も守れなければ江南へ奔って江を守る、という後退の連鎖に過ぎない。
  • 関門を越えられず、江も渡り切れないのであれば、たとえ包囲を脱して渡れたとしても、それは白洋河や広陵の場合と同じであり、何の益もない。

内通者による被害の拡大

  • 揚州城が陥落すると、清軍の一隊ごとに必ず一人二人の内地の悪人(内通者)が道案内をしていた。
  • そのため当初はただ人を殺して財を奪うだけだったが、やがて「誰それは高官である」「誰それは富豪である」と分かるようになり、初めは寝室の奥にまで踏み込むだけだったのが、やがて壁を破り、地窖(地下の蔵)まで開けるようになり、隠れた場所という場所すべてに手が及んだ。

高傑軍の処遇をめぐる史可法の失策

  • おおむね揚州の百姓は、終始高傑の軍によって死に至らしめられたと言ってよい。
  • 崇禎帝の崩御という政変が起こると、高傑はたちまち勢いをふるい、鎮(軍権)を争う名目と、新帝擁立の功績を偽って掲げ、揚州の要地に虎のごとく居座り、城郭一帯を瓦礫の山に変えた。
  • ところが史可法(道鄰)は事なかれ主義の調停者となり、もっぱら和解の仲立ちに徹し、万里の長城とも頼むべき靖南侯(黄得功)を抑え込む一方、狼のような野心を抱く叛将(高傑)を旧城に住まわせるという安易な策を取った。
  • その結果、もとの巣にいた春の燕が、よその家の秋の鴻に姿を変えるように、客であるはずの高傑が主人の座を奪う事態を招いた。十余年にわたり天下に名を重んじられた史可法ほどの人物が、これほど無様な振る舞いに至ったのである。

高元爵への寛容とその代償

  • やがて睢陽での計略が功を奏し、逆賊の首級が得られた(許定国が高傑を睢陽で殺害したことを指す)。
  • 高傑の子・元爵はまだ乳臭さの抜けない下働き同然の若者であり、掌を返すように容易く処理できるはずであった。にもかかわらず、史可法はその兵力を手放させることなく、かえって爵位と封蔭を与え、数万の豺狼のごとき兵を危険極まりない城内に飼い続けた。
  • その結果、古参の将たちはこれに乗じて境を越え、敵国側にとっても格好の口実を与えることになった。著者は許定国が先朝(明)に向けて発した檄文を読むたびに、当時の為政者に対して切歯扼腕せずにはいられない。
  • さらに、清の騎兵が黄河を渡ってきた際にも、これを活用せずにわざと放置し、北へ向かう旗印を翻す口実に利用した。そのため高傑の軍が一たび出撃すると、窮した賊のごとく帰る所を失い、沙洲一帯はことごとくその狼藉に遭い、大橋の東側では人を麻のように殺した。
  • それでも愚かな民は、包囲された城内をかえって楽土と思い込み、老いた者を連れ幼子を背負って、危険な城を目指すこと、飛んで火に入る夏の虫のようであった。

揚州陥落の責任は誰にあるか

  • 四月八日から二十四日まで、城内に入った者は数万人を下らなかったが、そのすべてが刃の下に追い立てられ、殲滅された。この責めは、いったい誰が負うべきであろうか。
  • しかも城が陥落した後もなお、その虎の威を借りて生き延びようとする者があり、まさに天道は無知であると言うほかない。
  • 著者の友人、鄭廷直(字 廷直)は「西北の天下を壊した者は孫白谷(孫傳庭)であり、東南の天下を壊した者は史道鄰(史可法)である」と述べた。まことに至言と言うべきである。