楊家將演義第四十三回 大遼を平げ南将が班師し、官誥を頒ち功臣を封ずる (平大遼南將班師 頒官誥大封功臣)
蕭太后の埋葬と班師の議
八王は宮中で諸将をねぎらう宴を開く。延朗(楊延朗)は、長年蕭太后の厚遇を受けた恩義から、その遺骸を丁重に葬りたいと願い出、八王はこれを義に篤い行いとして許す((詩:延朗の恩義を讃える一篇)。翌日、六使は班師を議し、八王は同意。寇準らは幽州に守備兵を残す案を出すが、八王は南北混在の統治の難しさと中原からの遠さを理由に反対し、いったん帰京して防備策を練り直すことにした。全軍は汴京へ向かう。
凱旋と論功奏上
八王一行は郊外で真宗の出迎えを受け、平定の表を奉る。真宗は大いに喜び、寇準は楊六使父子兄弟の功を強調して恩賞を進言、真宗も後日改めて封賞すると約す。
楊六使と延朗は無佞府の令婆のもとへ帰り、十八年ぶりの再会を喜び合う。延朗は瓊娥公主を令婆に引き合わせ、令婆はこれを喜んで祝いの宴を開いた。楊五郎は再び五台山へ戻った。
王欽の逃亡と処刑
王樞密(王欽)は北番の敗北を知り、身の危険を感じて道士に変装し夜のうちに汴京を脱出する。真宗は激怒し、楊宗保に追捕を命じる。王欽は黄河の渡しで足止めされたところを、恨みを抱く艄公に見破られ、追いついた宗保の兵に捕縛された。
真宗は外国使臣を招いた宴席で見せしめとして王欽を凌遅の刑に処す((詩:因果応報を詠む一篇)。真宗は八王に、王欽の讒言を長年見抜けなかった悔いを漏らし、八王は「大詐は忠に似る」と慰めた。
呼延贊の死と論功行賞
その後、老将呼延贊が中風で急死し、真宗は深く悼んで忠国公を追贈した((詩:呼延贊の功績を悼む一篇)。
天禧元年二月、真宗は八王と論功の議を進める。八王は、遼が既に服したことを踏まえ、蕭太后の太子や捕虜となった臣僚を釈放して帰国させ、朝貢のみを課す方が長く辺境の安定を保てると献策し、真宗はこれを採用。太子以下は厚い礼を受けて幽州へ帰された。
真宗は楊六使を殿上に召し、平北の功を称え、六使は謙遜しつつ拝命した。この日下された封旨により、楊六使は代州節度使兼南北都招討、楊宗保は階州節度使兼京城内外都巡撫、楊延朗は幽州攻略の功により泰州鎮撫節度副使に任じられたほか、岳勝・孟良・焦贊・陳林・柴敢・劉超・管伯・關鈞・王琪・孟得・林鐵槍・宋鐵棒・丘珍・丘謙・陳雄・謝勇・姚鐵旗・董鐵鼓・郎千・郎萬ら諸将がそれぞれ各州の団練使・都監に任じられた。八娘は金花上将軍、九妹は銀花上将軍に、淵平の妻周氏は忠靖夫人、延嗣の妻杜氏は節烈夫人に封じられ、穆桂英以下十四名の女将も誥命副将軍を授かるなど、功のあった将士はそれぞれ相応の恩賞を受けた。