通鑑紀事本末三叛の連兵(三叛連兵)

後漢の初め、杜重威の抗命に続いて李守貞・趙思綰・王景崇の三鎮が相次いで叛いた戦い。天福十二年(947年)、鄴都に拠った杜重威は囲まれて降り、のち高祖の死に乗じて誅される。乾祐元年(948年)、河中の李守貞が秦王を自称し、長安の趙思綰、鳳翔の王景崇と結んで蜀・唐・契丹に援を求めた。郭威が招撫使として起用され、長囲による持久策で河中を落とし、乾祐二年(949年)に三鎮はことごとく平らいだ。

年表(9件)

後漢高祖天福十二年五月〜閏七月(947年・杜重威の抗命)

  • 五月、契丹の永康王兀欲が趙延壽を恒州に幽閉した。帝は使者を遣わして河中節度使の趙匡賛にこれを告げ、父が契丹に囚われたことを知らせた。
  • 七月、趙延壽が死んだとの噂が伝わり、郭威が帝に「趙匡賛は契丹に任じられた身で今も河中にいます。使者を送って弔祭し、そのうえで喪を解いて他鎮へ移せば、彼は家も国も帰る所がなく、必ず恩に感じて命に従いましょう」と説き、帝はこれに従った。折しも杜重威と李守貞がそろって帰順の表を上り、重威は他鎮への転任を願い、高行周は入朝を求めた。そこで重威を歸德節度使、行周をその後任、守貞を護國節度使として中書令を加え、趙匡賛を晉昌節度使へ移した。延壽が契丹で死んだのは二年後のことである。
  • 杜重威は契丹に付いて中国に背いた負い目から常に内心怯えており、転任の命が下ると一転して受け入れを拒み、子の弘璲を麻荅のもとに人質に出して援軍を求めた。趙延壽の幽州親兵二千が恒州にあり張璉が率いていたが、重威はこれを魏の守りに借り受けたいと請い、麻荅は楊衮に契丹兵千五百と幽州兵を付けて向かわせた。閏月、朝廷は重威の官爵を削り、高行周を招討使、慕容彦超を副として討伐させた。
  • 慕容彦超は急攻を主張し高行周は持久を主張して、二将は不和になった。帝は変事を恐れて自ら討伐に向かおうとし、九月、澶州・魏州への行幸と軍の慰労を詔して大梁を発った。
  • 晉昌節度使の趙匡賛は結局朝廷に容れられまいと恐れ、十月、蜀に降を請い、東南から出兵して応援するよう求めた。

天福十二年十月〜十二月(947年・鄴都の陥落)

  • 帝は鄴都に至り、陳觀を遣わして意向を伝えたが、重威はまた門を閉ざして拒んだ。城中の食糧は尽きかけ、降る将士が相次いだ。慕容彦超が強く攻城を請い、帝もこれを容れて自ら諸将を督して攻めたが、寅から辰まで戦って負傷一万余、戦死千余を出しながら落とせずに止めた。彦超はそれ以来もう攻撃を口にしなかった。
  • もと契丹は幽州兵千五百を大梁に駐屯させていたが、帝が大梁に入ったとき「幽州兵が変を起こす」と告げる者があり、帝は繁臺の下でこれをことごとく殺していた。鄴都包囲では張璉が幽州兵二千を率いて重威を助けて守り、帝がしばしば人を送って命は助けると諭しても、璉は「繁臺の兵に何の罪があって殺されたのか。今はここを守って死ぬまでだ」と答えた。このため城は長く落ちなかった。
  • 十一月、内殿直の韓訓が攻城の器械を献じたが、帝は「城が頼みとするのは人心だけだ。人心が離れれば城は保てぬ。こんな物が何になる」と言った。杜重威の叛に際し、觀察判官の王敏は幾度も泣いて諫めたが聞かれなかった。糧も力も尽きたところで、重威は敏に降表を持たせて出し、続いて子の弘璉、妻の石氏(晉の宋國長公主)が拝謁に来た。帝は石氏を城へ帰し、翌日、重威が門を開いて降った。城中の餓死者は十人に七、八、生き残った者もみな痩せ衰えて人の形をとどめなかった。
  • 張璉は事前に朝廷の誓約を求め、詔で郷里への帰還を許されていたが、降伏後、璉ら将校数十人は殺され、士卒は北へ帰された。彼らは境を出るときに大掠奪をして去った。
  • 郭威が重威の牙将百余人を殺し、重威の家財を没収して戦士に賞するよう請い、容れられた。重威は太傅兼中書令・楚國公とされたが、外出のたびに道行く人から瓦礫を投げつけられ罵られた。

史論(臣光曰)

  • 司馬光は漢の高祖(劉知遠)の三つの失を突く。罪のない幽州兵千五百を殺したのは仁ではなく、張璉を誓約で誘い出して誅したのは信ではなく、大罪の杜重威を赦したのは刑ではない。仁によって衆を合わせ、信によって令を行い、刑によって姦を懲らすのが国を守る筋道であり、その三つをともに失った以上、王朝の命脈が長く続かなかったのも当然だ、と断じる。

天福十二年十二月(947年・蜀の関中侵攻)

  • 帝は鄴都を発った。
  • 蜀主は吳崇惲に樞密使王處回の書を持たせ、鳳翔節度使の侯益を誘った。さらに張虔釗を北面行営招討安撫使、何重建を副、韓保貞を都虞候として兵五万を率いさせ、虔釗は散関、重建は隴州から出て鳳翔を撃たせ、李廷珪には二万で子午谷から出て長安を取らせた。諸軍が成都を発したとき、旌旗は数十里に連なった。
  • 帝は大梁に至った。侯益は蜀に降を請い、吳崇惲に兵籍と糧帳を持たせて西へ帰し、趙匡賛と連名で表を上って関中平定のための出兵を求めた。

乾祐元年正月(948年・王景崇の関西経略)

  • 帝は趙匡賛と侯益が蜀兵と結んで害をなすのを憂えていた。折しも回鶻が入貢して党項に道を阻まれたと訴え救援を求めたので、王景崇と齊藏珍に禁軍数千を与えて赴かせ、あわせて関西を経略させた。
  • 晉昌節度判官の李恕は長く趙延壽の幕下にあり、延壽の命で匡賛を補佐していた。匡賛が蜀へ入ろうとすると恕は「燕王が契丹に入られたのは望んでのことでしょうか。今、漢は天下を得たばかりで招撫に努めています。罪を謝して朝廷に帰れば必ず富貴を保てます。蜀へ入るのは万全の策ではありません。蹄の窪みの水に尺の鯉は入れません、公は必ず後悔なさいます」と諫めた。匡賛は恕に表を持たせて入朝を願い出た。景崇らが出発する前に恕が到着し、帝が「匡賛はなぜ蜀に付いたのか」と問うと、恕は「匡賛は自分が虜の官を受け父が虜庭にある身なので、陛下に察していただけぬのではと恐れ、蜀に付いて逃れようとしたにすぎません。臣は国家が必ず存撫してくださると思い、哀れみを乞いに参りました」と答えた。帝は「匡賛父子はもともと我が民だ。不幸にして虜に落ちただけだ。今、延壽が落とし穴に落ちているのに、どうして匡賛まで害せようか」と言い、入朝を許した。侯益も二月四日の聖壽節に賀を献じたいと願い出た。
  • 景崇らが出発する際、帝は臥所に呼んで「匡賛と益の心は測りがたい。汝が着いたとき既に入朝していれば問うな。もしなお引き延ばして様子を窺っているようなら、臨機に処置せよ」と密命した。
  • 趙匡賛は李恕の復命を待たず長安を離れて入見した。王景崇らは長安に至り、蜀兵が既に秦州に入ったと聞いて、兵が少ないため本道の兵と匡賛の牙兵千余人を徴発して防がせた。景崇は匡賛の牙兵の逃亡を恐れて顔に入れ墨をさせようとし、それとなく意を漏らしたところ、軍校の趙思綰が真っ先に「自分から進んで顔に入れ墨をして手本を示す」と申し出たので、景崇は喜んだ。齊藏珍は「思綰は凶暴で制しがたい、殺す方がよい」と密かに言ったが、景崇は聞かなかった。
  • 蜀の李廷珪は長安に迫ったところで趙匡賛が既に入朝したと聞いて引き上げようとし、王景崇が迎え撃って子午谷で破った。張虔釗は寶雞に至ったが諸将の議がまとまらず兵を止めて進まなかった。侯益は廷珪の西帰を聞いて塁を閉ざして蜀兵を拒み、虔釗は孤立して夜逃げした。景崇は鳳翔・隴・邠・涇・鄜・坊の兵を率いて追い、散関で蜀兵を破って将卒四百人を捕らえた。

乾祐元年正月〜三月(948年・高祖の死と趙思綰の長安占拠)

  • 帝が崩じた。喪を秘したまま「杜重威父子が朕の小疾に乗じて謗議し衆を惑わした」と称する詔を下し、重威とその子の弘璋・弘聽・弘琛をみな斬った。二月、喪を発し遺制を宣して、皇子の承祐が即位した。
  • 王景崇に鳳翔巡検使を兼ねさせる詔が下り、景崇が兵を率いて鳳翔に至ると侯益はまだ出発していなかった。景崇は禁兵で諸門を分け守らせ、益を殺すよう勧める者もあったが、景崇は密旨を先帝から受けたもので新帝はまだ知らず、専断の誅と疑われるのを恐れて決しかねた。益はこれを聞き、景崇に告げずに立ち去り、景崇は悔しがって自らを罵った。益が入朝すると隱帝が「なぜ蜀軍を呼んだのか」と問い、益は「誘い寄せて殺すつもりでした」と答え、帝は苦笑した。
  • 三月、侯益は財に富み執政に厚く贈ったため大臣たちは争って彼を褒め、中書令を兼ね開封尹を行うことになった。
  • 侯益は朝廷で王景崇を「恣意的で横暴だ」としきりに讒言した。景崇は益が開封尹となったと聞いて情勢が変わったと悟り、内心不安を抱き朝廷を怨んだ。折しも詔が下り、王益が鳳翔へ遣わされて趙匡賛の牙兵を都へ徴すことになった。趙思綰らはひどく恐れ、景崇はその不安を煽った。思綰は道中、同志の常彦卿に「小太尉(匡賛)はすでに彼らの手中だ。我らが京師に着けば皆殺しだ、どうする」と言い、彦卿は「機に臨んで変に応じるまで、それ以上言うな」と答えた。
  • 一行が長安に至り、永興節度副使の安友規と巡検の喬守温が出迎え、王益が客亭で酒宴を設けた。思綰は進み出て「壕寨使が城東に宿舎を定めました。今、将士の家族はみな城中にいます。それぞれ城に入って家族を連れ、城東に泊まりたい」と申し出、友規らは承知した。当時、思綰らは武具を持っていなかったが、西門を入ったところに州の校尉が門脇に座っていたので、思綰は素早くその剣を奪って斬った。徒党は喊声を上げ、白い棒で門を守る者十余人を殺し、党を分けて諸門を押さえた。思綰は府に入って庫を開き武具を配り、友規らは逃げ去った。思綰は城に拠って城中の若者四千余人を集め、城壁と堀を修繕し、十日ほどで攻守の備えを整えた。
  • 王景崇は鳳翔の吏民に自分を軍府の事に当たらせるよう表を上げさせ、朝廷は憂慮した。王守恩を永興節度使、趙暉を鳳翔節度使としてともに同平章事を加え、景崇は邠州留後として直ちに任地へ赴くよう命じた。
  • 虢州の伶人靖邊庭が團練使の田令方を殺し、州民を駆り立てて趙思綰のもとへ走ったが、潼関の守将に撃たれて衆は潰えた。
  • 邠・涇・同・華の四鎮がそろって「李守貞が永興・鳳翔と共に反した」と上言した。守貞は杜重威の死を聞いて恐れ、密かに異心を抱いていた。晉の時代に上将として戦功があり、施しを好んで士卒の心を得ていたこと、漢は新興で天子は年少、執政も後進ばかりで軽んじる気持ちがあったことから、亡命者を集め死士を養い、城と堀を修め甲兵を整えることを昼夜怠らず、蠟丸の書を間道から契丹へ送って結ぼうとしたが、たびたび辺境で捕らえられた。
  • 浚儀の趙修已は術数に長け、守貞が滑州に鎮したときから司户參軍として仕え、鎮を移すたびに従っていたが、「時運は動かせません、妄りに動かれますな」と幾度も切諫し、聞かれぬので病と称して郷里に帰った。一方、僧の揔倫は術で守貞に取り入り「必ず天子になる」と言い、守貞はこれを信じた。また将佐を集めた酒宴で、掌を舐める虎の絵に弓を引き「吾に非常の福があるなら舌に中るはずだ」と言って一矢で舌を射抜き、左右が祝したので、守貞はいよいよ自負した。
  • 趙思綰が長安に拠って表を奉り御衣を守貞に献じると、守貞は天と人の意が合致したと考えて秦王を自称し、驍将の王繼勲に潼関を押さえさせ、思綰を晉昌節度使とした。同州は河中に最も近く、匡國節度使の張彦威が常々守貞の動きを探って先に備えるよう奏請しており、詔で羅金山が兵を率いて同州に駐屯したため、守貞の挙兵時に同州は併呑を免れた。

乾祐元年四月〜八月(948年・郭威の起用)

  • 四月、郭從義を永興行営都部署として趙思綰を討たせ、白文珂を河中行営都部署、王浚を都監とし、李守貞の官爵を削って討伐を命じ、尚洪遷を西面行営都虞候とした。
  • 王景崇は邠州へ赴かず引き延ばし、鳳翔の丁壮を集めて「趙思綰を討つ」と偽り、邠州にも兵を合わせるよう牒を送った。さらに蜀の鳳州刺史徐彦に書を送って交易を求め、蜀主は彦に返書させて景崇を誘った。
  • 六月、王景崇は蜀に降を請い、あわせて李守貞からも官爵を受けた。
  • 西面行営都虞候の尚洪遷が長安を攻めて重傷を負い死んだ。
  • 七月、鳳翔節度使の趙暉が長安に至り、王景崇の反状はますます明白だとして進撃を請うた。
  • 河中・永興・鳳翔の三鎮が命に抗して以来、朝廷は諸将を次々に送り、常思は潼関、白文珂は同州、趙暉は咸陽に屯し、郭從義と王峻だけが長安近くに柵を構えたが、二人は水火のごとく憎み合い、春から秋まで互いに寄りかかって誰も攻めようとしなかった。帝はこれを憂え、重臣を派遣して督したいと考えた。
  • 八月、郭威が西面軍前招諭安撫使とされ、諸軍はすべてその指揮下に入った。威が出立に際して太師の馮道に策を問うと、道は「守貞は自らを旧将と称して士卒に慕われています。公は官の財物を惜しまず士卒に与えなさい。そうすれば彼の恃むものを奪えます」と答えた。威がこれに従うと、衆心はようやく威に付き始めた。白文珂に河中、趙暉に鳳翔へ向かうよう詔した。
  • 蜀は鳳翔を岐陽軍と改め、王景崇を岐陽節度使・同平章事とした。
  • 郭威が諸将と攻略を議したとき、諸将は先に長安を取りたがったが、鎮國節度使の扈彦珂は「今、三つの叛徒が結んで守貞を主に推しています。守貞が滅べば両鎮は自ずと崩れます。近きを捨てて遠きを攻め、万一、王・趙が前を拒み守貞が後ろから足を引けば危うい道です」と言い、威はこれをよしとした。かくて威は陝州から、白文珂と劉詞は同州から、常思は潼関から、三道で河中を攻めた。
  • 郭威は士卒を撫養して苦楽を共にし、小さな功にも厚く賞し、わずかな負傷でも自ら見舞い、賢愚を問わず士の申し出は穏やかな顔と言葉で受け、逆らわれても怒らず、小さな過ちは咎めなかった。このため将卒はみな威に心を寄せた。当初、李守貞は禁軍がかつて自分の麾下で恩を受けており、しかも士卒は驕慢で漢の厳しい法に苦しんでいるから、着けば城門を叩いて迎え入れられると高をくくっていた。ところが士卒は郭威から新たに賞を受けて守貞の旧恩を忘れており、城下に至ると旗を振り太鼓を打ち、躍り上がって罵り騒いだ。守貞はこれを見て顔色を失った。
  • 白文珂が西関城を落として河西に柵を築き、常思は城南、威は城西に柵を構えた。ほどなく威は常思に将としての器量がないと見て先に鎮へ帰した。諸将が急攻を請うと、威は言った――「守貞は前朝の宿将で、よく戦いよく施し、しばしば戦功を立てた。まして城は大河に臨み楼も城壁も堅固で、軽々しくは扱えぬ。彼は城に拠って戦い、こちらは見上げて攻めるのだから、士卒を湯火に投げ入れるのと変わらぬ。勇には盛衰があり、攻めには緩急があり、時には可否があり、事には先後がある。まず長い囲みを設けて守り、鳥も獣も出られぬようにするがよい。こちらは兵を休め馬を放ち、座して輸送を食べ、温飽に余りがある。城中の食が尽き、公の蔵も私財も尽き果てたところで梯や衝車を進めて迫り、檄を飛ばして招けばよい。彼の将士は身一つで死を逃れようとして父子ですら庇い合えぬ、まして烏合の衆をや。思綰と景崇は兵を分けて縛っておけば憂えるに足りぬ」と。
  • そこで諸州の民夫二万余を徴し、白文珂らに率いさせて長い壕を掘り連城を築き、隊列を並べて包囲した。威はさらに諸将に「守貞はかつて高祖を畏れて牙を剥かなかった。我らが太原から興ったばかりで功名も定かでないと見て侮る心があるから反したのだ。静をもって制するのが正しい」と言い、旗を伏せ太鼓を止め、ただ河沿いに火の番所を数十里連ね、歩卒を交替で守らせ、水軍の船を岸に着けて、密かに往来する者をことごとく捕らえた。こうして守貞は網の中に座らされた形になった。
  • 九月、蜀兵が王景崇を援けて散関に軍を進めると、趙暉が李彦從に襲撃させて破り、蜀兵は逃げた。
  • 王景崇は侯益の家族七十余人をことごとく殺した。益の子の仁矩は外にいて免れ、隰州刺史とされた。仁矩の子の延廣はまだ襁褓にあったが、乳母の劉氏が自分の子とすり替えて延廣を抱いて逃げ、物乞いをしながら大梁に至って益の家に帰した。

乾祐元年九月〜十二月(948年・河中の包囲と蜀の救援)

  • 李守貞はしばしば出撃して包囲を破ろうとしたが、いずれも敗れて戻った。蠟丸の書を唐・蜀・契丹に送って救いを求めたが、みな巡邏に捕らえられた。城中の食は尽きかけ、餓死者が日ごとに増え、守貞の顔にも憂いが現れた。揔倫を呼んで問い詰めると、「大王は必ず天子となられます、誰にも奪えません。ただこの分野に災いがあり、それが磨り減って尽き、一人一騎だけが残ったとき、大王が鵲のように舞い上がる時です」と答え、守貞はなおこれを信じた。
  • 十月、王景崇は子の德讓を、趙思綰は子の懷乂を成都の蜀主のもとへ送った。景崇が西門から兵を出すと趙暉が破って西関城を取り、景崇は大城に退いて守った。暉が壕を掘って囲み、幾度挑発しても出て来ないので、千余人に甲を着せ蜀の旗幟を掲げさせて南山伝いに下らせ、諸軍に「蜀兵が来た」と言い触らさせた。景崇は果たして数千を出して迎えに行かせ、暉は伏兵で襲って皆殺しにした。これ以来、景崇は出撃しなくなった。
  • 蜀主は安思謙に鳳翔救援を命じた。左僕射の毋昭裔が「莊宗皇帝は西を貪り、前蜀主は北へ行こうとしました。朝廷の臣がこぞって諫めても聞き入れず、何も成りませんでした。この両朝こそ鑑とすべきです」と諫めたが、聞かれなかった。さらに韓保貞を汧陽から出して漢兵の勢いを分けさせた。王景崇は李彦舜らを蜀兵の出迎えに送った。
  • 安思謙は右界に屯し、漢兵は寶雞に屯した。思謙は申貴に府兵二千を与えて模壁へ向かわせ、竹林に伏兵を置かせた。翌朝、貴が数百の兵で寶雞に迫って陣を敷き、漢兵が追ったところ伏兵にかかって敗れ、蜀兵は北上して寶雞の寨を破った。蜀兵が去ると漢兵は再び寶雞に入った。思謙が渭水に進んで屯すると、漢は五千を増して寶雞を守らせ、思謙は恐れて「糧は少なく敵は強い、後図を考えるべきだ」と衆に言い、鳳州に退き、まもなく興元へ帰った。
  • 彰武節度使の高允權と定難節度使の李彝殷は不和であった。李守貞が密かに彝殷に援を求め、彝殷は兵を出して延・丹の境に屯したが、官軍が河中を囲んだと聞いて退いた。允權がその状況を報告し、彝殷も自ら弁明したので、朝廷は間に立って和解させた。
  • もと沈丘の舒元と嵩山の道士楊訥はともに遊客として李守貞に仕えていた。守貞は漢に攻められると、元に姓を朱と改めさせ、訥には李平と名乗らせて、間道から表を奉じて唐に救いを求めた。唐の査文徽と魏岑が出兵を請い、唐主は李金全を北面行営招討使、劉彦貞を副、文徽を監軍使、岑を沿淮巡検使として沂州の境に軍を進めた。金全が諸将と食事をしていたところ、斥候が「澗の北に漢軍数百がいて、みな弱兵です、襲いましょう」と告げた。金全は「澗を越えようと言う者は斬る」と令した。日暮れに伏兵が四方から現れ、金鼓の音が十余里に響いた。金全は「先ほど戦っていられたか」と言った。当時、唐の士卒は戦に飽いて闘志なく、河中は遠くて間に合う情勢でもなかった。十一月、唐兵は海州へ退いた。唐主は帝に書を送って詫び、通商の再開を請い、あわせて守貞の赦免を願ったが、朝廷は返答しなかった。
  • 王景崇は蜀へ幾度も急を告げ、蜀主は安思謙に再出兵を命じた。十二月、思謙は興元から鳳州に屯し、まず糧四十万斛を運ばねば境を出られぬと請うた。蜀主は「思謙の様子では、朕のために進取する気などあるまい」と言いながらも、興州・興元の米数万斛を送った。思謙は散関に進み、高彦儔と申貴に漢の箭筈・安都の寨を破らせ、玉女潭で漢兵を破った。漢兵が寶雞に退くと思謙は模壁に進み、韓保貞も新関から出て隴州の神前に軍を進めたが、漢兵が出て来ないので保貞も進めなかった。
  • 趙暉が郭威に急を告げ、威は自ら赴いた。当時、李守貞は周光遜・王繼勲・聶知遇に城の西を守らせていた。威は白文珂と劉詞に「賊が囲みを破れなければ結局は我らの擒だ。万一破られれば吾はここに留まれなくなる。成敗の分かれ目はここにある。賊の精鋭は皆城西にいる。吾が去れば必ず突破に来る。汝らは厳重に備えよ」と戒めた。威は華州で蜀兵が糧を尽くして引き上げたと聞いて還り、韓保貞も安思謙が去ったと聞いて弓川寨へ退いた。

隱帝乾祐二年正月〜五月(949年・河中の陥落)

  • 正月、郭威が河中に近づき、白文珂が出迎えた。その夜、李守貞は王繼勲らに精兵千余を与えて河沿いに南下させ、漢の柵を襲わせた。岸に穴を穿って登り、侵入して火を放ち大声を上げたので、軍中は狼狽して手が付けられなかった。劉詞は平然として「小盗ごとき驚くに足らぬ」と令し、衆を率いて撃った。客省使の閻晉卿が「賊の甲はみな黄紙で、火に照らされれば見分けやすい。ただ味方に闘志がないのが問題だ」と言うと、禆将の李韜が「事なきときに君の禄を食みながら、急のときに死を賭して戦わぬ者があるか」と言って矛を構えて先に進み、衆も続いた。河中の兵は退いて七百人が死に、繼勲は重傷を負ってかろうじて逃れた。
  • 翌日、郭威が到着し、劉詞は馬前に迎えて罪を請うた。威は厚く賞して「吾が憂えていたのはまさにこれだ。兄の奮戦がなければ虜に笑われるところだった。だが虜の手はこれで尽きた」と言った。
  • 守貞が河西の柵を攻めようとした際、先に人を村里へ出して酒を売らせ、代金も取らずに与えたため巡邏の騎兵の多くが酔い、河中の兵が密かに寨へ入り込んで危うく守りきれぬところだった。そこで郭威は、犒宴以外の私的な飲酒を禁じた。愛将の李審が朝に少し酒を飲むと、威は怒って「汝は吾が帳下の筆頭でありながら軍令を破った。それでどうして衆を統べられよう」と言い、その場で斬って見せしめとした。
  • 靜州を定難軍に属させる詔が下り、二月、李彝殷が謝表を上った。彝殷は中原の多難につけこんで驕り、藩鎮に叛く者があるたび密かに助けて重い賄賂を得ていた。朝廷はそれを知りながら、恩沢で繋ぎ止めた。
  • 四月、河中の城中は食が尽きかけ、民の餓死者は十人に五、六に及んだ。李守貞は五千余を出し、梯と橋を担がせて五道から包囲の西北隅を攻めたが、郭威が吳虔裕に横撃させて撃退し、大半を殺傷して攻城具を奪った。五月、守貞は再び出撃してまた敗れ、将の魏延朗・鄭賓が捕らえられた。周光遜・王繼勲・聶知遇が千余人を率いて降り、守貞の将士の降伏が相次いだ。威はその離散に乗じて諸軍に百道から攻めさせた。
  • 趙思綰は人の肝を食うのを好み、生きたまま剖いて膾にし、膾を食べ終わっても本人はまだ死んでいないことがあった。また人の胆を酒で呑み下すのを好み、「これを千個呑めば胆力は無敵になる」と人に言った。長安城中の食が尽きると、婦女や幼児を軍糧とし、日ごとに数を計って配り、犒軍のたびに数百人を羊豚と同じやり方で屠った。
  • 思綰は策が尽きて途方に暮れ、郭從義が人を送って降伏を誘った。思綰が若い頃、左驍衛上將軍を退いた李肅の僕になろうとしたことがあったが、肅は「この者は目が落ち着かず言も大げさだ、他日必ず叛臣となる」と言って断った。肅の妻の張氏(張全義の娘)が「今拒めば後の患いになります」と言い、金帛を厚く贈った。思綰が長安に拠ったとき、肅は城中に閑居しており、思綰はしばしば訪れて昔通りに拝伏した。肅が「この男が頻繁に来て吾を汚す、自殺したい」と言うと、妻は「それより帰順を勧めては」と言った。折しも思綰が身の全うし方を尋ねたので、肅は判官の程讓能と共に「公はもともと国家と含むところがあったわけではなく、ただ罪を恐れただけです。今、国家は三道で兵を用いていずれも功がありません。この時に翻然と考えを改めれば朝廷は必ず喜び、富貴を失わずに済みます。座して死を待つのと、どちらがよいですか」と説き、思綰は従って使者を送り降を請うた。思綰は華州留後、常彦卿は虢州刺史とされ、直ちに任地へ赴くよう命じられた。
  • 七月、趙思綰は甲を脱いで城を出て詔を受け、郭從義が兵で南門を守って思綰を城へ戻した。思綰が牙兵と武具の返還を求めると從義はこれも与えたが、思綰は財貨を集めながら引き延ばして三度も出発日を変えた。從義らは疑って郭威に密報し、処置の許可を得た。從義は王峻と轡を並べて入城し府舎に入り、思綰を送別の酒に招いて捕らえ、常彦卿と思綰の父兄・部曲三百人とともに市で斬った。
  • 郭威は河中の外郭を落とし、李守貞は残兵を収めて子城に退いた。諸将が急攻を請うと、威は「鳥も窮まれば啄む、まして一軍ならなおさらだ。水を涸らして魚を取るのに、急ぐ必要がどこにある」と言った。李守貞は妻と子の崇勲らとともに焼身し、威は入城して子の崇玉ら、および守貞が任じた宰相の靖蜍・孫愿、樞密使の劉芮、國師の揔倫らを捕らえ、大梁へ送って市で磔にした。趙修已は翰林天文に召された。
  • 威が守貞の文書を調べたところ、朝廷の権臣や藩鎮が守貞と通じた書があり、文言は逆意に満ちていた。奏上しようとすると、秘書郎の王溥が「魑魅は夜に乗じて出てきますが、日を見れば自ずと消えます。すべて焼いて動揺する者たちを安んじてください」と諫め、威は従った。
  • 郭從義に同平章事を加え、扈彦珂を護國節度使、劉詞を鎮國節度使とした。

乾祐二年八月〜十二月(949年・恩賞の分与と鳳翔の平定)

  • 八月、郭威が大梁に至って謁見し、帝が労って金帛・衣服・玉帯・鞍馬を賜ると、威は辞退して言った――「臣は命を受けて一年、わずか一城を落としただけで、何の功がありましょう。まして臣が外で兵を率いていられたのは、京師を鎮め安んじ、必要な物資を調えて兵糧を欠かさなかった、中央の大臣たちの力です。臣一人がこの賜りを受けられましょうか。どうか皆に賞を及ぼしてください」と。さらに方鎮を領させる議には「楊邠は臣より位が上なのにまだ封土がありません。帷幄の臣は史弘肇と同じには扱えません」と辞退した。
  • 九月、宰相・樞密・宣徽・三司・侍衞使の九人に、威と同等の賜りが行き渡った。帝がなお威だけを特別に賞そうとすると、「策を立てるのは廟堂、兵と糧を出すのは藩鎮、風雨に晒されて戦うのは将士です。それなのに功だけが臣に帰しては、臣は堪えられません」と辞した。威に侍中、史弘肇に中書令を加え、竇貞固・蘇逢吉・蘇禹珪・楊邠にもそれぞれ官を加えた。
  • 諸大臣は、朝廷の執政にあまねく恩を加えると藩鎮が不満を抱くと議し、高行周に太師、安審琦に太傅、苻彦卿に太保、劉崇に中書令を兼ねさせ、劉信・慕容彦超・劉銖にはみな侍中を、馮暉・李彝殷には中書令を加えた。十月には孫方簡・劉贇に同平章事、錢弘俶に尚書令、馬希廣に太尉、高保融に侍中を加えた。議者は、郭威が功を独占せず人に分けたのは信に美しいが、一人の功で天下に爵位が及ぶのはやはり濫ではないか、と評した。
  • 邢州の周璨は諸衞將軍の任を解かれて頼るところがなく、王景崇の西征に従い、景崇が叛くとその参謀格になっていた。
  • 趙暉が鳳翔を急攻すると、周璨は王景崇に「公はかつて蒲(河中)・雍(永興)と表裏をなしていましたが、今、二鎮は平定され蜀の連中も頼りになりません。降る方がよい」と言い、景崇は「もっともだ、考えておこう」と答えた。数日後、外からの攻撃がさらに激しくなると、景崇は一党に「もはや窮まった、思い切った策を取る」と告げ、公孫輦と張思練に「趙暉の精兵の多くは城の北にいる。明朝の五鼓前に、汝ら二人は城の東門を焼いて偽りの降伏をせよ、ただし敵を入れるな。吾は周璨と牙兵を率いて北門から出て暉の軍に突入する。たとえ成らずに死んでも、手を束ねているよりましだ」と言い、皆は賛同した。
  • 夜明け前、輦と思練が東門を焼いて降を請い、府の役所からも火の手が上がった。二将が人をやって様子を見させると、景崇は既に家族とともに焼身していた。璨も降った。