通鑑紀事本末范・楊の叛乱(范延光・楊光遠)(范楊之叛(范延光・楊光遠))

後晉高祖のもとで相次いだ范延光と楊光遠の叛乱。天福二年(937年)、天雄節度使の范延光が魏州で挙兵し、張従賓・苻彦饒らも呼応したが、劉知遠・桑維翰が朝廷を支え、楊光遠・杜重威らが各地で破って翌年に延光は降伏する。しかし討伐で重きをなした楊光遠が驕慢となり、鉄券を与えられた延光を河へ突き落として殺し、のち平盧に移る。開運元年(944年)、契丹を引き入れて叛いたが青州を囲まれ、子に降られて殺された。

年表(5件)

後晉高祖天福元年(936年・秘瓊の専断)

  • はじめ成徳節度使の董温琪は貪欲・凶暴で巨万の財を積み、牙内都虞候で平山の秘瓊を腹心としていた。
  • 温琪が趙徳鈞とともに契丹に捕われると、瓊はその家人をことごとく殺して一つの穴に埋め、その財貨を奪って自ら留後と称し、軍が乱れたと表した。

天福二年正月〜六月(937年・范延光の挙兵)

  • 春正月、詔で秘瓊を斉州防禦使とした。
  • はじめ天雄節度使兼中書令の范延光が微賤だったころ、術士の張生が必ず将相になると言った。延光は貴くなるとこれを信じ重んじた。延光がかつて蛇が腹に入る夢を見て張生に問うと、張生は「蛇は龍です。帝王の兆しです」と言った。延光はこれで分不相応な志を抱いた。
  • 唐の潞王はかねて延光と親しかった。趙徳鈞が敗れると、延光は遼州から兵を率いて魏州へ還り、表を奉って降を請うたものの、内心は不安で、書をひそかに秘瓊へ送って結び、ともに乱を起こそうとした。瓊は書を受け取ったが返答せず、延光は恨んだ。
  • 瓊が斉州へ赴くのに魏の境を通るとき、延光は口を封じ、あわせてその財貨を狙って、兵を送って夏津で待ち伏せさせて殺した。丁卯、延光は夏津の捕盗の兵が誤って瓊を殺したと奏し、帝は問わなかった。
  • 三月、范延光は兵卒を集め武器を整え、巡内の刺史をことごとく召して魏州に集め、乱を起こそうとした。折しも帝は都を大梁へ移すことを謀った。兼樞密使の桑維翰が言った。「大梁は北は燕・趙を制し、南は江・淮に通じる水陸の都会で、物資は豊かです。今、延光の反する形はすでに露わです。大梁は魏まで十駅にすぎません。彼に変があっても大軍がすぐ至ります。いわゆる疾雷は耳を掩うに及ばずです」。
  • 丙寅、洛陽の漕運に欠けがあることに託して汴州へ東巡する詔を下した。庚辰、帝は洛陽を発ち、前朔方節度使の張従賓を東都巡検使として残した。
  • 夏四月丙戌、帝が汴州に至り、丁亥、大赦した。
  • 五月壬申、范延光の爵を進めて臨清郡王とし、その意を安んじた。
  • 范延光はかねて軍府の政を元随左都押牙の孫鋭に委ねていた。鋭は恩を恃んで専横で、符や上奏で意に適わぬものがあれば延光の面前で手ずから裂いた。折しも延光が十日ほど病んだ隙に、鋭は密かに澶州刺史の馮暉を召して謀を合わせ、延光に迫って反させた。延光も張生の言を思い、ついに従った。
  • 六月、六宅使の張言が魏州への使いから帰って延光の反状を告げ、義成節度使の苻彦饒も延光が兵を送って河を渡り草市を焼いたと奏した。詔で侍衛馬軍都指揮使・昭信節度使の白奉進に千五百騎を率いて白馬津に屯して備えさせた。奉進は雲州の人である。
  • 丁酉、東都巡検使の張従賓を魏府西南都部署とした。戊戌、侍衛都軍使の楊光遠に歩騎一万を率いて滑州に屯させた。己亥、護聖都指揮使の杜重威に兵を率いて衛州に屯させた。重威は朔州の人で、帝の妹の楽平長公主を娶っていた。
  • 范延光は馮暉を都部署、孫鋭を兵馬都監とし、歩騎二万を率いて河に沿って西へ黎陽口に至らせた。辛丑、楊光遠が兵を率いて胡梁渡を越えたと奏した。
  • 丁未、侍衛使の楊光遠を魏府四面都部署、張従賓を副部署兼諸軍都虞候とし、昭義節度使の高行周に本軍を率いて相州に屯させ魏府西向都部署とした。
  • 軍士の郭威はもと劉知遠に隷していたが、楊光遠に従って北征することになった。知遠に留めてほしいと願い出て、理由を問われると「楊公には姦詐の才はあるが英雄の気がありません。私を得ても何の役にも立ちません。私を用いられるのは劉公でしょう」と言った。
  • 詔で張従賓に河南の兵数千を発して范延光を撃たせた。延光が人をやって従賓を誘うと、従賓はそのままともに反した。皇子の河陽節度使・重信を殺し、上将軍の張継祚に河陽留後を知らせた。継祚は張全義の子である。
  • 従賓はさらに兵を率いて洛陽に入り、皇子で権東都留守の重乂を殺し、東都副留守・都巡検使の張延播に河南府の事を知らせた。従賓は内庫の銭帛を取って部兵に賞したが、留守判官の李遐が渡さなかったので、兵衆が殺した。
  • 従賓は兵を率いて東の汜水関を扼し、汴州に迫ろうとした。詔で奉国都指揮使の侯益に禁兵五千を率いて杜重威と合流して張従賓を討たせ、さらに詔で宣徽使の劉処譲に黎陽から兵を分けて討たせた。
  • 当時、羽檄が縦横に飛び、大梁にいる従官で恐れおののかぬ者はなかった。ただ桑維翰だけがゆったりと軍事を指図し、神色は自若として、賓客の応接も常と変わらなかった。衆心はこれでやや安んじた。
  • 秋七月、張従賓が汜水を攻め、巡検使の宋廷皓を殺した。帝は戎服して軽騎を整え、晉陽へ奔って避けようとしたが、桑維翰が叩頭して苦諫した。「賊の鋒は盛んでも、勢いは長続きしません。しばらくお待ちください。軽々しく動かれてはなりません」。帝はやめた。
  • 范延光は使者に蠟丸を持たせて職を失った者を誘った。右武衛上将軍の婁継英と右衛大将軍の尹暉は大梁におり、温韜の子の延濬・延沼・延袞は許州にいて、いずれも応じた。延光は延濬兄弟に許州を取らせ、集めた徒はすでに千人に及んだ。継英と暉は事が漏れていずれも逃げた。
  • 壬子、敕を下した。延光は姦謀で忠良を誣汚している。今後、延光の間諜を捕えたら捕えた者に賞を与え、間諜を殺し蠟書を焼いて奏聞するな、と。
  • 暉は呉へ奔ろうとして人に殺された。継英は許州へ奔って温氏を頼ったが、忠武節度使の萇従簡が盛んに備えたので延濬らは動けなかった。継英を殺して自ら潔白を示そうとしたが、延沼が止め、そろって張従賓のもとへ奔った。継英はその謀を知り、従賓に勧めて温氏三人を捕えていずれも斬らせた。
  • 白奉進が滑州にいたとき、夜に掠奪する軍士があり、捕えて五人を得た。うち三人は奉進に、二人は苻彦饒に隷していたが、奉進は皆斬った。彦饒は先に自分に告げなかったことに大いに怒った。
  • 翌日、奉進が数騎を従えて彦饒のもとへ謝りに行くと、彦饒は「軍中にはそれぞれ所属がある。どうして滑州の軍士を捕えてまとめて斬ったのか。まるで客主の義がない」と言った。奉進は「軍士が法を犯したのに、彼我の別があるものか。僕はすでに咎を認めて公に謝した。それでも公の怒りが解けぬのは、延光とともに反するつもりだからではないか」と言い、袖を払って立った。
  • 彦饒は引き止めず、帳下の甲士が大いに騒いで奉進を捕えて殺した。従っていた騎兵が走り出て外で大声を上げると、諸軍は争って甲を着け武器を執り、喧騒は禁じられなかった。
  • 奉国左廂都指揮使の馬万は惑って為すすべを知らず、兵を率いて乱に加わろうとした。そこへ右廂都指揮使の盧順密が部兵を率いて営を出て、厲声で万に言った。「苻公は勝手に白公を殺した。必ず魏城と通謀している。ここから行営まで二百里にすぎぬ。我らも軍士の家族もみな大梁にいる。どうして国に報いることを思わず、乱を助けて自ら滅族を求めるのか。今日は共に苻公を捕えて天子に送り、大功を立てるべきだ。軍士で命に従う者は賞し、違う者は誅する。もう疑うな」。
  • 万の部兵にはなお喚き躍る者があったが、順密が数人を殺すと衆はあえて動かなかった。万はやむなく従い、奉国都虞候の方太らとともに牙城を攻めて彦饒を捕え、太に大梁へ護送させた。甲寅、敕で彦饒を班荊館で斬り、その兄弟は問わなかった。
  • 楊光遠は白皋から兵を率いて滑州へ向かった。士卒は滑州の乱を聞いて光遠を推して主としようとした。光遠は「天子はおまえたちが売り買いする物か。晉陽の降伏は窮迫から出たものだ。今もし図を改めれば、まことの反賊だ」と言い、その部下はあえて言えなくなった。
  • 当時、魏・孟・滑の三鎮が相次いで叛き、人情は大いに震えた。帝が劉知遠に計を問うと、答えた。「帝者の興るには天命があります。陛下は昔、晉陽にあって糧は五日も支えられなかったのに、たちまち大業を成されました。今、天下はすでに定まり、内には勁兵があり、北には強虜を結んでおります。鼠のごとき輩に何ができましょう。陛下は恩で将相を撫でられますよう。臣は威で士卒を戒めます。恩と威がともに著れれば京邑は自ら安んじます。本根が深く固ければ枝葉は傷つきません」。
  • 知遠はそこで科禁を厳しく設け、宿衛の諸軍であえて犯す者はなかった。ある軍士が紙銭一束を盗み、担当者が捕えた。左右が釈すよう請うと、知遠は「私はその心根を誅するのであって、値を計るのではない」と言い、ついに殺した。これで衆は皆畏れ服した。
  • 乙卯、楊光遠を魏府行営都招討使兼知行府事、昭義節度使の高行周を河南尹・東京留守、杜重威を昭義節度使・侍衛馬軍都指揮使、侯益を河陽節度使とした。帝は滑州の奏事がみな馬万を筆頭にしていたので、万を抜擢して義成節度使とした。
  • 丙辰、盧順密を果州団練使、方太を趙州刺史とした。まもなくすべて順密の功と知れ、あらためて順密を昭義留後とした。
  • 馮暉と孫鋭が兵を率いて六明鎮に至った。光遠はこれを誘って河を渡らせ、半ば渡ったところで撃った。暉と鋭の衆は大敗し、多くが溺死し、斬首は三千級に及んだ。暉と鋭は魏へ逃げ帰った。
  • 杜重威と侯益が兵を率いて汜水に至り、張従賓の衆一万余人に遭って戦い、俘斬はほぼ全員に及び、そのまま汜水を落とした。従賓は走って馬に乗って河を渡ろうとして溺死した。その一味の張延播・張継祚・婁継英を捕えて大梁へ送り、斬ってその一族を滅ぼした。史館修撰の李濤が、張全義には洛邑を再造した功があるとしてその一族を免じることを乞い、継祚の妻子を誅するにとどめた。濤は李回の族曽孫である。
  • 楊光遠が、知博州の張暉が城を挙げて降ったと奏した。
  • 安州の威和指揮使・王暉は范延光の乱を聞き、安遠節度使の周環を殺して自ら軍府を領し、延光が勝てば付き、敗れれば江を渡って呉へ奔ろうと考えた。帝は右領軍上将軍の李金全に千騎を率いて安州へ行って巡検させ、王暉を赦して唐州刺史とすることを許した。
  • 范延光は事が成らぬと知って罪を孫鋭に帰してその一族を誅し、使者を送って表を奉り罪を待った。戊寅、楊光遠がこれを報じたが、帝は許さなかった。
  • 山南東道節度使の安従進は王暉が呉へ奔ることを恐れ、行軍司馬の張朏に兵を率いさせて復州の兵と要路で合流して待ち伏せさせた。暉は安州を大いに掠め、呉へ奔ろうとして部将の胡進に殺された。八月癸巳、その旨が報じられた。
  • 李金全が安州に至り、乱に与った将士数百人を説き諭してことごとく闕へ送った。だがまもなく指揮使の武彦和ら数十人が多くの財貨を携えていると聞き、野に兵を伏せて捕えて斬った。彦和は死のうとして叫んだ。「王暉は首悪なのに天子はなお赦された。我ら脅されて従った者に何の罪がある」。帝は金全の実情を知りながら掩って問わなかった。
  • 乙巳、張従賓・苻彦饒・王暉の一味でまだ誅に伏していない者を赦し、すべて問わないこととした。甲寅、李金全を安遠節度使とした。

天福三年(938年・范延光の降伏)

  • 夏五月、楊光遠は重兵を擁していることを恃んでかなり朝政に干渉し、たびたび抗弁の奏をした。帝は常に意を曲げて従った。庚申、その子の承祚を左威衛将軍として帝の娘の長安公主を娶らせ、次子の承信も美官に任じた。寵は当時、群を抜いた。
  • 秋八月壬午、楊光遠が、前澶州刺史の馮暉が広晉城中から出戦し、そのまま降ってきて、范延光は食が尽きて窮しきっていると言ったと奏した。己丑、暉を義成節度使とした。
  • 楊光遠は広晉を攻めて一年余り落とせなかった。帝は師が疲れ民が疲弊したので、内職の朱憲を城に入れて延光に諭させ、大藩への移鎮を許して言った。「もし降ってそなたを殺すなら、白日が上にある。国を享ける資格はない」。
  • 延光は節度副使の李式に「主上は信を重んじられる。死なせぬと言われるなら死なぬだろう」と言い、守備を撤した。だがなお引き延ばして決しかねた。宣徽南院使の劉処譲があらためて入って諭し、延光の意はようやく決した。
  • 九月乙巳朔、楊光遠は延光の二子・守図と守英を大梁へ送った。己酉、延光は牙将を送って表を奉り罪を待った。壬子、詔書が広晉に至り、延光はその衆を率いて素服で牙門に立ち、使者が詔を宣して釈した。朱憲は汴州の人である。
  • 庚午、楊光遠が入朝を乞う表を出し、劉処譲に天雄軍府の事を権知させた。己巳、制で范延光を天平節度使とし、なお鉄券を賜った。広晉城中の将吏・軍民はこの日以前の罪をすべて釈して問わず、張従賓・苻彦饒の余党および官軍から逃げて城に入った者も釈した。延光の腹心の将佐である李式・孫漢威・薛覇はいずれも防禦使・団練使・刺史に任じ、牙兵はみな侍衛親軍に昇格させた。
  • はじめ河陽行軍司馬の李彦珣は邢州の人で、父母が郷里にいたのに一度も仕送りしなかった。のち張従賓とともに反し、従賓が敗れると広晉へ奔り、范延光は歩軍都監として城に登って拒み守らせた。楊光遠がその母を探し出して城下に置いて招いたが、彦珣は弓を引いてその母を射殺した。
  • 延光が降ると、帝は彦珣を坊州刺史とした。近臣が、彦珣は母を殺した悪逆であって赦すべきでないと言ったが、帝は「赦令はすでに行われた。改められぬ」と言い、そのまま任地へ送った。

史論(臣光曰)

  • 国を治める者にもとより信がなくてはならぬ。だが彦珣の悪は天地人の三霊が容れぬものである。晉の高祖が君に叛いた咎を赦したうえで母を殺した罪を治めたとしても、信に何の損があっただろうか。

天福三年冬〜五年(938-940年・楊光遠の増長と范延光の死)

  • 辛未、楊光遠を天雄節度使とした。
  • はじめ郭崇韜が死んで以来、宰相で樞密使を兼ねる者はまれだったが、帝が即位すると桑維翰と李崧が兼ねた。宣徽使の劉処譲および宦官はいずれも快く思わなかった。
  • 楊光遠が広晉を囲んでいたころ、処譲はしばしば軍事で命を帯びて往来した。光遠の奏請には分を越えるものが多く、帝は常に曖昧にしていたが、維翰だけは法で裁いて折った。光遠が処譲に不平を漏らすと、処譲は「それはみな執政の意です」と言った。光遠はこれで執政を怨んだ。
  • 范延光が降ると、光遠は密表で執政の過失を論じた。帝はその理由を知りつつやむを得ず、維翰に兵部尚書、崧に工部尚書を加えていずれも樞密使を罷め、処譲を樞密使とした。
  • 十一月、范延光が鄆州から入朝した。
  • 帝は天雄節度使の楊光遠の跋扈で制しがたいことを憂え、桑維翰が天雄の衆を分けることを請うた。光遠に太尉・西京留守兼河陽節度使を加えたが、光遠はこれで怨望し、ひそかに賂を贈って契丹に訴え、部曲千余人を養って常に異志を蓄えた。
  • 范延光はたびたび致仕を請い、甲寅、詔で太子太師として致仕させ、大梁に住まわせた。宴会のたび群臣と変わらぬ扱いだった。
  • 延光が反したとき、相州刺史で掖の人・王景は境を拒んで従わなかった。戊午、景を耀州団練使とした。
  • 四年秋七月、西京留守の楊光遠が、中書侍郎・同平章事の桑維翰の人事は公正でなく、しかも両都に邸や店を営んで民と利を争っていると上疏した。帝はやむを得ず、閏月壬申、維翰を彰徳節度使兼侍中として出した。
  • 五年秋八月、太子太師で致仕していた范延光が河陽の私邸へ帰ることを請い、帝は許した。延光は重い荷を載せて出発した。
  • 西京留守の楊光遠は河陽も兼領していて、その財貨を狙い、しかも子孫の患いとなることを慮り、「延光は叛臣です。洛や汴に家を構えず外藩に就くのは、逃げて敵国に入る恐れがあります。早く除くべきです」と奏した。帝は許さなかった。光遠は延光を西京に住まわせることを請い、許された。
  • 光遠は子の承貴に甲士でその邸を囲ませ、自殺を迫った。延光は「天子が上におられ、私に鉄券を賜って死なせぬと許された。おまえたち父子がどうしてこんなことができる」と言った。己未、承貴は白刃で延光を駆り立てて馬に乗せ、浮橋に至って河へ突き落とした。光遠は自ら水に入って死んだと奏した。帝はその実を知りながら光遠の強さを憚って問い質せず、延光のために朝を止めて太師を贈った。
  • 九月、楊光遠が入朝した。帝は他鎮へ移そうとして光遠に言った。「魏を囲んだ役では卿の左右にも功があったのに、まだ賞していない。今、それぞれ一州を授けて栄えさせよう」。そこでその将校数人を刺史とした。甲申、光遠を平盧節度使に移し、爵を進めて東平王とした。

齊王天福八年〜開運元年(943-944年・楊光遠の叛と誅殺)

  • はじめ高祖は馬三百を平盧節度使・同平章事の楊光遠に貸していた。景延広が詔命でこれを取り立てると、光遠は怒って「これは私を疑っているのだ」と言い、密かに子の単州刺史・承祚を召した。
  • 十一月戊戌、承祚は母の病と称して夜に門を開いて青州へ奔った。庚子、左飛竜使で金城の何超に単州を権知させ、内班を送って光遠に玉帯・御馬・金帛を賜ってその意を安んじた。
  • 壬寅、侍衛歩軍都指揮使の郭謹に兵を率いて鄆州を戍らせた。十二月乙巳朔、左領軍衛将軍の蔡行遇に兵を率いて鄆州を戍らせた。楊光遠は騎兵を淄州へ入れて刺史の翟進宗を掠めて青州へ連れ帰った。甲寅、楊承祚を登州刺史に移してその便宜に従わせた。光遠はいっそう驕り、密かに契丹に告げて晉を取らせようとした。
  • 開運元年春正月、成徳節度使の杜威が幕僚の曹光裔を楊光遠のもとへ送って禍福を説かせた。光遠は光裔を入奏させ、承祚が逃げ帰ったのは母の病のためであり、恩宥を蒙って一族こぞって恩を負っていると言った。朝廷はその言を信じ、使者を光裔とともにあらためて送って慰め諭した。
  • 博州刺史の周儒が城を挙げて契丹に降り、さらに楊光遠と使者を往来させた。
  • 二月甲辰、周儒が契丹の将・麻荅を導いて鄆州を攻め、楊光遠に応じた。辛亥、楊光遠は青州の兵を率いて西へ契丹と会した。戊午、詔で前保義節度使の石贇に兵を分けて鄆州に屯して備えさせた。
  • 壬戌、楊光遠が棣州を囲んだが、刺史の李瓊が兵を出して撃ち破った。光遠は営を焼いて青州へ逃げ還った。癸亥、前威勝節度使の何重建を東面馬歩都部署として兵を率いて鄆州に屯させた。
  • 夏四月戊寅、侍衛馬歩都虞候・泰寧節度使の李守貞に歩騎二万を率いて青州の楊光遠を討たせた。契丹がこれを救ったが、斉州防禦使で堂陽の薛可言が迎え撃って破った。
  • 冬十二月、李守貞が青州を囲んで時を経て、城中は食が尽き、餓死する者が大半に及んだ。契丹の援兵は至らなかった。楊光遠は遥かに契丹に稽首して「皇帝よ、皇帝よ、光遠を誤らせた」と言った。
  • その子の承勲・承祚・承信は光遠に降って一族を全うすることを勧めたが、光遠は許さず、「私は昔、代北にいたころ紙銭で天池を祭って沈めたことがある。人は皆、天子となるはずだと言った。しばらく待て」と言った。
  • 丁巳、承勲は光遠に反を勧めた節度判官の丘濤らを斬ってその首を守貞に送り、火を放って大いに喊いて父を掠して私邸へ移し、表を上って罪を待ち、城を開いて官軍を入れた。
  • 朝廷は楊光遠の罪は大きいが、諸子が命に帰したので公然と誅するのは難しく、李守貞に便宜従事させた。閏月癸酉、守貞は青州に入り、人をやって光遠を別邸で締め殺し、病死と報じた。丙戌、楊承勲を起復して滋州防禦使とした。