通鑑紀事本末秦王の乱(両王の簒弑を付す)(秦王之亂(兩王篡弒附))

後唐明宗の長子・李従栄が驕慢に育って六軍を判じ天下兵馬大元帥となり、明宗の危篤に乗じて兵を率いて宮門に迫って敗死するまでと、そののち即位した閔帝・従厚が朱弘昭・馮贇の猜疑によって鳳翔の潞王・従珂の挙兵を招き、諸軍の寝返りで洛陽を追われ、衛州で殺されて潞王が即位するまで。926年から934年までの経緯。

年表(5件)

後唐明宗天成元年〜四年(926-929年・從榮の驕慢)

  • 天成元年冬十二月庚子、皇子の従栄を天雄節度使・同平章事とした。
  • 二年春正月癸酉、皇子の従厚を同平章事・河南尹・判六軍諸衛事とした。従厚は従栄の同母弟である。従栄はこれを聞いて不快だった。
  • 秋九月、帝は樞密使の安重誨に「従栄の側近に、朕の旨と偽って『儒生に接するな。人の志気を弱める』と言った者がある。朕は従栄が若くして大藩に臨むので、名のある儒者を択んで輔導させたのだ。それを姦人がこう言うとは。斬りたい」と言ったが、重誨は厳しく戒めるだけにと請うた。
  • 三年夏四月、鄴都留守の従栄を河東節度使・北都留守とし、客省使の馮贇(太原の人)を副留守、夾馬都指揮使の楊思権(新平の人)を歩軍都指揮使として補佐させた。丙戌、樞密使の安重誨に河南尹を兼ねさせ、河南尹の従厚を宣武節度使とし、なお六軍諸衛事を判じさせた。
  • 冬十二月、河東節度使・北都留守の従栄は年若く驕慢で険しく、政務を親らせなかった。帝は側近でかねて従栄と親しい者を送って側に置き、それとなく諭させた。その人は私かに従栄に「河南相公(従厚)は恭謹で善を好み、端正な士を親しく礼遇し、老成の風があります。相公は年長ですから、自ら励んで、評判が河南の下と言われぬようになさるべきです」と言った。
  • 従栄は不快で、退いて歩軍都指揮使の楊思権に「朝廷の人は皆従厚を推して私を貶める。私は廃されるのか」と言った。思権は「相公は手に強兵を握っておられます。しかも思権がおります。何を憂えられるのか」と言い、そのまま従栄に部曲を多く募って甲兵を修め、密かに自らを固める備えをするよう勧めた。さらに帝の側近に「君はいつも弟を誉めて兄を抑える。我らが助けられぬとでも思うのか」と言った。
  • その人は恐れて副留守の馮贇に告げ、贇が来て密奏した。帝は思権を闕へ召したが、従栄のことを慮って罪せなかった。
  • 四年春正月、馮贇が入って宣徽使となり、執政に「従栄は剛直偏屈で軽率です。徳の重い者を選んで補佐させるべきです」と言った。
  • 夏四月壬子、皇子の従栄を河南尹・判六軍諸衛事、従厚を河東節度使・北都留守とした。
  • 長興元年秋八月、皇子の従栄を秦王に立て、丙辰、従厚を宋王に立てた。

長興三年〜四年(932-933年・秦王の跋扈)

  • 三年、秦王・従栄は詩を作るのを好み、浮華の士である高輦らを幕府に集めて唱和し、かなり自ら誇った。酒宴のたび僚属に詩を賦させ、意に適わぬ者があれば面と向かって破り捨てた。
  • 冬十月壬子、従栄が拝謁に入ると、帝は「私は書は読めぬが、儒生が経義を講じるのを聞いて人の智思を開き益するのは好きだ。私は荘宗が詩を作るのを好むのを見た。武将の家の子で文はもともと習ったものでなく、徒に人に密かに笑われるだけだった。そなたは真似るな」と言った。
  • 秦王・従栄は人となり鷹のような目つきで軽佻、厳しく短気だった。六軍諸衛事を判じたうえ朝政にも参与し、驕縦で不法なことが多かった。
  • はじめ安重誨が樞密使だったころ、上はもっぱら任せていた。従栄と宋王・従厚は襁褓のころから親しく馴れていたが、兵を掌っても常に重誨に制せられ、畏れて仕えた。重誨が死ぬと、王淑妃と宣徽使の孟漢瓊が帝命を宣伝し、范延光と趙延寿が樞密使となったが、従栄はいずれも軽んじ侮った。
  • 河陽節度使・同平章事の石敬瑭は六軍諸衛副使を兼ねていたが、その妻の永寧公主は従栄と母が異なり、かねて憎み合っていた。従栄は従厚の名声が自分より上であることをとりわけ忌んだが、従厚がへりくだって仕えたので、嫌隙は表に出なかった。
  • 石敬瑭は従栄と事をともにしたくなく、常に外任を求めて避けようと思っていた。范延光と趙延寿も禍が及ぶことを慮り、たびたび機要の職を辞して旧臣と交代することを請うたが、上は許さなかった。
  • 折しも契丹が侵入しようとし、上は帥臣を択んで河東に鎮させることとした。延光と延寿は「今の帥臣で行けるのは石敬瑭と康義誠だけです」と言い、敬瑭も行きたいと願った。上はただちに任じたが、詔を受けても六軍副使が外れていないので敬瑭はまた辞した。上はそこで宣徽使の朱弘昭に山南東道を掌らせ、義誠に代えて闕へ来させた。
  • 四年春正月戊子、秦王・従栄に守尚書令兼侍中を加えた。
  • 夏四月、事を言う者が親王に師傅を置くことを請うた。宰相は秦王・従栄を畏れてあえて人を任じられず、王自ら択ばせるよう請うた。秦王府判官・太子詹事の王居敏が兵部侍郎の劉瓉を従栄に推し、従栄は上表して請うた。癸丑、瓉を秘書監・秦王傅とし、前襄州支使の魚崇遠(山陽の人)を記室とした。瓉は自ら左遷と思って泣いて訴えたが免れられなかった。
  • 王府の参佐は皆新進の若者で軽率鋭利、諂諛ばかりだったが、瓉だけがゆったりと規諫したので、従栄は不快だった。瓉は傅でありながら、従栄は一様に僚属として扱ったので、瓉は難色を示した。従栄はこれを察し、以後、門番に取り次がぬよう戒め、月に一度府へ来る程度で、あるいは終日召されず食事も出なかった。
  • 五月戊寅、皇子の従珂を潞王に立てた。
  • 秋八月、太僕少卿で致仕した何澤は、上が病臥し秦王・従栄の権勢がまさに盛んなのを見て、自分がまた登用されることを望み、上表して従栄を太子に立てるよう請うた。上は表を見て涙を流し、私かに左右に「群臣が太子を立てよと請う。朕は太原の旧邸へ帰って老いるほかない」と言い、やむなく、丙戌、詔で宰相と樞密使に議させた。
  • 丁卯、従栄が上に会って「ひそかに聞くところ、姦人が臣を太子に立てるよう請うたとか。臣は幼く、しかも軍民を治めることを学びたい。この名を当てられたくありません」と言った。上は「群臣が望んだことだ」と言った。
  • 従栄は退いて范延光と趙延寿に会い、「執政は私を太子にして兵権を奪い、東宮に幽閉しようとしているのだ」と言った。延光らは上の意を知っており、しかも従栄の言を恐れ、ただちにつぶさに上に申し上げた。辛未、制で従栄を天下兵馬大元帥とした。
  • 九月、秦王・従栄が厳衛・捧聖の歩騎両指揮を牙兵とすることを請うた。入朝のたび数百騎を従え、弓を張り矢を挟んで大路を馳せた。文士に淮南を討つ檄の草案を試作させ、自分が海内を掃き清める意を述べさせた。
  • 従栄は執政に不快で、私かに親しい者に「私が一朝にして南面したら、必ず族滅する」と言った。范延光と趙延寿は恐れてたびたび外任を求めて避けようとしたが、上は自分の病を見て去ろうとしていると思い、ひどく怒って「去りたければ勝手に去れ。表など要らぬ」と言った。斉国公主があらためて延寿のために禁中で「延寿はまことに病で機務に堪えません」と言った。
  • 丙申、二人はあらためて上に「臣らは労を憚るのではありません。勲旧と交代したいのです。ともに去るつもりもありません。一人ずつ先に出ることをお許しください。新任が不適任なら、あらためて臣を召されればただちに参ります」と言い、上はようやく許した。
  • 戊戌、延寿を宣武節度使、山南東道節度使の朱弘昭を樞密使・同平章事とした。制が下ると弘昭はまた辞し、上は叱って「そなたらは皆わが側にいたがらぬ。そなたらを養って何になる」と言い、弘昭はそれ以上言えなかった。
  • 辛丑、詔で大元帥・従栄の位を宰相の上とした。
  • 冬十月、范延光がたびたび孟漢瓊と王淑妃を通じて外任を求め、庚申、延光を成徳節度使、馮贇を樞密使とした。
  • 帝は親軍都指揮使・河陽節度使・同平章事の康義誠を朴実忠厚として親任した。当時、要職・近臣の多くは秦王の禍を避けようと外任を求めていた。義誠は自ら脱せぬと思い、子に秦王へ仕えさせ、もっぱら恭順に努めて両端を持し、自らを全うすることを冀った。
  • 十一月甲戌、上が范延光を餞した。酒が終わって上が「卿は今遠く去る。事は言い尽くすべきだ」と言うと、延光は「朝廷の大事は内外の輔臣と参決され、小人どもの言を聴かれませぬよう」と答え、そのまま相対して泣いて別れた。当時、孟漢瓊が実権を握り、付き従う者が朋党をなして上の聴を蔽い惑わしていたので、延光はそれに触れたのである。

長興四年冬(933年・秦王の敗死と明宗の死)

  • 戊子、帝の病が再発し、己丑、危篤となった。
  • 秦王・従栄が見舞いに入ると、帝はうなだれて頭を上げられなかった。王淑妃が「従栄が来ております」と言っても帝は応じなかった。従栄が退出すると宮中で皆が哭く声を聞き、従栄は帝がすでに没したと思い、翌朝、病と称して参内しなかった。その夕、帝は実はやや快方に向かっていたが、従栄は知らなかった。
  • 従栄は自分が時論に与されていないと知り、嗣となれぬことを恐れ、一党と謀って兵を率いて侍り、先手を打って権臣を制しようとした。
  • 辛卯、従栄は都押牙の馬処鈞を送って朱弘昭と馮贇に「私は牙兵を率いて宮中に入って看病し、あわせて非常に備えたい。どこに留まるべきか」と言わせた。二人は「王が自ら択ばれよ」と言い、まもなく私かに処鈞に「主上はご壮健です。王は心を尽くして忠孝を励まれるべきで、みだりに人の浮言を信じてはなりません」と言った。
  • 従栄は怒ってあらためて処鈞を送って「公らはよほど家族が惜しくないのか。どうして私を拒める」と言わせた。二人は憂え、入って王淑妃と宣徽使の孟漢瓊に告げた。皆「この件は康義誠を得なければ済ませられません」と言い、義誠を召して謀った。義誠はついに何も言わず、ただ「義誠は将校にすぎません。あえて議に与れません。ただ相公のお指図に従います」と言った。弘昭は義誠が衆中で言いたくないのではと疑い、夜に私邸へ招いて問うたが、答えは初めと同じだった。
  • 壬辰、従栄は河南府から常服で歩騎千人を率いて天津橋に陣した。この日の黎明、従栄は馬処鈞を馮贇の邸へ送って「私は今日、決意して入り、興聖宮に居る。公らにはそれぞれ宗族がある。事を処するには詳らかに公平であるべきだ。禍福は須臾の間にある」と言わせ、また処鈞を康義誠のもとへ送った。義誠は「王が来られたら迎え奉ります」と言った。
  • 贇は右掖門へ駆け入り、弘昭・義誠・漢瓊および三司使の孫岳がちょうど中興殿の門外に集まって謀っているところに会った。贇はつぶさに処鈞の言を伝え、そのついでに義誠を責めた。「秦王は『禍福は須臾の間にある』と言った。その事は知れております。公は子が秦府にいるからといって様子を窺われますな。主上は我らを布衣から抜擢して将相に至らせてくださった。もし秦王の兵をこの門に入れたら、主上をどこに置くのか。我らに残る種がありましょうか」。
  • 義誠が答える前に、監門が「秦王がすでに兵を率いて端門の外に至りました」と告げた。漢瓊は袖を払って立ち上がり、「今日の事は君父に危険が及ぶ。公はなお様子を窺って己の利を図られるのか。私は余生を惜しまぬ。自ら兵を率いて防ぐ」と言い、ただちに殿門に入った。弘昭と贇が続き、義誠もやむなく続いて入った。
  • 漢瓊が帝に会って「従栄が叛き、兵はすでに端門を攻めております。まもなく入宮すれば大乱です」と言うと、宮中は顔を見合わせて号哭した。帝は「従栄はなぜこんな苦しいことをするのか」と言い、弘昭らに事実か問い、「その通りです。たった今、門番に門を閉じさせました」と答えた。帝は天を指して涙を流し、義誠に「卿が自ら処置せよ。百姓を驚かせるな」と言った。
  • 控鶴指揮使の李重吉は従珂の子で、当時側に侍っていた。帝は「私とそなたの父は矢石を冒して天下を定め、たびたび私を危難から脱してくれた。従栄らが何の力になった。今、人に教えられてこんな悖逆をなす。私はもとよりこの輩に大事は託せぬと知っていた。そなたの父を呼んで兵権を授けるべきだった。そなたは私のために諸門を閉じよ」と言い、重吉はただちに控鶴の兵を率いて宮門を守った。
  • 孟漢瓊は甲を着け馬に乗り、馬軍都指揮使の朱洪実を召して五百騎で従栄を討たせた。
  • 従栄はちょうど胡床に拠って橋の上に座り、左右を送って康義誠を召そうとしたが端門はすでに閉じていた。左掖門を叩き、門の隙間から覗いて朱洪実が騎兵を率いて北から来るのを見て、走って従栄に告げた。従栄は大いに驚き、鉄の掩心を取り寄せて着け、座って弓矢を整えた。まもなく騎兵が大挙して至り、従栄は府へ逃げ帰った。僚佐は皆鼠のように隠れ、牙兵は嘉善坊を掠めて潰えた。
  • 従栄は妃の劉氏と寝台の下に隠れたが、皇城使の安従益が斬り、あわせてその子も殺してその首を献じた。
  • はじめ孫岳はかなり内廷の密謀に与っていた。馮贇と朱弘昭が従栄の乱暴を憂えたとき、岳はそのために禍福の帰趨を極言したことがあった。康義誠はこれを恨み、ここに至って乱に乗じて密かに騎士を送って射殺した。
  • 帝は従栄の死を聞いて悲しみ驚き、危うく御榻から落ちかけ、二度気を失って蘇った。これで病は再び重くなった。
  • 従栄の一子はまだ幼く宮中で養われていた。諸将が除くことを請い、帝は泣いて「この子に何の罪がある」と言ったが、やむなくついに渡した。
  • 癸巳、馮道が群臣を率いて雍和殿で帝に会った。帝は両の眼から涙を流して咽び、「わが家の事はここに至った。卿らに会うのが恥ずかしい」と言った。当時、宋王・従厚は天雄節度使だった。甲午、孟漢瓊を送って従厚を召し、あわせて天雄軍府事を代行させた。
  • 丙申、従栄を庶人に追廃した。執政が従栄の官属の罪を議した。馮道は「従栄が親しんだのは高輦・劉陟・王説だけです。任賛は着任してわずか半月、王居敏と司徒詡は病で休んで半年になります。どうしてその謀に与れましょう。居敏はとりわけ従栄に憎まれておりました。昨日、兵を挙げて闕へ向かった折、輦・陟と轡を並べて行きながら日の影を指して『明日の今ごろには王詹事を誅している』と言ったとか。同謀した者でないのに、どうして一切を誅せましょう」と言った。
  • 朱弘昭は「従栄が光政門に入れていたら、賛らはどう任用されたか。我らに残る種があったか。しかも首謀と従犯の差は一等にすぎません。今、首謀はすでに妻子ごと戮されたのに従犯を一切問わねば、主上は我らが姦人を庇っていると思われませんか」と言った。馮贇が力を入れて主張したので、そこで流罪と貶謫を議した。当時、諮議の高輦はすでに誅されていた。
  • 丁酉、元帥府判官・兵部侍郎の任賛、秘書監兼王傅の劉瓉、友の蘇瓉、記室の魚崇遠、河南少尹の劉陟、判官の司徒詡、推官の王説ら八人をいずれも河南へ長流とし、巡宮の李澣、江文蔚ら六人を田里へ帰らせ、六軍判官・太子詹事の王居敏と推官の郭晙をともに貶官した。澣は李回の族曽孫、詡は貝州の人、文蔚は建安の人である。文蔚は呉へ逃げ、徐知誥が厚く礼遇した。
  • はじめ従栄が道を失ったとき、六軍判官・司諫郎中の趙遠が「大王は上嗣の地位におられます。よい徳を勤め修められるべきです。どうしてこんなことをなさるのか。父子は至親だから恃めるなどと思われますな。恭世子や戾太子をご覧にならぬのですか」と諫めた。従栄は怒って涇州判官として出した。従栄が敗れると、遠はこれで名を知られた。遠は字を上交、幽州の人である。
  • 戊戌、帝が没した。帝は猜疑せぬ性質で、物と争わなかった。即位の年にはすでに六十を越えており、毎夕、宮中で香を焚いて天に祝った。「某は胡人で、乱に乗じて衆に推されました。天よ、早く聖人を生んで生民の主としてください」。在位中は毎年穀物がよく実り、兵革はめったに用いられず、五代のなかでは大まかに小康と言えた。
  • 辛丑、宋王が洛陽に至った。十二月癸卯朔、初めて明宗の喪を発し、宋王が皇帝に即位した。
  • 秦王・従栄が死んだのち、朱洪実の妻が入宮し、司衣の王氏と話して秦王のことに及んだ。王氏は「秦王は人の子でありながら側で看病しなかった。人に禍を帰させたのがその罪です。大逆と言うのは、はなはだしい誣告です。朱司徒は最も王の恩を受けていたのに、そのとき弁じてやらなかった。惜しいことです」と言った。
  • 洪実はこれを聞いて大いに恐れ、康義誠とともにその言を閔帝に申し上げ、あわせて「王氏は従栄と私通し、宮中の事を探ってやっておりました」と言った。辛亥、王氏に死を賜った。事は王淑妃にも及んだ。淑妃はかねて従栄に厚かったので、帝はこれで疑った。

潞王清泰元年(934年・鳳翔の挙兵)

  • 春正月戊寅、閔帝は大赦して応順と改元した。壬午、河陽節度使兼侍衛都指揮使の康義誠に侍中・判六軍諸衛事を兼ねさせた。
  • 朱弘昭と馮贇は侍衛馬軍都指揮使・寧国節度使の安彦威と侍衛歩軍都指揮使・忠正節度使の張従賓を忌み、甲申、彦威を護国節度使として出し、捧聖馬軍都指揮使の朱洪実を代え、従賓を彰義節度使として出し、厳衛歩軍都指揮使の皇甫遇を代えた。彦威は崞の人、遇は真定の人である。
  • 戊子、樞密使・同平章事の朱弘昭に同中書門下二品、馮贇と河東節度使兼侍中の石敬瑭にともに中書令を兼ねさせた。贇は昇進が度を越しているとして固辞して受けず、己丑、侍中を兼ねることに改めた。
  • 鳳翔節度使兼侍中・潞王の従珂は石敬瑭とともに若いころから明宗に従って征伐して功名があり、衆心を得ていた。朱弘昭と馮贇の位望はかねて二人よりはるかに下だったが、一朝にして朝政を執ってともに忌んだ。
  • 明宗が病んだとき、潞王はたびたび夫人を送って見舞い侍らせた。明宗が没すると、潞王は病と称して来なかった。鳳翔へ来る使臣には、潞王の隠し事を探ってきたと自ら言う者もあった。
  • 当時、潞王の長子・重吉が控鶴都指揮使だった。朱・馮は禁兵を掌らせたくなく、己亥、亳州団練使として出した。潞王の娘・恵明は尼となって洛陽にいたが、これも禁中に召し入れられた。潞王はこれで疑い恐れた。
  • 閏月丙午、皇后を皇太后と尊んだ。甲寅、王淑妃を太妃とした。
  • 二月、朱弘昭と馮贇は石敬瑭を長く太原に置きたくなく、しかも孟漢瓊を召そうとした。己卯、成徳節度使の范延光を天雄節度使として漢瓊に代え、潞王・従珂を河東節度使兼北都留守に移し、石敬瑭を成徳節度使に移した。いずれも制書を降さず、それぞれ使臣に宣を持たせて監送して赴任させた。
  • 潞王はすでに朝廷と猜疑して隔たっていたうえ、朝廷はさらに洋王・従璋に鳳翔を代行させた。従璋は粗略で禍を楽しむ性質で、先代に安重誨が河中を鎮したときは自ら手を下して殺した男である。潞王はその来訪を聞いてとりわけ嫌った。
  • 命を拒もうにも兵は弱く糧は少なく、為すすべを知らず、将佐に諮った。皆「主上はお若く、政事は朱・馮から出ております。大王の功名は主を震わせております。鎮を離れれば必ず全うできる道理がありません。受けてはなりません」と言った。
  • 王が観察判官の馬胤孫(滴河の人)に問うと、「君命の召しには駕を待たずと申します。喪に臨み鎮に赴かれて、何をお疑いになるのか。諸人の凶謀に従ってはなりません」と答え、衆は嘲笑した。
  • 王はそこで隣道に檄を移した。「朱弘昭らは先帝の病篤きに乗じて長を殺して少を立て、朝権を専制し、骨肉を隔て疎んじ、藩垣を動揺させております。社稷の傾覆を恐れます。今、従珂は入朝して君側の悪を清めようとしておりますが、力は独りでは足りません。隣藩の霊威を乞うて済したい」。
  • 潞王は西都留守の王思同が東へ出る道に当たるので、とりわけ結びたいと思い、推官の郝詡と押牙の朱廷乂らを相次いで長安へ遣わして利害を説かせ、美妓を餌にし、従わねば図らせようとした。
  • 思同は将吏に「私は明宗の大恩を受けた。今、鳳翔とともに反すれば、たとえ事が成って栄えても、なお一時の叛臣となる。まして事が敗れて千古の醜跡を流すことになったらどうする」と言い、そのまま詡らを捕えて状を報告した。
  • 当時、潞王の使者の多くは隣道に捕えられ、そうでなくとも曖昧に両端を持した。ただ隴州防禦使の相里金だけが心から付き従い、判官の薛文遇を往来させて事を計った。金は并州の人である。
  • 朝廷が鳳翔討伐を議したとき、康義誠は外に出て軍権を失うことを恐れ、王思同を統帥とすることを請い、羽林都指揮使の侯益を行営馬歩都虞候とした。益は軍情がまさに変わろうとしているのを知って病と称して行かなかった。執政は怒って商州刺史として出した。
  • 辛卯、王思同を西面行営馬歩軍都部署、前静難節度使の薬彦稠をその副、前絳州刺史の萇従簡を馬歩都虞候とし、厳衛歩軍左廂指揮使の尹暉、羽林指揮使の楊思権らをいずれも偏裨とした。暉は魏州の人である。
  • 丁酉、王思同に同平章事・知鳳翔行府を加え、護国節度使の安彦威を西面行営都監とした。思同は忠義の志はあったが軍を御するに法がなかった。潞王は行陣に慣れており、将士で富貴を僥倖する者の心は皆彼に向いた。
  • 詔で殿直の楚匡祚を送って亳州団練使の李重吉を捕えて宋州に幽閉させた。洋王・従璋は関の西まで来て鳳翔が命を拒んだと聞いて引き返した。
  • 三月、安彦威と山南西道の張虔釗、武定の孫漢韶、彰義の張従賓、静難の康福ら五節度使が兵を合わせて鳳翔を討つと奏した。漢韶は李存進の子である。
  • 乙卯、諸道の兵が鳳翔城下に大集結して攻め、東西の関城を落とし、城中の死者はきわめて多かった。丙辰、あらためて進んで城を攻め、必ず取ると期した。鳳翔の城と塹は低く浅く、守備も不十分で、衆心は危急に迫られた。
  • 潞王は城に登って泣いて外の軍に言った。「私は元服前から先帝に従って百戦し、生死を出入りし、金創は身に満ちて今日の社稷を立てた。そなたらは私に従ってその事を目に見てきた。今、朝廷は讒臣を信任し骨肉を猜疑している。私に何の罪があって誅を受けるのか」。そう言って慟哭し、聞く者は哀れんだ。
  • 張虔釗は狭量で短気な性質で、城の西南の攻撃を主にし、白刃で士卒を駆り立てて城に登らせた。士卒は怒って大いに罵り、反って攻めた。虔釗は馬を躍らせて逃れた。楊思権はそれに乗じて「大相公こそわが主だ」と大呼し、そのまま諸軍を率いて甲を解き武器を投げて潞王に降を請い、西門から入った。
  • 幅紙を潞王に進めて「王が京城を落とされた日には、臣を節度使としてくださり、防禦使や団練使にはされませぬよう」と言い、潞王はただちに「思権、邠寧節度使とすべし」と書いて授けた。
  • 王思同はまだ知らず、士卒に城へ登るよう促していた。尹暉が「城西の軍はもう入城して賞を受けている」と大呼すると、衆はこぞって甲を棄て武器を投げて降り、その声は地を震わせた。正午には乱兵がことごとく入り、外の軍も潰えた。思同ら六節度使は皆逃げ去った。
  • 潞王は城中の将吏・士民の財をことごとく集めて軍を犒い、鼎や釜まで値を見積もって支給した。
  • 丁巳、王思同と薬彦稠らが長安の西まで逃げたが、西京副留守の劉遂雍が門を閉じて入れず、そこで潼関へ向かった。遂雍は劉鄩の子である。
  • 潞王は大将の旗鼓を建て、衆を整えて東へ向かい、孔目官の劉延朗(虞城の人)を腹心とした。潞王ははじめ王思同らが力を合わせて長安に拠って守ることを憂えていたが、岐山に至って劉遂雍が思同を入れなかったと聞いてひどく喜び、使者を送って慰撫した。
  • 遂雍は府庫の財をすべて城外に出し、軍士が着きしだい賞を与え通過させた。潞王が着くころには前軍への賞が行き渡り、皆入城しなかった。
  • 庚申、潞王が長安に至り、遂雍が迎謁して民の財を集めて賞に充てた。
  • この日、西面歩軍都監の王景従らが軍前から逃げ帰り、中外は大いに驚いた。帝は為すすべを知らず、康義誠らに言った。「先帝が万国を棄てられたとき、朕は外の藩を守っていた。あのとき嗣となる者は諸公の選ぶままだった。朕にはまことに人と国を争う心はなかった。大業を承けても年は幼く、国事はすべて諸公に委ねた。朕は兄弟の間で棘を生じるほどではなかった。諸公が社稷の大計として告げられたので、朕がどうして違えられよう。軍を興した当初、皆は自ら誇って寇は平らげるに足らずと言った。今、事はここに至った。どうすれば禍を転じられるか。朕は自ら潞王を迎えて大位を譲りたい。罪を免れずとも甘んじよう」。
  • 朱弘昭と馮贇はひどく恐れて答えられなかった。義誠は宿衛の兵をすべて率いて迎え降ることを自分の功にしようとし、「西の師が驚いて潰えたのは主将の失策です。今、侍衛の諸軍はなお多い。臣が自ら行ってその要衝を扼し、離散した者を集めて後の効を図りたい。陛下は過度にご心配なさいますな」と言った。
  • 帝は使者を送って石敬瑭を召し、兵を率いて防がせようとしたが、義誠は固く自ら行くことを請うた。帝はそこで将士を召して慰め諭し、府庫を空にして労い、鳳翔を平らげたら一人あたりさらに銭二百緡を賞すると約し、府庫が足りなければ宮中の服玩で補うとした。軍士はいっそう驕って憚るところがなく、賜物を背負って路上で「鳳翔に着いたらもう一分もらう」と揚言した。
  • 楚匡祚を送って李重吉を宋州で殺させた。匡祚は重吉を杖打って家財を責め、さらに尼の恵明を殺した。
  • はじめ馬軍都指揮使の朱洪実は秦王・従栄に厚遇されており、朱弘昭が樞密使となると、洪実は宗族の兄として仕えた。従栄が天津橋に兵を並べたとき、洪実は真っ先に孟漢瓊のために従栄を撃った。康義誠はこれで恨んでいた。
  • 辛酉、帝は自ら左蔵へ行って将士に金帛を給した。義誠と洪実が用兵の利害を論じ、洪実は禁軍で洛陽を固守しようとして「そうすれば寇もあえてまっすぐには進めません。そのうえでゆっくり進取を図れば万全です」と言った。義誠は怒って「洪実がそう言うのは叛くつもりか」と言い、洪実は「公こそ叛こうというのに、誰が叛くというのか」と言い、その声はしだいに激しくなった。帝は聞いて召して訊いたが、二人は帝の前で言い争い、帝はその是非を判じられず、そのまま洪実を斬った。軍士はいっそう憤り怒った。
  • 壬戌、潞王が昭応に至り、前軍が王思同を捕えたと聞いた。王は「思同は計を失ったとはいえ、仕える相手に心を尽くした。嘉すべきことだ」と言った。
  • 癸亥、霊口に至り、前軍が思同を連れて来た。王が責めると、「思同は行伍から起こり、先帝に抜擢されて節将の位に至りました。常に功なくして大恩に報いられぬことを恥じております。大王に付けばただちに富貴を得られると知らぬわけではありません。朝廷を助けても自ら禍殃を招くだけです。ただ死ぬ日に泉下の先帝にお会いする顔がないのを恐れるのです。敗れて鼓に血を塗られるのは当然のこと。早く死なせていただきたい」と答えた。王は顔色を改めて「公、ひとまず休まれよ」と言い、宥そうとした。
  • ところが楊思権らはその顔を見るのを恥じ、王が長安を通ったとき、尹暉が思同の家財と妓妾をすべて取っており、たびたび劉延朗に「思同を留めれば士心を失うと案じられます」と言った。王が酔っているのを見計らい、返事を待たずに勝手に思同とその妻子を殺した。王は醒めて怒り、延朗は幾日も嘆き惜しんだ。
  • 癸亥、制で康義誠を鳳翔行営都招討使、王思同をその副とした。甲子、潞王は華州に至って薬彦稠を捕えて囚えた。乙丑、閿郷に至った。朝廷が前後に発した諸軍は、西軍に遭うと皆迎え降り、戦う者は一人もいなかった。
  • 丙寅、康義誠が侍衛の兵を率いて洛陽を発し、詔で侍衛馬軍指揮使の安従進を京城巡検としたが、従進はすでに潞王の書を受けて密かに腹心を配していた。
  • この日、潞王は霊宝に至り、護国節度使の安彦威と匡国節度使の安重霸がいずれも降った。ただ保義節度使の康思立だけが陝城を固守して康義誠を待つことを謀った。これに先立ち捧聖の五百騎が陝西を戍っていたが、潞王の前鋒となって城下に至り、城上の人に「禁軍十万はすでに新帝を奉じている。おまえたち数人が何をしようというのか。徒に一城の人を塗炭に苦しめるだけだ」と呼びかけた。ここで捧聖の卒は争って出て迎え、思立は禁じられず、やむなく自らも出て迎えた。
  • 丁卯、潞王が陝州に至った。僚佐が「今、大王はまもなく京畿に及ばれます。伝聞では乗輿はすでに播遷されたとか。大王はしばらくここに留まり、まず書を送って京城の士庶を慰め安んじられるべきです」と説き、王は従って洛陽の文武・士庶に書を送って諭し、「朱弘昭と馮贇の両族を赦さぬほかは、憂え疑うな」と告げた。
  • 康義誠の軍が新安に至ると、部下の将士は互いに結んで百人・十人と群れをなし、甲兵を棄てて先を争って陝州へ行って降り、その列は絶えなかった。義誠が乾壕に至ったときには麾下はわずか数十人だった。潞王の斥候十余人に遭い、義誠は佩びていた弓と剣を解いて信とし、斥候を通じて潞王に降を請うた。
  • 戊辰、閔帝は潞王が陝州に至り義誠の軍が潰えたと聞いて憂え驚き、為すすべを知らず、急ぎ中使を送って朱弘昭を召して向かう先を謀ろうとした。弘昭は「急に私を召すのは罪しようというのだ」と言い、井戸に飛び込んで死んだ。安従進は弘昭の死を聞き、馮贇を邸で殺してその一族を滅ぼし、弘昭と贇の首を潞王へ送った。
  • 帝は魏州へ逃げようとし、孟漢瓊を召して魏州へ先行して準備させようとしたが、漢瓊は召しに応じず単騎で陝州へ逃げた。
  • はじめ帝が藩鎮にいたころ牙将の慕容遷を愛信し、即位すると控鶴指揮使とした。帝は北へ渡河しようとして密かに謀り、部兵を率いて玄武門を守らせた。その夕、帝は五十騎で玄武門を出るとき遷に「朕はひとまず魏州へ行き、ゆるゆると興復を図る。そなたは馬のある控鶴を率いて私に従え」と言った。遷は「生死は大家に従います」と言い、そこで表向き隊を組んだ。だが帝が出ると、ただちに門を閉じて行かなかった。
  • 己巳、馮道らが入朝して端門に至り、朱・馮の死と帝がすでに北へ逃げたことを聞いた。道と劉眗が帰ろうとすると、李愚が「天子の出御に我らは謀に与らなかった。今、太后が宮におられる。我らは中書へ行き、小黄門を送って太后のご指図を仰ぎ、そのうえで邸へ帰るのが人臣の義だ」と言った。道は「主上は社稷を守れなかった。人臣はただ君を奉じるのみ。君なくして宮城に入るのは適当ではあるまい。潞王がすでに各所に榜を張っている。帰って教令を待つに如くはない」と言い、そこで帰った。
  • 天宮寺に至ると、安従進が人をやって「潞王は道を倍して来られ、まもなく到着されます。相公は百官を率いて穀水へ行って迎え奉られるべきです」と告げた。そこで侍中の役所に留まって百官を召した。
  • 中書舎人の盧導が来ると、馮道は「舎人を長く待った。急ぐのは勧進の文書だ。速やかに草を用意されよ」と言った。導は「潞王が入朝されるのですから、百官が並んで迎えればよい。仮に廃立があるとしても太后の教令を待つべきです。どうしてにわかに勧進を議せましょう」と言った。道は「事は実を務めるべきだ」と言い、導は「天子が外におられるのに、人臣がにわかに大位を人に勧めることがありましょうか。もし潞王が節を守って北面され、大義で責められたら、何と申し開きするのですか。公は百官を率いて宮門へ行って名を届け安否を伺い、太后のご指図を仰がれるに如くはありません。それでこそ去就は善くなります」と言った。
  • 道が答える前に、従進がたびたび人をやって「潞王が来られます。太后・太妃はすでに中使を送って迎え労われました。どうして百官の班がないままでよいのか」と促した。道らはそこで紛然として去った。
  • まもなく潞王はまだ着かず、三人の宰相は上陽門の外で休んだ。盧導が前を通ると、道はまた呼んで語りかけたが、導の答えは初めと同じだった。李愚は「舎人の言が正しい。我らの罪は髪を抜いて数えても足りぬ」と言った。
  • 康義誠が陝州に至って罪を待った。潞王は「先帝が晏駕されたとき、嗣を立てるのは諸公次第だった。今上は喪に服して政事は諸公から出た。なぜ終始を全うできず、わが弟をここまで陥れたのか」と責めた。義誠はひどく恐れて叩頭して死を請うた。王はかねてその人となりを憎んでいたが、にわかに誅そうとはせず、ひとまず宥した。馬歩都虞候の萇従簡と左竜武統軍の王景戡はいずれも部下に捕えられて潞王に降り、東軍はことごとく降った。
  • 潞王は太后に牋を上って指図を仰ぎ、そのまま陝州から東へ向かった。

清泰元年夏四月(934年・閔帝の死と潞王の即位)

  • 庚午朔、夜明け前、閔帝は衛州の東数里で石敬瑭に遭い、大喜びして社稷の大計を問うた。敬瑭は「康義誠が西征したと聞いておりますが、どうして陛下がここにおられるのですか」と言った。帝が「義誠も叛いて去った」と言うと、敬瑭はうなだれて幾度も長嘆し、「衛州刺史の王弘贄は宿将で事に慣れております。ともに図られたい」と言い、そこで行って弘贄に会って問うた。
  • 弘贄は「前代の天子の播遷は多くありましたが、いずれも将相・侍衛・府庫・法物があって、群下に仰ぎ見るものがありました。今はいずれもありません。ただ五十騎を従えられているだけです。忠義の心があっても、どうしましょう」と言った。
  • 敬瑭は戻って衛州の駅で帝に会い、弘贄の言を告げた。弓箭庫使の沙守栄と洪進が前に出て敬瑭を責めた。「公は明宗の愛婿です。富貴を共にされた以上、憂患も相恤むべきです。今、天子は流離して公に計を委ねられ、みな興復を冀っておられる。それをこの四つを口実にするのは、まさに賊に付いて天子を売ろうというものだ」。守栄は佩刀を抜いて刺そうとし、敬瑭の親将・陳暉が救い、守栄は暉と闘って死に、洪進も自刎した。
  • 敬瑭の牙内指揮使・劉知遠が兵を率いて入り、帝の左右と従騎をことごとく殺し、帝だけを置いて去った。敬瑭はそのまま洛陽へ向かった。
  • この日、太后が令を下して内諸司に乾壕で潞王を迎えさせたが、王は急いで洛陽へ帰らせた。
  • はじめ潞王が河中を罷めて私邸に帰ったとき、王淑妃がたびたび孟漢瓊を送って慰め撫した。漢瓊は自ら王に旧恩があると思い、渑池の西で王に会って大いに哭き、何か陳べようとした。王は「諸事は言わずとも分かる」と言った。それでも自ら従臣の列に加わろうとしたので、王はただちに路傍で斬らせた。
  • 壬申、潞王が蔣橋に至り、百官が路上に並んで迎えた。教を伝えて「まだ梓宮を拝していないので会えぬ」と言った。馮道らは皆牋を上って即位を勧めた。王は入って太后・太妃に拝謁し、西宮へ行って梓宮に伏して慟哭し、自ら闕へ来た理由を述べた。
  • 馮道が百官を率いて班見して拝すると、王は答拝した。道らがあらためて牋を上って即位を勧めると、王は立って道らに「私のこの行きはやむを得ぬものだ。皇帝が闕へ帰られ園寝の礼が終われば、藩服に戻って守るつもりだ。群公がにわかにこんなことを言われるのは、まったく意味がない」と言った。
  • 癸酉、太后が令を下して少帝を廃して鄂王とし、潞王に軍国の事を掌らせ、仮に書と詔の印で施行させた。百官が至徳宮の門で罪を待つと、王はそれぞれ位に復するよう命じた。
  • 甲戌、太后が令で潞王に即位すべしとし、乙亥、柩前で即位した。
  • 帝が鳳翔を発ったとき、軍士に「洛に入れば一人あたり銭百緡」と約束していた。着いてから三司使の王玫に府庫の実情を問うと、「数百万あります」と答えた。ところが実際に調べると金帛は三万両・匹に過ぎず、軍への賞の費用は五十万緡かかる計算だった。帝は怒り、玫は京城の民の財を徴収して足すことを請うたが、数日でわずか数万緡しか得られなかった。
  • 帝が執政に「軍に賞さぬわけにいかぬ。人を恤まぬわけにもいかぬ。どうすればよい」と問うと、執政は家屋を単位に率を定め、士庶を問わず自宅であれ借家であれ五か月分の家賃を前借りすることを請い、従われた。
  • 王弘贄が閔帝を州の役所へ移し、帝は弘贄の子で殿直の巒を送って毒殺させた。戊寅、巒が衛州に至って閔帝に謁見した。帝が来た理由を問っても答えず、弘贄がたびたび酒を進めた。閔帝は毒があると知って飲まず、巒は縊り殺した。
  • 閔帝は仁厚な性質で兄弟に睦まじく、秦王に忌み憎まれてもこだわりなく待遇し、ついに患いを免れた。位を継いでも潞王に対して嫌うところはなかったが、朱弘昭・孟漢瓊の輩が横から猜疑を生じさせ、閔帝は逆らえず、ついに禍敗に至ったのである。
  • 孔妃はなお宮中にいたが、王巒が帰ると、潞王が人をやって「重吉らはどこにいる」と言わせ、そのまま妃とその四子を殺した。
  • 閔帝が衛州にいたとき、磁州刺史の宋令詢だけが使者を送って起居を伺った。その遇害を聞いて半日慟哭し、自ら縊れて死んだ。
  • 己卯、石敬瑭が入朝した。乙酉、改元して大赦した。戊子、河陽節度使・判六軍諸衛兼侍中の康義誠を斬ってその一族を滅ぼした。己丑、薬彦稠を誅し、庚寅、王景戡と萇従簡を釈した。
  • 有司が百方から民の財を集めて六万を得た。帝は怒って軍巡使の獄に下し、昼夜督責したので囚人が獄に満ち、貧しい者は自ら縊れたり井戸に飛び込んだりした。ところが軍士は市を歩き回っていずれも驕った様子だった。市の人は集まって罵った。「おまえたちは王のために力戦して功を立て、まことに苦労しただろう。それがかえって我らに胸を鞭打たれ背を杖打たれて財を出させ、おまえたちに賞させるのか。それでも揚々と得意げで、天地に恥じぬのか」。
  • このとき左蔵の旧蔵品と諸道の貢献を尽くし、ついには太后・太妃の器・服・簪・珥まで出したが、わずか二十万緡にしかならなかった。帝は憂えた。
  • 李専美が夜の当直のとき、帝は責めて「卿は才があるとの評判だが、私のためにこれを謀れぬのか。才を留めてどこで使うのだ」と言った。専美は謝して答えた。「臣は駑鈍で、陛下の抜擢は分に過ぎております。しかし軍賞が足りぬのは臣の責ではありません。ひそかに思いますに、長興の末から賞賜がしきりに行われ、卒はこれで驕りました。続いて山陵と出師があり、帑蔵はついに涸れました。無尽蔵の財があっても、ついに驕卒の心は満たせません。だからこそ陛下は危困のなかで手をこまねいていて天下を得られたのです。そもそも国の存亡はもっぱら厚い賞にかかるのではなく、法度を修め紀綱を立てることにもあります。陛下が覆車の轍を改められねば、臣は徒に百姓を困らせ、存亡も分からなくなると恐れます。今、財力はここまでです。あるものに応じて均しく給されるべきで、どうして当初の言に拘る必要がありましょう」。帝はもっともと思った。
  • 壬辰、詔で禁軍のうち鳳翔で帰命した者は、楊思権・尹暉らにそれぞれ馬二頭・駱駝一頭・銭七十緡、下は軍人に至るまで銭二十緡、京にいた者にはそれぞれ十緡を賜った。軍士は飽くことを知らずなお怨望し、「菩薩を除いて生鉄を扶け立てた」と謡言をなした。閔帝が仁弱で、帝が剛厳なので悔いる心があったからである。
  • 丙申、聖徳和武欽孝皇帝を徽陵に葬り、廟号を明宗とした。帝は喪服で護送して陵所に宿った。