通鑑紀事本末晋王李存勗、燕を滅ぼす(晉王滅燕)
盧龍節度使・劉仁恭の子である劉守光が父を幽閉して幽州を握り、兄の劉守文を破って滄州を併せ、ついに大燕皇帝を称するまでと、その驕慢に晋王・李存勖が周徳威を差し向けて燕を滅ぼすまでの八年間。孫鶴の諫死、単廷珪の敗北を経て幽州は陥ち、劉仁恭・守光父子は晋陽で斬られた。907年から914年まで。
年表(5件)
- 後梁開平元年(・劉守光の父の幽閉)907年劉守光が大安山の父・仁恭を捕えて幽閉し、盧龍節度使を自称する
- 開平二年〜四年(908-・兄弟の争いと滄州の陥落)910年劉守文を雞蘇で擒にし、飢えた滄州を降して義昌を併せ、のち守文を殺す
- 乾化元年(・大燕の建国)911年諌めた孫鶴を殺して皇帝に即位し国号を大燕とし、晋が討伐を決する
- 乾化二年〜均王
- 乾化三年(912-・燕の崩壊)913年周徳威が涿州以下を次々に落として幽州を陥れ、劉仁恭父子を捕える
- 乾化四年(・劉氏の最期)914年晋王が太廟に献じて劉守光を斬り、劉仁恭を代州で先王の墓に祭って殺す
後梁開平元年(907年・劉守光の父の幽閉)
- 春三月、梁王は亳州刺史の李思安を北路行軍都統として兵を率いて幽州を撃たせた。
- 盧龍節度使の劉仁恭は驕り奢って貪欲残暴で、常に幽州の城が固くないことを憂え、大安山に館を築いて「この山は四面が切り立っている。少数で多数を制せる」と言った。棟宇は壮麗で帝者に擬え、美女を選んで住まわせ、方士とともに丹薬を煉って不死を求めた。領内の銭をことごとく集めて山頂に埋め、民間には粘土の銭を使わせ、また江南の茶商が境内に入ることを禁じて、自ら山中の草木を採って茶として売った。
- 仁恭には羅氏という愛妾があり、子の守光が通じた。仁恭は守光を杖打って追い出し、子とは認めなかった。
- 李思安が兵を率いて境内に入ると、通過するところを焼き払って何も残さず、夏四月己酉、まっすぐ幽州城下に至った。仁恭はなお大安山におり、城中に備えはなく、危うく守れぬところだった。守光が外から兵を率いて入り、城に登って防ぎ、また兵を出して思安と戦い、思安は敗れて退いた。守光はそのまま節度使を自称した。
- 部将の李小喜と元行欽に兵を率いさせて大安山を攻めさせた。仁恭が兵を送って防いだが小喜に敗れ、仁恭を捕えて帰り、別室に閉じ込めた。仁恭の将佐および側近で守光がかねて憎んでいた者は皆殺した。
- 甲子、梁王が皇帝に即位した。劉守光は父を囚えたのち、盧龍留後を自称して使者を送って任命を請うた。秋七月甲午、守光を盧龍節度使・同平章事とした。
- 冬十一月、義昌節度使の劉守文は弟の守光が父を幽閉したと聞き、将吏を集めて大いに哭して「わが家にこんな梟や獍が生まれるとは思わなかった。私は生きるより死んだほうがましだ。諸君と討つことを誓う」と言い、兵を発して守光を撃ち、勝ったり負けたりした。
- 天雄節度使・鄴王の羅紹威は部下に「守光は追い詰められて国(梁)に帰した。守文は孤立して援けがない。滄州は戦わずに服させられる」と言い、守文に書を送って禍福を諭した。守文も梁が隙に乗じて背後を襲うことを恐れ、戊子、使者を送って降を請い、子の延祐を人質とした。帝は手を打って「紹威の一筆は十万の兵に勝る」と言い、守文に中書令を加えて撫し受け入れた。
開平二年〜四年(908-910年・兄弟の争いと滄州の陥落)
- 二年冬十一月、劉守文が滄州・徳州の兵を挙げて幽州を攻めた。劉守光が晋に救援を求め、晋王は五千の兵を送って救わせた。丁亥、守文の兵は盧臺軍に至って守光に敗れ、王田でも戦って敗れ、守文は引き揚げた。
- 三年夏五月、劉守文は数年攻めても劉守光を落とせず、そこで大挙して兵を発し、重い賄賂で契丹と吐谷渾の衆を招き、合わせて四万で薊州に屯した。守光は雞蘇で迎え撃って守文に敗れた。
- 守文は単騎で陣前に立ち、泣いてその衆に「わが弟を殺すな」と言った。守光の将・元行欽はこれと知ってまっすぐ前へ出て捕え、滄州・徳州の兵は皆潰えた。守光は別室に囚えて茨で囲んだ。
- 勝ちに乗じて滄州へ進攻すると、滄州節度判官の呂兖と孫鶴が守文の子・延祚を帥に推し、城に拠って防いだ。兖は安次の人である。
- 六月、劉守光は使者を送って上表して捷報を告げ、あわせて「滄州・徳州の事が済んだら陛下のために并州の寇(晋)を掃除いたします」と述べ、また晋王にも書を送って「ともに偽梁を破りたい」と言った。
- 秋七月甲子、劉守光を燕王とした。九月、守光は子の中軍兵馬・継威を送って滄州の吏民を安撫すると奏し、戊申、継威を義昌留後とした。
- 冬十二月、劉守光は滄州を長く囲んだが落とせず、劉守文を城下に連れ出して見せてもなお固守した。城中は食が尽き、民は粘土を食べ、軍士は人を食い、驢馬は互いに鬣や尾を噛み合った。呂兖は男女の弱い者を選んで麴の粉を食わせてから烹て軍糧に充て、これを「宰殺務」と呼んだ。
- 四年春正月乙未、劉延祚は力尽きて出て降った。当時、劉継威はまだ幼かったので、守光は大将の張万進と周知裕に補佐させて滄州を鎮させ、延祚とその将佐を幽州へ連れ帰り、呂兖の一族を滅ぼして孫鶴を釈した。
- 劉守光は父の仁恭のために致仕を請い、丙午、仁恭を太師・致仕とした。守光はまもなく人をやって密かに兄の守文を殺し、罪を殺した者に帰して誅した。
- 秋八月、劉守光に義昌節度使を兼ねさせた。
乾化元年(911年・大燕の建国)
- 春二月、盧龍・義昌節度使兼中書令・燕王の守光は滄州を落とすと、天助を得たと自負し、淫虐はいよいよ甚だしくなった。人を刑するたび必ず鉄の籠に入れて火で炙り、また鉄の刷毛を作って人の顔を擦った。
- 梁の兵が柏郷で敗れたと聞き、趙王・王鎔と王処直に人をやって「二鎮が晋王とともに梁の兵を破り、全軍で南下されると聞いた。僕にも精騎三万がある。自ら率いて諸公の先駆けとなろう。しかし四鎮が兵を連ねるなら必ず盟主が要る。僕がそちらへ行ったら、どう遇されるか」と言わせた。
- 鎔は憂えて使者を晋王に送って告げた。晋王は笑って「趙の人が急を告げたとき、守光は一兵も出して救えなかった。私が成功したとたん、また兵威で二鎮を離間しようとしている。これほど愚かな者はいない」と言った。
- 諸将は「雲州・代州は燕と境を接しております。彼が我らの城や戍を騒がせ人心を揺るがせば、我らが千里の外に出征している間、緩急に応じがたい。これも腹心の患いです。先に守光を取り、そのうえで南討に専念するに如くはありません」と言い、王は「よかろう」と言った。
- 夏六月、燕王守光はかつて赭袍を着て将吏を顧みて「今、天下は大乱し、英雄が角逐している。わが兵は強く地は険しい。私も帝を称したいがどうか」と言った。孫鶴は「今、内難が平らいだばかりで公私ともに窮乏しております。太原がわが西を窺い、契丹がわが北を狙っている。にわかに称帝を謀るのは可とは見えません。大王はただ士を養い民を愛し、兵を訓練し穀を蓄えられよ。徳政が修まれば四方は自ら服します」と言い、守光は不快だった。
- さらに人をやって鎮州・定州に自分を尚父と尊ぶよう仄めかさせた。趙王鎔が晋王に告げ、晋王は怒って伐とうとしたが、諸将は皆「これは悪の極みです。いずれ族滅されましょう。表向き推し尊めて熟れさせるに如くはありません」と言った。
- そこで鎔および義武の王処直、昭義の李嗣昭、振武の周徳威、天徳の宋瑶ら六節度使とともに冊を奉じて守光を尚書令・尚父に推した。守光は悟らず、六鎮がまことに自分を畏れていると思っていよいよ驕り、そのさまを上表して「晋王らが臣を推しましたが、臣は陛下の厚恩を受けており、あえて受けておりません。ひそかに適切な処を思うに、陛下が臣に河北都統を授けられれば、并州・鎮州の平定は難しくありません」と述べた。
- 帝もその狂愚を知り、守光を河北道采訪使とし、閤門使の王瞳と受旨の史彦群を送って冊命した。守光は僚属に尚父・采訪使の受冊の儀を草させた。乙卯、僚属が唐の太尉冊立の儀を取って献じると、守光は見て「なぜ郊天と改元の事がないのか」と問うた。「尚父は貴いとはいえ人臣です。どうして郊天や改元がありましょう」と答えると、守光は怒って地に投げつけ、「私の地は方二千里、甲を帯びる者三十万。そのまま河北の天子となって誰が私を止められる。尚父ごときが何になる」と言い、急ぎ即位の儀を整えるよう命じ、瞳と彦群および諸道の使者を械にかけて獄に繋いだが、まもなく皆釈した。
- 秋八月、燕王守光が称帝しようとすると、将佐の多くが不可だと密かに議した。守光は斧と質を庭に置いて「あえて諫める者は斬る」と言った。孫鶴は「滄州が破れたとき、鶴は死ぬのが分でした。王に生かされて今日に至っております。どうして死を惜しんで恩を忘れましょう。ひそかに思うに今日の即位は可ではありません」と言った。守光は怒って質の上に伏せさせ、軍士に肉を切って食わせた。鶴は「百日のうちに必ず急な兵が来る」と叫び、守光は土でその口を塞がせて寸刻みにさせた。
- 甲子、守光は皇帝に即位し、国号を大燕、応天と改元し、梁の使者・王瞳を左相、盧龍判官の斉渉を右相、史彦群を御史大夫とした。冊を受けた日、契丹が平州を陥れ、燕の人は驚き騒いだ。
- 冬十月、晋王は燕主守光の称帝を聞いて大笑し、「彼が年を卜したら、私はその鼎の軽重を問おう」と言った。張承業が使者を送って祝賀して驕らせるよう請い、晋王は太原少尹の李承勲を送った。
- 承勲が幽州に至って隣藩の使者の礼を用いると、燕の典客が「わが王は帝である。公は臣を称して庭で拝謁されよ」と言った。承勲は「私は唐朝から命を受けた太原少尹だ。燕王が領内で臣とするのは勝手だが、どうして他国の使者を臣とできようか」と言った。守光は怒って数日囚え、出して「私に臣従するか」と問うた。承勲は「燕王がわが王に臣従できるなら、私も臣となりましょう。さもなくば死あるのみ」と答え、守光はついに屈服させられなかった。
- 冬十一月、燕王守光が将吏を集めて易定を攻めることを議した。幽州参軍の馮道(景城の人)が不可としたので、守光は怒って獄に繋いだ。ある者が救って免れ、道は晋へ逃げた。
- 戊申、燕主守光が二万を率いて易定を侵し容城を攻め、王処直は晋に急を告げた。十二月甲子、晋王は蕃漢馬歩総管の周徳威に三万を率いさせて燕を攻めて易定を救わせた。
乾化二年〜均王乾化三年(912-913年・燕の崩壊)
- 二年春正月、徳威は東の飛狐に出て、趙王の将・王徳明、義武の将・程巌と易水で会した。丙戌、三鎮の兵が燕の祁溝関に進攻して落とし、戊子、涿州を囲むと刺史の劉知温はそのまま降った。
- これに先立ち、燕主守光は領内の丁壮を登録し、ことごとく顔に刺青して兵とし、士人も免れなかった。〔馮〕道は僧を装って晋へ逃げ、守奇が客として遇した。
- 丁酉、徳威が幽州城下に至り、守光は救援を求めた。二月、帝は自ら兵を率いて鎮州・定州を撃って救うことを議した。
- 三月、周徳威が裨将の李存暉らに瓦橋を攻めさせ、その将吏および莫州刺史の李厳はいずれも降った。厳は幽州の人である。
- 夏四月、周徳威が晋王に、兵が少なくて攻城には足りないと申し上げ、晋王は李存審に吐谷渾・契苾の騎兵を率いさせて合流させた。李嗣源が瀛州を攻め、刺史の趙敬が降った。
- 五月、燕主守光は将の単廷珪に精兵一万を率いさせて出戦させ、竜頭岡で周徳威と遭遇した。廷珪は「今日、必ず周楊五を擒にして献じよう」と言った。楊五は徳威の小名である。
- 戦いになると、廷珪は徳威を陣中に見て槍を構えて単騎で追い、槍が徳威の背に届いた。徳威は身をかわして避け、檛を振るって反撃し、廷珪は落馬して生け捕られ、軍門に置かれた。燕の兵は退き、徳威が騎兵で乗じて燕の兵を大破し、三千級を斬った。廷珪は燕の勇将で、燕の人はこれを失って気力を落とした。
- 均王乾化三年春正月丁巳、晋の周徳威が燕の順州を落とした。晋の周徳威が燕の安遠軍を落とし、薊州の将・成行言らが晋に降った。
- 二月丙申、晋の李存暉らが燕の檀州を攻め、刺史の陳確は城を挙げて降った。
- 三月甲辰朔、晋の周徳威が燕の盧臺軍を落とした。乙丑、晋の将・劉光濬が古北口を落とし、燕の居庸関使・胡令圭らが晋へ逃げた。
- 燕主守光は大将の元行欽に騎七千を率いさせて山北で牧馬させ、山北の兵を募って契丹に応じさせ、また騎将の高行珪を武州刺史として外援とした。晋の李嗣源が兵を分けて山後の八軍を従わせ、いずれも下した。晋王は弟の存矩を新州刺史としてこれを総べさせ、燕の納降軍使・盧文進を裨将とした。
- 李嗣源が武州へ進攻すると高行珪は城を挙げて降った。元行欽はこれを聞いて兵を率いて行珪を攻め、行珪は弟の行周を晋軍に人質として送って救援を求めた。李嗣源が兵を率いて救い、行欽は囲みを解いて去った。嗣源は行周とともに広辺軍まで追い、八戦して行欽は力尽きて降った。嗣源はその驍勇を愛して養子とした。
- 嗣源は儒州へ進攻して落とし、行珪を代州刺史とし、行周は嗣源のもとに留まって仕え、常に嗣源の養子・従珂とともに牙兵を分け率いて従った。
- 夏四月、晋の周徳威が進軍して幽州の南門に迫った。壬辰、燕主守光は使者を送って徳威に書を届けて和を請うたが、その言葉はきわめて卑屈で哀れだった。徳威は「大燕皇帝はまだ郊天もなさっていないのに、なぜそれほど雌伏されるのか。私は罪ある者を討つ命を受けている。盟を結んで好誼を続けるなど聞いていない」と言い、返書しなかった。守光は恐れてまた人をやって哀れみを乞い、徳威はそこで晋王に報告した。
- 己亥、晋の劉光濬が燕の平州を落として刺史の張在吉を捕え、五月、光濬が営州を攻めて刺史の楊靖が降った。
- 六月壬申朔、晋主は張承業を幽州へ遣わして周徳威と軍事を議させた。辛卯、燕主守光は使者を張承業のもとへ送って城を挙げて降ることを請うたが、承業はその不信を理由に許さなかった。
- 秋七月甲子、晋の五院軍使・李信が莫州を落として燕の将・畢元福を捕え、八月乙亥、李信が瀛州を落とした。晋王が趙王鎔と天長で会した。
- 九月、燕主守光が兵を率いて夜に出て順州を奪回した。
- 冬十月己巳朔、燕主守光が五千の衆を率いて夜に出て檀州へ入ろうとしたが、庚午、周徳威が涿州から兵を率いて迎え撃って大破した。守光は百余騎で幽州へ逃げ帰り、その将卒は次々に降った。
- 盧龍の管内はすべて晋に入り、燕主守光はひとり幽州の城を守り、契丹に援けを求めたが、契丹はその不信を理由についに救わなかった。守光はたびたび晋に降を請うたが、晋の人はその偽りを疑ってついに許さなかった。
- ここに至って守光は城に登って周徳威に「晋王が来られたら、私は門を開いて泥に頭をつけて命に従います」と言った。徳威は晋王に報告した。
- 十一月甲辰、晋王は監軍の張承業に軍府事を代行させ、自ら幽州へ赴いた。辛酉、単騎で城下に至って守光に言った。「朱温は簒逆した。私はもともと公と河朔五鎮の兵を合わせて唐の祚を興復したかった。公の謀が良くなく、彼の狂った僭越を真似た。鎮州・定州の二帥はいずれも首を垂れて公に仕えたのに、公は少しも恤まなかった。だからこそ今日の役がある。丈夫の成敗はどちらへ向かうかを決するにある。公はどうするつもりか」。
- 守光は「今日は俎上の肉です。ただ王のご裁量に」と言った。王は憐れみ、弓矢を折って誓い、「出て会えば必ず他意はないと保証する」と言った。守光は「日をあらためて」と辞した。
- これに先立ち、守光の愛将・李小喜は守光の悪をしばしば助長し、言えば聴かれ計れば従われ、権は領内を傾けていた。ここに至って守光が出て降ろうとすると小喜が止めた。その夕、小喜は城を越えて晋軍に降り、あわせて城中の力が尽きたと言った。
- 壬戌、晋王は諸軍を督して四面から攻めて落とし、劉仁恭とその妻妾を捕えた。守光は妻子を連れて逃げた。癸亥、晋王が幽州に入った。
- 冬十二月庚午、晋王は周徳威を盧龍節度使兼侍中、李嗣本を振武節度使とした。
- 燕主守光は滄州へ逃げて劉守奇に頼ろうとしたが、寒さに晒されて足が腫れ、しかも道に迷った。燕楽の境に至り、昼は谷や穴に隠れ、数日食べなかった。妻の祝氏に田夫の張師造の家で食を乞わせたが、師造はその婦人の異様な様子を怪しみ、問い質して守光の居所を知り、その三子ともども捕えた。
- 癸酉、晋王がちょうど将吏と宴を開いていたところへ守光が捕えられて着いた。王は「主人はなぜそれほど客を避けるのか」と語りかけ、仁恭ともども館舎に置き、器・衣服・食事を賜った。王は掌書記の王緘に露布(捷報の布告)を草させたが、緘は故事を知らず、本当に布に書いてしまい、人にそれを引かせた。
- 晋王は雲州・代州から帰ろうとしたが、趙王鎔と王処直が中山・真定を経て井陘へ向かうよう請い、王は従った。
- 庚辰、晋王が幽州を発った。劉仁恭父子はいずれも露布の下で首枷をかけられた。守光の父母はその顔に唾して「逆賊め、わが家を破ってここまで至らせた」と罵り、守光はうなだれるばかりだった。
- 甲申、定州に至って関城に泊まった。丙戌、晋王は王処直とともに北岳廟に参拝し、この日、行唐に至り、趙王鎔が路上で出迎えて拝謁した。
乾化四年(914年・劉氏の最期)
- 春正月戊戌朔、趙王鎔が晋王の行帳へ来て寿を上り酒を置いた。鎔が劉太師(仁恭)の顔を見たいと言うと、晋王は吏に命じて劉仁恭と守光の械を外させて席に着かせ、ともに宴を開いた。鎔はその拝礼に答え、さらに衣服・鞍馬・酒饌を贈った。己亥、晋王は鎔と行唐の西で狩りをし、鎔は境まで送って別れた。
- 壬子、晋王は練で劉仁恭父子を縛り、凱歌とともに晋陽に入り、丙辰、太廟に献じ、自ら臨んで劉守光を斬った。
- 守光は「守光は死んでも恨みません。ただし守光に降伏させなかったのは李小喜です」と叫んだ。王が小喜を召して確かめると、小喜は目を怒らせて守光を叱り、「おまえの内乱と禽獣の行いも私が教えたのか」と言った。王はその無礼に怒ってまず小喜を斬った。
- 守光は「守光は騎射が得意です。王が覇業を成そうとされるなら、なぜ留めて自ら働かせないのですか」と言った。その二人の妻である李氏と祝氏が「皇帝、事はすでにこうなりました。生きて何の益がありましょう。妾が先に死にます」と責め、そのまま首を伸ばして刑に就いた。守光は死ぬまで号泣して哀れみを乞うのをやめなかった。
- 王は節度副使の盧汝弼らに仁恭を械にかけて代州へ連れて行かせ、その心臓の血を刺し取って先王の墓に祭り、そのうえで斬らせた。