通鑑紀事本末馬氏、湖南に拠る(馬氏據湖南)

孫儒の敗死後、劉建鋒とともに南下した馬殷が潭州を奪って湖南を平定し、楚王・楚国王として高郁の茶と鉛鉄の策で国を富ませるまでと、その死後に馬希声・希範・希広・希萼・希崇の兄弟が争って長沙を焼き、南唐の辺鎬に併呑され、さらに劉言・王逵・周行逢ら朗州の将が唐軍を逐って湖南を回復するまで。886年から954年までの約70年間。

年表(13件)

僖宗光啓二年〜昭宗景福元年(886-892年・孫儒の敗死と南下)

  • はじめ忠武決勝指揮使の孫儒は龍驤指揮使の劉建鋒(朗山の人)とともに蔡州に戍って黄巣を防いでいた。扶溝の人・馬殷はその軍中に属し、才勇で知られた。秦宗権が叛くと儒らは皆これに属した。
  • 三年、秦宗権が楊行密と揚州を争い、孫儒を副とし、張佶・劉建鋒・馬殷が皆従った。
  • 景福元年夏五月、楊行密がたびたび孫儒の兵を破ってその広徳の営を落とし、張訓が安吉に屯して糧道を断った。儒は食が尽き、士卒に疫病が広がり、将の劉建鋒と馬殷に兵を分けて諸県を掠めさせた。行密は兵を放って儒を撃って斬り、儒の衆の多くは行密に降った。
  • 劉建鋒と馬殷は残衆七千を収めて南の洪州へ走り、建鋒を帥に推し、殷を先鋒指揮使とし、行軍司馬の張佶を謀主とした。江西に着くころには衆は十余万になっていた。

乾寧元年〜三年(894-896年・潭州奪取と馬殷の擁立)

  • 元年五月、劉建鋒と馬殷が兵を率いて醴陵に至った。武安節度使の鄧処訥は邵州指揮使の蔣勛と鄧継崇に歩騎三千を率いさせて龍回関を守らせた。殷が先に関下に至って使者を勛のもとへ送ると、勛らは牛と酒で軍を犒った。
  • 殷は使者に説かせた。「劉龍驤は智勇が人に倍し、術者は翼・軫の分野に興ると言っている。今、十万の衆を率い、精鋭は無敵だ。君が郷兵数千で防ぐのは難しい。先に下って富貴を取り郷里へ帰るに如くはなかろう」。勛らはもっともとし、衆に「東軍が我らの帰還を許した」と言った。士卒は皆歓呼し、旗と鎧と武器を棄てて逃げ去った。
  • 建鋒は先鋒にその甲を着せその旗を掲げさせて潭州へ向かわせた。潭州の人は邵州の兵が帰ってきたと思って備えず、建鋒はまっすぐ府に入った。処訥はちょうど宴を開いていたところを捕えられ斬られた。戊辰、建鋒は潭州に入って留後を自称した。
  • 二年、劉建鋒を武安節度使とした。建鋒は馬殷を内外馬歩軍都指揮使とした。蔣勛が邵州刺史を求めたが建鋒は許さず、勛は邵州に拠り、その将を定勝鎮に屯させて潭州の人を扼した。
  • 三年春正月丁巳、劉建鋒が都指揮使の馬殷に兵を率いさせて蔣勛を討たせ、定勝寨を攻めて破った。
  • 夏四月、武安節度使の劉建鋒は志を得ると酒に耽って政事を親らせなかった。長直兵の陳贍の妻が美しく、建鋒が私通したので、贍は袖に鉄の檛を隠して建鋒を撃ち殺した。諸将は贍を殺し、行軍司馬の張佶を迎えて留後としたが、佶が府に入ろうとしたとき、馬が突然蹴り噛んで左の腿を傷つけた。
  • そのとき馬殷は邵州を攻めていてまだ落とせずにいた。佶は諸将に「馬公は勇にして謀があり、寛厚で善を楽しむ。私の及ばぬところだ。まことの主である」と謝し、牒で召した。殷は迷って動かなかったが、聴直軍将の姚彦章(汝南の人)が「公は劉龍驤・張司馬と一体の人です。今、龍驤は禍に遭い、司馬は腿を傷めた。天命と人望が公を措いて誰に属しましょう」と説き、殷は親従都副指揮使の李瓊を残して邵州攻めを続けさせ、まっすぐ長沙へ向かった。
  • 五月、馬殷が長沙に至ると、張佶は輿で府に入り、座して殷の拝謁を受けた。そのうえで殷に庁に登るよう命じ、留後の位を譲り、ただちに降りて将吏を率いて拝賀した。のち行軍司馬となり、殷に代わって兵を率いて邵州を攻めた。
  • 秋九月、湖南軍留後の馬殷に湖南軍府事を判じさせた。殷は高郁を謀主とした。郁は揚州の人である。殷は楊行密と成汭の強大を畏れ、金帛で結ぶことを議した。高郁は「成汭は畏れるに足りません。行密は公の讎です。万金を贈っても、どうして我らの援けとなりましょう。上は天子を奉じ、下は士民を撫し、兵を訓練し武を励まして覇業を修めるに如くはありません。さすれば誰が敵となりましょう」と言い、殷は従った。

光化元年〜三年(898-900年・湖南七州と桂州の平定)

  • 元年春三月、潭州刺史・判湖南軍府事の馬殷を武安留後とした。当時、湖南管内の七州では、賊帥の楊師遠が衡州、唐世旻が永州、蔡結が道州、陳彦謙が郴州、魯景仁が連州に拠り、殷が得ていたのは潭州・邵州の二州だけだった。
  • 夏五月、湖南の将・姚彦章が馬殷に衡・永・道・連・郴の五州を取ることを請い、あわせて李瓊を将に推した。殷は瓊と秦彦暉を嶺北七州游奕使、張図英と李唐をその副として衡州を攻めさせ、楊師遠を斬り、兵を永州へ向けて一月余り囲み、唐世旻は逃げて死んだ。殷は李唐を永州刺史とした。
  • 二年秋七月、馬殷が将の李唐に道州を攻めさせた。蔡結は諸蛮を集めて隘路に兵を伏せて撃ち、唐の兵を大破した。唐は「蛮が恃むのは山林だけだ。平地で戦えば我らを敗れるものか」と言い、風に乗じて林を焼かせた。光は天地を照らし、諸蛮は驚いて逃げ、そのまま道州を落として結を捕えて斬った。
  • 冬十一月、馬殷が将の李瓊に郴州を攻めさせ、陳彦謙を捕えて斬り、進んで連州を攻めると魯景仁は自殺し、湖南はすべて平らいだ。
  • 三年冬十月、静江節度使の劉士政は馬殷が嶺北をことごとく平らげたと聞いて大いに恐れ、副使の陳可璠を全義嶺に屯させて備えた。殷が使者を送って士政と好誼を修めようとしたが、可璠が拒んだ。
  • 殷は将の秦彦暉・李瓊らに七千を率いさせて士政を撃たせた。湖南軍が全義に至ると、士政はさらに指揮使の王建武を秦城に屯させた。可璠が県民の耕牛を掠めて軍を犒ったので県民は怨み、湖南の道案内を買って出て「ここから西南に小道があり、秦城まで五十里、単騎ならかろうじて通れます」と言った。
  • 彦暉は李瓊に騎六十・歩兵三百を率いさせて秦城を襲わせ、夜半に垣を越えて入り王建武を捕え、明け方に戻った。練で縛って可璠の塁の下に引き出して見せたが、可璠はなお信じない。そこでその首を斬って塁の中へ投げ入れると、桂州の人は震え上がった。瓊は兵を整えて撃ち、可璠を捕え、降った将士二千人を皆殺しにした。
  • 兵を桂州へ向けると、秦城以南の二十余の塁はいずれも風を望んで潰え、そのまま桂州を囲み、数日で士政が出て降った。桂・宜・巌・柳・象の五州はいずれも湖南に降った。馬殷は李瓊を桂州刺史とし、まもなく上表して静江節度使とした。

天復三年〜昭宣帝天祐三年(903-906年)

  • 天復三年夏四月、楊行密が使者を馬殷のもとへ送り、朱全忠の跋扈を告げて殷に絶交を請い、兄弟の約を結ぼうと言った。湖南の大将・許徳勲は「全忠は無道ですが、天子を挟んで諸侯に号令しております。明公はかねて王室を奉じておられる以上、軽々しく絶交すべきではありません」と言い、殷は従った。
  • 天祐元年、馬殷の弟・賨は沈勇な性質で孫儒に仕えて百勝指揮使となった。儒が死ぬと楊行密に仕えてたびたび功があり、黒雲指揮使に進んだ。行密がくつろいだ折にその兄弟を尋ねて殷の弟と知り、大いに驚いて「私はいつもそなたの器量が非凡なのを不思議に思っていた。果たして常人ではなかった。そなたを帰らせよう」と言った。
  • 賨は泣いて辞し、「賨は淮西の残兵です。大王は殺さずに寵任してくださいました。湖南は近く、常に兄の消息は聞けます。賨は大王に仕えて久しく、帰りたいとは思いません」と言った。行密は強いて帰らせた。この年、賨は長沙へ帰り、行密は自ら郊外で餞した。
  • 賨が長沙に着くと、殷は上表して賨を節度副使とした。後日、殷が天子への入貢を議すると、賨は「楊王は地が広く兵が強く、我らと隣接しております。彼と好誼を結ぶに如くはありません。大きくは緩急の援けとなり、小さくは商旅の利を通じられます」と言った。殷は色をなして「楊王は天子に仕えていない。一朝にして朝廷が討伐すれば、罪は私に及ぶ。そのような議論はやめよ。私の禍とするな」と言った。
  • 昭宣帝天祐三年、吉州刺史の彭玕が使者を送って湖南に降を請うた。玕はもと赤石洞の蛮酋で、鎮南節度使の鍾伝が吉州刺史に用いた者である。

後梁開平元年(907年・楚王と淮南の戦い)

  • 夏四月辛未、武安節度使の馬殷を楚王とした。
  • 五月、弘農王が鄂岳観察使の劉存を西南面都招討使、岳州刺史の陳知新を岳州団練使、廬州観察使の劉威を応援使、別将の許玄応を監軍として水軍三万で楚を撃たせた。楚王の馬殷はひどく恐れたが、静江軍使の楊定真が祝賀した。殷が理由を問うと、定真は「およそ戦は懼れれば勝ち驕れば敗れます。今、淮南の兵はまっすぐわが城へ向かっており、これは驕って敵を侮っているのです。王には懼れの色がある。だから必ず勝つと分かるのです」と答えた。
  • 殷は在城都指揮使の秦彦暉に水軍三万を率いさせて長江を下らせ、水軍副指揮使の黄璠に戦艦三百を率いさせて瀏陽口に屯させた。
  • 六月、存らは大雨に遭って兵を引き、越堤の北まで戻ったところで彦暉が追った。存はたびたび戦って不利となり、殷に書を送って偽って降を請うた。彦暉は人をやって殷に「これは必ず偽りです。受けてはなりません」と伝えた。
  • 存と彦暉が水を挟んで陣すると、存は遠くから呼びかけて「降る者を殺すのは不祥だ。公はひとり子孫のために計らぬのか」と言った。彦暉は「賊がわが境に入って撃たずして、どうして子孫を顧みられるか」と言い、鬨の声を上げて進んだ。存らは走り、黄璠が瀏陽から兵を率いて江を横切って彦暉と合わせて撃ち大破し、存と知新を捕え、裨将で死んだ者は百余人、士卒の死者は万を数え、戦艦八百艘を得た。威は残る衆を率いて逃げ帰った。彦暉はそのまま岳州を落とした。
  • 殷は存と知新の縄を解いて慰めたが、二人は「丈夫は死をもって主に報いる。賊に仕えるものか」と罵り、そのまま斬られた。許玄応は弘農王の腹心で常に政事に与っていた。張顥と徐温はその敗北に乗じて捕えて斬った。
  • 楚王殷が兵を送って吉州刺史の彭玕と合わせて洪州を攻めたが落とせなかった。
  • 武貞節度使の雷彦恭が楚の兵と合わせて江陵を攻めたが、荊南節度使の高季昌が兵を率いて公安に屯してその糧道を断ち、彦恭は敗れ、楚の兵も逃げた。
  • 秋七月、雷彦恭が岳州を攻めたが落とせなかった。八月辛亥、楚王殷に武昌節度使を兼ねさせ、本道招討制置使に充てた。
  • 九月、雷彦恭が涔陽と公安を攻めたが高季昌が撃破した。彦恭は貪欲残忍で父に似ており、もっぱら焼き掠めを事として荊州・湖南の間は常にその害を被った。しかも淮南に付いた。丙申、詔で彦恭の官爵を削り、季昌と楚王殷に討たせた。
  • 冬十月、高季昌が将の倪可福を送って楚の将・秦彦暉と合わせて朗州を攻めさせた。雷彦恭は使者を送って淮南に降を乞い、あわせて急を告げた。弘農王は将の冷業に水軍を率いて平江に、李饒に歩騎を率いて瀏陽に屯させて救わせ、楚王殷は岳州刺史の許徳勲に兵を率いさせて防がせた。
  • 冷業が朗口に進屯すると、徳勲は泳ぎの巧みな者五十人に木の枝葉を頭に被らせ長刀を持たせて江を流れ下らせ、夜にその営を襲わせ火を挙げさせた。業の軍中は驚き騒ぎ、徳勲が大軍で進撃して大破し、鹿角鎮まで追って業を捕え、さらに瀏陽の寨を破って李饒を捕え、上高・唐年を掠めて帰り、業と饒を長沙の市で斬った。

開平二年〜四年(908-910年・領域の拡大)

  • 二年夏五月、静江節度使・同平章事の李瓊が没し、楚王殷は弟で永州刺史の存に桂州事を掌らせた。乙亥、楚の兵が鄂州を侵したが、淮南が任じた知州の秦裴が撃破した。
  • 雷彦恭は沆江を引いて朗州を巡らせて守った。秦彦暉は一月余り兵を留めて戦わず、彦恭の守備がやや緩んだところで、裨将の曹徳昌に壮士を率いさせて夜に水路の口から入らせ、内外で火を挙げて呼応させた。城中は驚き乱れ、彦暉は鬨の声を上げて門を壊して入り、彦恭は軽舟で広陵へ逃げた。彦暉はその弟の彦雄を捕えて大梁へ送った。淮南は彦恭を節度副使とした。
  • これに先立ち、澧州刺史の向瓌は彦恭と表裏をなしていたが、ここに至って楚に降り、楚は初めて澧州・朗州の二州を得た。
  • 湖南判官の高郁が、民に自ら茶を採らせて北の商人に売らせ、その税を取って軍を賄うことを請い、楚王殷は従った。秋七月、殷は汴州・荊州・襄州・唐州・郢州・復州に回図務を置いて茶を河南・河北へ運んで売り、繒・綿・戦馬と交換して帰ることを奏し、あわせて毎年茶二十五万斤を貢ぐこととし、詔で許された。湖南はこれによって富み栄えた。
  • 九月、荊南節度使の高季昌が兵を漢口に屯させて楚の朝貢の路を絶った。楚王殷は将の許徳勲に水軍で撃たせ、沙頭まで至ると季昌は恐れて和を請うた。殷はさらに歩軍都指揮使の呂師周に兵を率いさせて嶺南を撃たせ、清海節度使の劉隠と十余戦して昭・賀・梧・蒙・龔・富の六州を取った。殷の領土は広くなり、そこで士を養い民を休めたので、湖南は安んじた。
  • 三年夏六月、撫州刺史の危全諷が鎮南節度使を自称し、撫・信・袁・吉の兵十万と号して洪州を攻めた。淮南の守兵はわずか千人で将吏は皆恐れた。節度使の劉威は密かに使者を送って広陵に急を告げ、日々僚佐を招いて宴飲した。全諷はこれを聞いて象牙潭に屯して進めなかった。袁州刺史の彭彦章が高安を囲んで全諷を助けた。
  • 徐温は周本を西南面行営招討応援使として七千の兵で高安を救わせた。本は「楚の人は全諷の声援をしているだけで、高安を取ろうというのではない。私が全諷を破れば援兵は必ず帰る」と言い、急ぎ象牙潭へ向かった。洪州を通ったとき劉威が軍を犒おうとしたが本は留まらなかった。ある者が「全諷の兵は強い。君は形勢を見てから進まれよ」と言うと、本は「賊の衆はわが十倍だ。わが軍がそれを聞けば必ず懼れる。その鋭気に乗じて用いるに如くはない」と言った。
  • 秋七月、危全諷は象牙潭に営柵を渓に臨んで数十里連ねていた。庚辰、周本は渓を隔てて陣し、まず弱兵で敵を試した。全諷の兵が渓を渡って追うと、本は半ば渡ったところで兵を放って撃った。全諷の兵は大潰して互いに踏み合い、溺死者は多かった。本は兵を分けて退路を断ち、全諷と将士五千人を捕えた。
  • 勝ちに乗じて袁州を落として刺史の彭章を捕え、進んで吉州を攻めた。歙州刺史の陶雅は子の敬昭と都指揮使の徐章に兵を率いさせて饒州・信州を襲わせ、信州刺史の危仔倡は降を請い、饒州刺史の唐宝は城を棄てて逃げた。行営都指揮使の米志誠、都尉の呂師造らが上高で苑玫を破った。
  • 吉州刺史の彭玕は数千の衆を率いて楚へ逃げ、楚王殷は上表して玕を彬州刺史とし、子の希範に玕の娘を娶らせた。
  • 四年夏六月、楚王殷が天策上将を求め、詔で天策上将軍を加えた。殷は初めて天策府を開き、弟の賨を左相、存を右相とした。殷が将を送って荊南を侵し油口に陣すると、高季昌が撃破して五千級を斬り、白田まで追って帰った。
  • 冬十二月、辰州の蛮酋・宋鄴が溆州を破った。蛮酋の潘金盛はその住む地の険しさを恃んでたびたび楚の辺境を騒がせていた。ここに至って鄴は湘郷を、金盛は武岡を侵した。楚王殷は昭州刺史の呂師周に衡山の兵五千を率いさせて討たせた。

乾化元年〜貞明四年(911-918年・呉との攻防)

  • 乾化元年春正月、呂師周は兵を率いて藤に攀じ崖を伝って飛山洞に入り、潘金盛を襲って捕え武岡へ送って斬り、兵を移して宋鄴を撃った。
  • 冬十二月乙卯、朗州留後の馬賨を永順節度使・同平章事とした。
  • 二年春二月、辰州の蛮酋である宋鄴と昌師益がいずれも衆を率いて楚に降り、楚王殷は鄴を辰州刺史、師益を溆州刺史とした。
  • 夏四月癸丑、楚王殷を武安・武昌・静江・寧遠節度使、洪鄂四面行営都統とした。
  • 冬十一月、呉の淮南節度副使・陳璋らが水軍で楚の岳州を襲い、刺史の苑玫を捕えた。楚王殷は水軍都指揮使の楊定真を送って岳州を救わせた。璋らが進んで荊南を攻めると、高季昌は将の倪可福を送って防いだ。呉は楚の人が荊南を救うことを恐れ、撫州刺史の劉信に江・撫・袁・吉・信の五州の兵を率いさせて吉州に屯させ、璋の声援とした。
  • 均王乾化三年春正月、呉の陳璋が荊南を攻めたが落とせずに帰った。荊南の兵と楚の兵が江口で合流して待ち伏せたが、璋はこれを察知し、舟二百艘を一列に並べて夜のうちに通過し、二鎮の兵が急いで出て追ったが追いつけなかった。
  • 秋八月、楚の寧遠節度使・姚彦章が水軍で呉の鄂州を侵し、呉は池州団練使の呂師造を水陸行営応援使としたが、着かぬうちに楚の兵は引き揚げた。
  • 四年夏四月、呉の袁州刺史・劉崇景が叛いて楚に付いた。崇景は劉威の子である。楚の将・許貞が一万の兵で援け、呉の都指揮使である柴再用と米志誠が諸将を率いて討った。
  • 楚の岳州刺史・許徳勲が水軍で辺境を巡ったとき、夜半に南風が急に起こった。都指揮使の王環は風に乗じて黄州へ向かい、縄梯で城に登ってまっすぐ州署へ行き、呉の刺史・馬鄴を捕え、大掠して帰った。徳勲が「鄂州の将が我らを待ち伏せよう。備えるべきだ」と言うと、環は「わが軍が黄州に入ったことを鄂州の人は知りません。その城を不意に通り過ぎれば、彼らは自らを救うのに精一杯で、どうして我らを待ち伏せられましょう」と言い、旗を掲げ鼓を鳴らして進んだ。鄂州の人は迫れなかった。
  • 五月、呉の柴再用らが万勝岡で劉崇景・許貞と戦って大破し、崇景と貞は袁州を棄てて逃げ去った。
  • 貞明三年春三月、楚王殷は弟の存を送って呉の上高を攻め、捕虜を得て帰った。
  • 龍徳元年、辰州・溆州の蛮が楚を侵し、楚の寧遠節度副使・姚彦章が討ち平らげた。

後唐同光元年〜天成三年(923-928年・楚国王)

  • 同光元年、楚王殷は子で牙内馬歩都指揮使の希範を入見させ、洪鄂行営都統の印を納め、本道の将吏の名簿を上った。
  • 二年夏四月乙亥、楚王殷に尚書令を兼ねさせた。
  • 三年、はじめ楚王殷は湖南を得ると商旅に課税しなかったので、四方の商旅が集まった。湖南は鉛と鉄を多く産し、殷は軍都判官・高郁の策で鉛と鉄を鋳て銭とした。商旅は境を出れば使い道がないので、皆他の品に換えて去った。だから領内で余る品で天下の百貨と交換でき、国は富み栄えた。
  • 湖南の民は養蚕をしなかったが、郁は税を納める民にすべて帛で銭に代えさせた。まもなく民間で機織りが大いに盛んになった。
  • 明宗天成元年秋九月、楚王殷に守尚書令を加えた。
  • 二年夏五月、楚王殷が中使の史光憲を入貢させたが、荊南を通ったとき高季興が光憲を捕えてその貢物を奪った。六月丙申、楚王殷を楚国王に封じた。
  • 三年春二月、楚王殷は六軍使の袁詮、副使の王環らに水軍を率いさせて荊南の高季興を撃たせた。
  • 夏四月、呉の右雄武軍使・苗璘と静江統軍・王彦章が水軍一万で楚の岳州を攻め、君山に至った。楚王殷は右丞相の許徳勲に戦艦千艘を率いさせて防がせた。徳勲は「呉の人は我らの不備を突こうとしている。大軍を見れば必ず懼れて逃げよう」と言い、密かに軍を角子湖に置き、王環に夜のうちに戦艦二百で楊林浦に屯させて呉の帰路を断った。
  • 明け方、呉の人は荊江口へ進軍し、荊南の兵と合わせて岳州を攻めようとした。丁亥、道人磯に至ると、徳勲は戦棹都虞候の詹信に軽舟三百で呉軍の背後に出させ、自ら大軍で正面に当たって挟撃した。呉軍は大敗し、璘と彦章を捕えて帰った。
  • 呉が使者を送って楚に和を求め、苗璘と王彦章を請うた。楚王殷は返し、許徳勲に餞させた。徳勲は二人に「楚国は小さいとはいえ、旧臣と宿将はなお健在です。呉朝はお気になさいますな。必ず多くの駒が馬屋を争うのを待って、そのうえで図られるがよろしい」と言った。当時、殷は寵姫が多く嫡庶の別なく、諸子は驕り奢っていたので、徳勲はそれに触れたのである。
  • 六月、帝は詔で楚王殷に高季興を討たせた。

天成四年〜長興四年(929-933年・高郁の死と継承の混乱)

  • 四年春三月、楚王殷は子で武安節度副使・判長沙府の希声に政事を掌らせ内外の諸軍を総録させた。以後、国政はまず希声を経てから殷に報告された。
  • はじめ楚王殷は都軍判官の高郁を謀主として用い、国はこれで富強となったので、隣国は皆これを憎んだ。荘宗が洛に入ったとき、殷は子の希範を入貢させた。荘宗はその機敏を愛して「かねて馬氏は高郁に奪われると聞いていたが、今こんな子がいる以上、郁がどうして奪えようか」と言った。
  • 高季興もたびたび流言で郁を殷から離間しようとしたが、殷は聞かなかった。そこで使者を送って節度副使・知政事の希声に書を贈り、郁の功名を盛んに称えて兄弟となりたいと言わせ、使者は希声に「高公はいつも『馬氏の政事はすべて高郁から出る。これは子孫の憂いだ』と言っております」と述べた。希声はこれを信じた。
  • 行軍司馬の楊昭遂は希声の妻の一族で、郁の任を代わろうと日々希声に讒言した。希声はたびたび殷に、郁が奢侈僭越で、しかも外は隣藩と通じていると言って誅殺を請うた。殷は「わが功業を成したのはすべて郁の力だ。そのようなことを言うな」と言った。希声は固くその兵権を罷めることを請い、そこで郁を行軍司馬に左遷した。
  • 郁は親しい者に「急ぎ西山に居を営め。私は隠退する。狂犬の子が大きくなって人を咬めるようになった」と言った。希声はこれを聞いていよいよ怒り、翌日、殷の命と偽って府舎で郁を殺し、榜を掲げて内外に諭し、郁が謀叛したと誣告し、あわせてその一族一党も誅した。
  • 日暮れになっても殷はまだ知らなかった。この日は濃霧で、殷は左右に「私は昔、孫儒に従って淮を渡ったとき、罪なき者を多く殺したのでこの異変が起きたものだ。馬歩院に冤罪で死んだ者でもあるのか」と言った。翌日、吏が郁の死を告げると、殷は胸を打って大いに慟哭し、「私は老いぼれて政が自分から出ず、わが勲功ある旧臣を横死の冤酷に遭わせた」と言い、まもなく左右を顧みて「私もどうして長くここにいられようか」と言った。
  • 長興元年冬十月、楚王殷が病臥し、使者を朝廷へ送って子の希声に位を伝えることを請うた。朝廷は殷がすでに死んだのではと疑い、辛亥、希声を起復武安節度使兼侍中とした。
  • 十一月己巳、楚王殷が没した。遺命で諸子は兄弟が順に継ぐこととし、剣を祠堂に置いて「わが命に背く者は戮せ」と言った。
  • 諸将は兵を送って四境を守らせてから喪を発することを議したが、兵部侍郎の黄損は「我らは君を喪ったが君はある。何の備えが要りましょう。使者を隣道へ送って終わりを告げ嗣君を称するだけでよい」と言った。
  • 丙戌、馬希声が位を襲ぎ、遺命と称して建国の制を廃し、藩鎮の旧に復した。十二月庚戌、武安節度使の馬希声を武安・静江節度使とし、中書令を兼ねさせた。
  • 二年冬十二月、武安・静江節度使の馬希声は梁の太祖が鶏を好んで食べたと聞いてこれを慕い、位を襲ぐと日に五十羽の鶏を殺して膳とした。喪中も悲しむ顔色がなく、庚申、武穆王を衡陽に葬るにあたり、出棺しようというときに鶏の煮こごりを数皿平らげた。前吏部侍郎の潘起は「昔、阮籍は喪中に蒸し豚を食べた。どの時代にも賢者はいるものだ」と譏った。
  • 三年秋七月、武安・静江節度使の馬希声は湖南が近年大旱であることから南嶽および領内の諸神祠の門を閉じさせたが、ついに雨は降らなかった。辛卯、希声が没し、六軍使の袁詮・潘約らが鎮南節度使の希範を朗州に迎えて立てた。
  • 八月、馬希範が長沙に至り、辛酉、位を襲いだ。九月、鎮南節度使の馬希範を武安節度使兼侍中とした。
  • 四年春二月乙卯、馬希範を武安・武平節度使兼中書令とした。
  • はじめ馬希声と希範は同じ日に生まれ、希声の母は袁徳妃、希範の母は陳氏だった。希範は希声が先に立って譲らなかったことを怨み、位を継ぐと袁徳妃を礼遇しなかった。希声の同母弟・希旺は親従都指揮使だったが、希範はたびたび譴責した。袁徳妃は希旺の官を返上して道士にすることを請ったが許されず、その軍職を解いて竹の小屋と草の門に住まわせ、兄弟の宴に加われなくした。徳妃が没すると、希旺は憂憤のうちに没した。
  • 潞王清泰元年春正月壬辰、武安・武平節度使の馬希範を楚王とした。

後晉天福元年〜開運三年(936-946年・希範の奢侈)

  • 天福元年、静江節度使・同平章事の馬希杲は善政を敷いたが、監軍の裴仁煦が楚王希範に「衆心を収めております」と讒言し、希範は疑った。
  • 夏四月、漢の将・孫徳威が蒙州・桂州を侵し、希範は弟で武安節度副使の希広に軍府事を代行させ、自ら歩騎五千を率いて桂州へ向かった。希杲は恐れ、その母の華夫人が全義嶺で希範を迎えて「希杲の治め方が至らず寇戎を境内に入れ、殿下自ら険阻を越えるお手数をかけました。すべて妾の罪です。封邑を削って掖廷を掃除して希杲の罪を贖わせていただきたい」と謝した。希範は「私は長く希杲に会っていない。その治績がとりわけ優れていると聞いたので見に来たのだ。他意はない」と言った。漢の兵は蒙州から引き揚げ、希杲を朗州へ移した。
  • 秋七月庚寅、楚王希範は桂州から北へ帰った。
  • 二年冬十二月、詔で馬希範に江南諸道都統・制置武平静江等軍事を加えた。
  • 三年冬十月、楚の順賢夫人・彭氏が没した。彭夫人は容貌は醜かったが家を治めるに法があり、楚王希範は憚っていた。没すると希範は思うまま声色に耽り、夜通しの酒宴を開き、内外の別もなかった。商人の妻が美しいと、希範はその夫を殺して奪ったが、妻は辱めを受けまいと誓って縊れ死んだ。
  • 四年夏四月戊申、楚王希範に天策上将軍を加え、印を賜り、府を開いて官属を置くことを許した。
  • 黔南管内の溪州刺史・彭士愁が奨州・錦州の蛮一万余人を率いて辰州・澧州を侵した。九月辛未、楚王希範は左静江指揮使の劉勍と決勝指揮使の廖匡斉に衡山の兵五千を率いさせて討たせた。
  • 冬十一月、楚王希範は初めて天策府を開き、護軍都尉・領軍司馬などの官を置いて諸弟と将校を充て、また幕僚の拓跋恒・李弘皋・廖匡図・徐仲雅ら十八人を学士とした。
  • 劉勍らが溪州へ進攻し、彭士愁の兵は敗れて州を棄てて山寨に逃げ込んだ。石の崖が四方に切り立っていたので、勍は梯と桟を作って上って囲んだ。廖匡斉が戦死し、楚王希範が使者を送ってその母を弔うと、母は哭かず、使者に「廖氏三百口は王の温飽の賜を受けております。一族を挙げて死を尽くしても報いるに足りません。まして一子のことで。王にはお気になさらぬようお伝えください」と言った。王はその母を賢しとして、その家を厚く恤んだ。
  • 五年春正月、楚の劉勍らは大風に乗じて火矢で彭士愁の寨を焼いて攻めた。士愁は麾下を率いて溪州・錦州の深山へ逃げ、乙未、子の師景に諸酋長を率いさせて溪・錦・奨の三州の印を納めて楚に降を請わせた。
  • 二月、劉勍が兵を率いて長沙へ帰り、楚王希範は溪州を便利な地に移し、上表して彭士愁を溪州刺史、劉勍を錦州刺史とした。これ以後、諸蛮は楚に服した。希範は自ら伏波将軍(馬援)の後裔と称し、銅五千斤で高さ一丈二尺の柱を鋳て地中に六尺埋め、誓約の文を刻んで溪州に立てた。
  • 七年冬十月、楚王希範は天策府を作り、棟宇の壮麗を極め、戸も窓も欄干もすべて金玉で飾り、壁に塗った丹砂は数十万斤に及び、床の敷物は春夏には角の簟、秋冬には木綿を用い、子弟や僚属と遊宴した。
  • 齊王天福八年、楚の地は金銀を多く産し、茶の利はとりわけ厚く、これで財貨は豊かだったが、楚王希範の奢欲は際限なく、自らを誇るのを好んだ。長い槍と大きな槊を作って金の飾りをつけたが、持てても使えなかった。富民で年若く肥え太った者八千人を募って「銀鎗都」とした。宮室・園囿・服用の品はことごとく奢靡を極めた。
  • 九竜殿を作り、沈香を刻んで八頭の竜とし金宝で飾り、長さ十余丈で柱を抱いて向かい合わせ、希範はその中に居て自ら一竜となった。その幞頭の脚は一丈余りで、竜の角に象った。
  • 費用が足りなくなると重ねて賦を課し、使者を送って田を巡らせるたび、もっぱら頃畝を増やすことを功とした。民が租賦に堪えかねて逃げると、王は「田さえあれば穀に困ることはない」と言い、営田使の鄧懿文に逃げた田を登録させ、民を募って耕作させて租を出させた。民は旧地を捨てて新地に移り、辛うじて自活するありさまで、西から東へ移ってそれぞれ生業を失った。
  • また人に財を納めさせて官を拝させ、財の多寡で官の高卑の差を定めたので、富商大賈が官位に並んだ。外官が帰任するときは必ず貢献を求め、民に罪があれば富者は財を出し、強者は兵となり、ただ貧しく弱い者だけが刑を受けた。また箱を置いて匿名の書で告発させたので、一族を滅ぼされる者まで出た。
  • この年、孔目官の周陟の議を用い、常税のほかに大県は米二千斛、中県は千斛、小県は七百斛を貢がせ、米のない者は布帛を納めさせた。
  • 天策学士の拓跋恒が上書した。「殿下は深宮の中で育ち、すでに成った業を承け、身は稼穡の労を知らず、耳は鼓鼙の音を聞かず、馬を駆って遊び、彫った壁と玉のような食事。府庫は尽きたのに無駄な費えはますます増え、百姓は困窮したのに厚い徴収はやまない。今、淮南は仇讐の国、番禺は呑み込む志を抱き、荊渚は日々窺い、溪洞は我らの姑息を待っております。諺に『足が寒ければ心を傷め、民が怨めば国を傷める』と申します。米を納めさせる令を罷め、周陟を誅して郡県に謝し、急がぬ務めを去り、造営の役を減らし、一朝の禍敗が四方の笑いものとなることのないようになさいませ」。
  • 王は激怒した。後日、恒が拝謁を請うと、昼寝を口実に断った。恒は客将の区弘練に「王は欲を逞しくして諫めを拒む。私には一族千口の離散が目前に見える」と言った。王はいっそう怒り、ついに終身、恒に会わなかった。
  • 開運二年秋七月、楚王希範は静江節度使兼侍中・知朗州の希杲が人心を得ていることを疑い、人をやって窺わせた。希杲は恐れて病と称して帰還を求めたが許されず、医者を送って診させ、そのついでに毒殺した。
  • 冬十二月、楚の湘陰の処士・戴偃は詩で楚王希範を譏ることが多く、囚われた。天策副都軍使の丁思瑾が上書して切諫し、希範はその官爵を削った。
  • 三年秋九月、楚王希範は帝が奢靡を好むと知り、珍玩を献じて都元帥を求めた。甲辰、希範を諸道兵馬都元帥とした。

後漢天福十二年〜乾祐三年(947-950年・兄弟の争い)

  • 天福十二年夏五月、武安節度副使・天策府都尉・領鎮南節度使の馬希広は楚の文昭王・希範の同母弟で、謹厚温順な性質だったので希範に愛され、内外の諸司の事を判じさせられていた。
  • 壬辰の夜、希範が没し、将佐が擁立を議した。都指揮使の張少敵と都押牙の袁友恭は、武平節度使・知永州事の希萼が希範の諸弟のうち最年長であるとして立てることを請うた。長直都指揮使の劉彦瑫、天策府学士の李弘皋・鄧懿文、小門使の楊滌はいずれも希広を立てようとした。
  • 張少敵は「永州(希萼)は年長で性は剛毅です。都尉の下に立たぬのは明らかです。どうしても都尉を立てるなら、長策を考えて永州を制し、大人しくさせておく手立てが要ります。さもなくば社稷は危うい」と言ったが、彦瑫らは従わなかった。
  • 天策府学士の拓跋恒は「三十五郎(希広)は軍府の政を判じておられますが、三十郎(希萼)が長です。使者を送って譲られるべきです。さもなくば必ず争端が起こります」と言ったが、彦瑫らは「今日、軍政は我らの手にある。天が与えるのに取らず、他人に取られたら、後日、我らはどこに身を置けよう」と言った。
  • 希広は懦弱で自ら決断できず、乙未、彦瑫らは希範の遺命と称してこれを立てた。張少敵は退いて「禍はここから始まるのか」と嘆じ、拓跋恒とともに病と称して出仕しなくなった。
  • 秋七月甲午、馬希広を天策上将軍・武安節度使・江南諸道都統兼中書令とし、楚王に封じた。
  • 冬十月、楚王希広の庶弟で天策左司馬の希崇は狡猾陰険な性質で、密かに兄の希萼に「劉彦瑫らが先王の命に背いて長を廃して幼を立てた」と書き送って怒らせた。
  • 希萼は永州から喪に駆けつけ、乙巳、砆石に至った。彦瑫は希広に申し上げて侍従都指揮使の周廷誨らに水軍で迎えさせ、永州の将士に武装を解かせて入らせ、希萼を碧湘宮に泊まらせ、その宿舎で喪服を着させて、希広との対面を許さなかった。希萼は朗州へ帰ることを求めた。
  • 周廷誨が希広に希萼を殺すよう勧めたが、希広は「どうして兄を殺すに忍びよう。むしろ潭州と朗州を分けて治めよう」と言い、希萼に厚く贈って朗州へ帰した。希崇は常に希萼のために希広の言動を探ってすべて報告し、内応を約した。
  • 乾祐元年秋八月、武平節度使の馬希萼が楚王希広とそれぞれ職貢を修め、朝廷に別に官爵を加えられたいと請うた。希広は天策府内都狎牙の欧弘練と進奏官の張仲荀の謀で執政に厚く賄賂を贈ってその請いを拒ませた。
  • 九月壬子、希萼と楚王希広に詔書を賜り、兄弟は睦み合うべきで、希萼の貢はすべて希広に付して奏聞するよう諭したが、希萼は従わなかった。
  • 隠帝乾祐二年秋八月、馬希萼は朗州の丁壮をすべて調発して郷兵とし静江軍と号し、戦艦七百艘を造って潭州を攻めようとした。妻の苑氏が「兄弟が攻め合えば、勝っても負けても人に笑われます」と諫めたが聞かず、兵を率いて長沙へ向かった。
  • 馬希広はこれを聞いて「朗州はわが兄だ。争ってはならぬ。国を譲るまでだ」と言ったが、劉彦瑫や李弘皋らが固く争って不可としたので、岳州刺史の王贇を都部署・戦棹指揮使とし、彦瑫にその軍を監させた。
  • 己丑、僕射洲で希萼を大破して戦艦三百艘を得た。贇が希萼に追いつこうとしたところ、希広が使者を送って「わが兄を傷つけるな」と召し、贇は兵を引いて戻った。贇は王環の子である。希萼は赤沙湖から軽舟で逃げ帰り、苑氏は泣いて「禍が来る。私は見るに忍びない」と言い、井戸に身を投げて死んだ。
  • 冬十月壬午、楚王希広に太尉を加えた。楚の静江節度使・馬希瞻は兄の希萼と希広が争うのを見てたびたび使者を送って諫め止めようとしたが従われず、ついに一族が滅ぶと悟り、背に疽を発して、丁亥、没した。
  • 三年夏六月、馬希萼は敗れて帰ると、書で辰州・溆州および梅山の蛮を誘い、ともに湖南を撃とうとした。蛮はかねて長沙の帑蔵の富を聞いていたので大喜びして争って兵を出し、そのまま益陽を攻めた。楚王希広は指揮使の陳璠に防がせ、淹渓で戦って璠は敗死した。
  • 馬希萼はさらに諸蛮に迪田を攻めさせ、秋八月戊戌、これを破って鎮将の張延嗣を殺した。楚王希広は指揮使の黄処超を送って救わせたが処超は敗死し、潭州の人は震え上がった。あらためて牙内指揮使の崔洪璉に七千を率いさせて玉潭に屯させた。
  • 馬希萼が京師に別に進奏務を置くことを上表して請うたが、九月辛巳、詔で「湖南にはすでに進奏務がある」として許さず、あわせて楚王希広にも詔を賜って敦睦を勧めた。
  • 馬希萼は朝廷が楚王希広を助けているとして怒り、使者を送って唐に藩を称し、楚攻めの出兵を乞うた。唐は希萼に同平章事を加え、鄂州の今年の租税を賜り、楚州刺史の何敬洙に兵を率いて希萼を助けさせた。
  • 冬十月丙午、希広は使者を送って上表して急を告げ、「荊南・嶺南・江南が連謀して湖南の地を分けようとしております。兵を発して澧州に屯させ、江南・荊南が朗州を援ける路を扼していただきたい」と言った。
  • 楚王希広は朗州と山蛮の侵入で諸将がたびたび敗れることを憂え、憂色を面に表した。劉彦瑫が「朗州の兵は一万に満たず、馬は千に満ちません。都府の精兵は十万。なぜ勝てぬことを憂えるのですか。臣に一万余の兵と戦艦百五十艘をお貸しくだされば、まっすぐ朗州に入って希萼を縛って大王の憂いを解きましょう」と言った。王は喜んで彦瑫を戦棹都指揮使・朗州行営都統とした。
  • 彦瑫が朗州の境に入ると、父老が争って牛と酒で軍を犒い、「百姓は乱に従いたくありません。都府の兵を長く待ち望んでおりました」と言った。彦瑫は厚く賞したが、戦艦が通り過ぎると竹木を運んでその後ろを断った。
  • この日、馬希萼は朗州の兵と蛮の兵六千・戦艦百艘を送って湄州で迎え撃たせた。彦瑫は風に乗じて火を放ってその艦を焼こうとしたが、まもなく風が回って逆に自分が焼かれた。彦瑫が逃げようとすると江路はすでに断たれており、士卒の戦死・溺死は数千人に及んだ。希広はこれを聞いて涙を流し、為すすべを知らなかった。
  • 希広は平生めったに賜与しなかったが、ここに至って金帛を大いに出して士卒の歓心を買った。ある者が「天策左司馬の希崇は流言で衆を惑わし、反状はすでに明白です。誅されたい」と告げたが、希広は「私が自ら弟を害しては、どんな顔で地下の先王にお目にかかれるか」と言った。
  • 馬軍指揮使の張暉が別道から朗州を撃とうとして竜陽まで来たが、彦瑫の敗北を聞いて益陽に退いて屯した。希萼はさらに指揮使の朱進忠らに三千を率いさせて益陽を急攻させた。暉は衆を欺いて「私は麾下を率いて賊の背後に出る。おまえたちは城中に留まって私を待ち、力を合わせて撃とう」と言い、出るとそのまま竹頭市から長沙へ逃げ帰った。朗州の兵は城中に主がいないと知って急攻し、士卒九千余人は皆死んだ。
  • 十一月、楚王希広は僚属の孟駢を送って馬希萼を説かせた。「公は父兄の讎を忘れて北面して唐に仕えている。袁譚が曹公に救援を求めたのと何が違いましょう」。希萼が斬ろうとすると、駢は「古は兵を交えても使者はその間にあるもの。駢が死を惜しむなら、どうしてここへ来ましょう。駢の言は潭州の人に私するものではなく、まことに公のための謀です」と言い、希萼は釈して帰らせ、「大義は絶えた。地下でなければ会うまい」と復命させた。
  • 朱進忠が希萼に自ら兵を率いて潭州を取るよう請い、辛未、希萼は子の光賛に朗州を守らせ、領内の兵をすべて発して長沙へ向かい、順天王を自称した。
  • これに先立ち、馬希萼は蛮の兵に玉潭を囲ませ、朱進忠が兵を率いて合流し、崔洪璉は敗れて長沙へ逃げ帰った。希萼が兵を率いて続いて岳州を攻めると、刺史の王贇が防いで五日たっても落とせなかった。
  • 希萼が人をやって贇に「公は馬氏の臣ではないのか。私に仕えず異国に仕えるのか。人臣でありながら二心を抱いては、先人を辱めるではないか」と言わせた。贇は「亡父は先王の将として六度淮南の兵を破りました。今、大王の兄弟が相容れず、贇は淮南が座して漁夫の利を得るのを常に恐れております。一朝にして父祖の遺体をもって淮南に臣事しては、まことに先人を辱めましょう。大王がまことに恨みを釈いて兵を罷め、兄弟が元のように睦まれるなら、贇はどうして死力を尽くして大王兄弟に仕えぬはずがありましょう。二心などありましょうか」と答えた。希萼は恥じて兵を引いて去った。
  • 辛卯、湘陰に至って焼き掠めて通り過ぎ、長沙に至って湘水の西に陣し、歩兵と蛮の兵は嶽麓に陣し、朱進忠が玉潭から兵を率いて合流した。
  • 馬希広は劉彦瑫を送って水軍指揮使の許可瓊を召し、戦艦五百艘で城北の津に屯して南津まで連ねさせ、馬希崇を監軍とした。さらに馬軍指揮使の李彦温に騎兵で駞口に屯して湘陰の路を扼させ、歩軍指揮使の韓礼に二千で楊柳橋に屯して柵の路を扼させた。可瓊は許徳勲の子である。
  • はじめ蛮酋の彭師暠が楚に降ったとき、楚の人はその粗野な直情を嫌ったが、楚王希広だけは憐れんで強弩指揮使とし辰州刺史を領させた。師暠は常に希広のために死のうと思っていた。
  • 朱進忠が蛮の兵と合わせて七千余人で長沙に至り江西に営すると、師暠は城に登って望み、希広に「朗州の人は急に勝って驕り、蛮の兵を混ぜております。攻めれば破りやすい。臣に歩卒三千をお貸しください。巴渓から渡江して岳麓の背後に出て水西に至り、許可瓊に戦艦で渡江させて腹背から挟撃すれば必ず破れます。前軍が敗れれば、その大軍も軽々しく進めなくなりましょう」と言った。
  • 希広は従おうとしたが、そのとき馬希萼はすでに密使を送って厚い利で許可瓊を釣り、湖南を分けて治めることを約していた。可瓊は二心を抱いていたので、希広に「師暠と梅山の諸蛮は同族です。どうして信じられましょう。可瓊は代々楚の将です。必ず大王に背きません。希萼などに何ができましょう」と言い、希広は取りやめた。
  • 希萼はまもなく戦艦四百余艘を江西に泊めた。希広は諸将に皆可瓊の節度を受けるよう命じ、日々可瓊に銀五百両を賜り、たびたびその営を訪ねて事を計った。可瓊は常に塁を閉じて士卒に朗州軍の進退を知らせなかった。希広は「まことの将軍だ。私に何の憂いがあろう」と嘆じた。だが可瓊は時おり夜に単舸に乗り、江の巡視と偽って希萼と水西で会い、内応を約していた。
  • ある日、彭師暠が可瓊を見て目を怒らせて叱り、衣を払って入り、希広に「可瓊は叛こうとしております。国人は皆知っております。速やかに除いて後患を残されぬよう」と言った。希広は「可瓊は許侍中の子だ。そんなことがあろうか」と言った。師暠は退いて「王は仁であるが決断がない。敗亡は爪先立ちの間に待てる」と嘆じた。
  • 潭州は大雪で平地に四尺積もった。潭州と朗州の両軍は長く戦えずにいた。希広は巫覡と僧の言を信じ、江上に鬼の像を塑って手を挙げて朗州の兵を却けさせ、また高楼に大きな象を作らせて手で水西を指し目を怒らせて睨ませ、衆僧に日夜経を誦えさせ、希広自ら僧衣を着て膜拝して福を求めた。
  • 甲辰、朗州の歩軍指揮使・何敬真(武陵の人)らが蛮の兵三千を楊柳橋に陣させた。敬真は韓礼の営の旗が入り乱れているのを望んで「あの衆はもう懼れている。撃てば破りやすい」と言った。朗州の人・雷暉が潭州の兵の服を着て密かに礼の寨に潜入し、剣で礼を撃ったが当たらず、軍中は驚き騒いだ。敬真らがその乱に乗じて撃ち、礼の軍は大潰し、礼は傷を負って家に帰って没した。
  • ここで朗州の兵は水陸から長沙を急攻した。歩軍指揮使の呉宏と小門使の楊滌は「死をもって国に報いるのは今こそだ」と語り合い、それぞれ兵を率いて出戦した。宏は清泰門から出て不利となり、滌は長楽から出て辰の刻から午の刻まで戦い、朗州の兵はやや退いた。許可瓊と劉彦瑫は兵を動かして救わず、滌の士卒は飢え疲れて退いて食事をとった。
  • 彭師暠が城の東北隅で戦い、蛮の兵が城の東から火を放った。城上の人が許可瓊の軍に城を救うよう招いたが、可瓊は全軍を挙げて希萼に降り、長沙はそのまま陥ちた。朗州の兵と蛮の兵が三日間大掠し、吏民を殺し家屋を焼いた。武穆王以来営んできた宮室はすべて灰燼に帰し、蓄えた宝貨はすべて蛮の集落に入った。
  • 李彦温は城中から火が上がるのを望んで駞口から兵を率いて救おうとしたが、朗州の人がすでに城を押さえて防戦した。彦温は清泰門を攻めたが落とせず、劉彦瑫とそれぞれ千余人を率いて文昭王(希範)および希広の諸子を奉じて袁州へ向かい、そのまま唐へ逃げた。張暉は希萼に降った。
  • 左司馬の希崇が将吏を率いて希萼のもとへ行って即位を勧めた。呉宏は戦って袖が血に染まったまま希萼に会って「不幸にも許可瓊に誤らされました。今日、死んでも先王に恥じません」と言った。彭師暠は槊を地に投げて大声で死を請うた。希萼は「鉄石の人だ」と嘆じ、いずれも殺さなかった。
  • 乙巳、希崇が希萼を府に迎え入れて政務に就かせた。城を閉じて希広および掌書記の李弘皋、その弟の弘節、都軍判官の唐昭胤、鄧懿文・楊滌らを手分けして捕え、いずれも捕えた。希萼は希広に「父兄の業を承けるのに、長幼の別がないとでもいうのか」と言い、希広は「将吏に推され、朝廷に命じられただけです」と答えた。希萼はいずれも投獄した。
  • 丙午、希萼は内外巡検侍衛指揮使の劉賓に焼き掠めを禁じさせた。丁未、希萼は天策上将軍・武安武平静江寧遠等軍節度使・楚王を自称し、希崇を節度副使・判軍府事とし、湖南の要職はことごとく朗州の人を充てた。李弘皋・弘節・唐昭胤・楊滌を切り刻んで食い、鄧懿文を市で斬った。
  • 戊申、希萼は将吏に「希広は懦夫で左右に制せられていただけだ。私は生かしてやりたいが、よいか」と言った。諸将は皆答えなかったが、かつて希広に笞打たれたことのある朱進忠が「大王は三年血戦してようやく長沙を得られました。一国に二主は容れられません。他日、必ず悔いられましょう」と答えた。戊申、希広に死を賜った。希広は刑に臨んでもなお仏書を誦えていた。彭師暠が瀏陽門の外に葬った。
  • 楚王希萼は子の光賛を武平留後とし、何敬真を朗州牙内都指揮使として兵で戍らせた。希萼が拓跋恒を召して用いようとしたが、恒は病と称して起たなかった。

後周廣順元年〜二年(951-952年・唐の湖南併呑と朗州の反攻)

  • 元年春二月甲辰、楚王希萼は掌書記の劉光輔を唐に入貢させた。三月、唐は楚王希萼を天策上将軍・武安武平静江寧遠節度使兼中書令・楚王とし、右僕射の孫忌と客省使の姚鳳を冊礼使とした。
  • 楚王希萼は志を得ると旧怨を思い出して殺戮は際限なく、昼夜酒に耽って荒淫にふけり、軍府の事はすべて馬希崇に委ねた。希崇もまた私曲が多く、政と刑は乱れた。府庫はすでに乱兵に尽くされていたので、民の財を登録して士卒に賞したり、あるいはその門を封じて取り上げたりした。それでも士卒は不公平だとして怨望し、朗州から希萼に従って来た旧将佐までいずれも不満を抱いて離心した。
  • 劉光輔が唐に入貢したとき、唐主は厚遇し、光輔は密かに「湖南の民は疲れ、主は驕っています。取れます」と言った。唐主はそこで営屯都虞候の辺鎬を信州刺史として兵を袁州に屯させ、密かに進取を図った。
  • 小門使の謝彦顒はもと希萼の家奴で、顔立ちで希萼の寵を得、妻妾と同席するまでになり、恩を恃んで専横で、常に希崇と肩を並べ、あるいはその背を叩いた。希崇はこれを恨んだ。旧例では府の宴の際、小門使は鈇を執って門外に立つのだが、希萼は彦顒を同席させ、あるいは諸将の上に置いたので、諸将は皆恥じた。
  • 希萼は府舎が焼けたことから、朗州の静江指揮使・王逵と副使の周行逢に部下の兵千余人を率いさせて修復させた。使役はきわめて過酷で犒いの賜与もなく、士卒は皆怨んで密かに「囚人でも死を免れれば労役に就かせるだけだ。我らは大王に従って万死を冒して湖南を取った。何の罪があって囚人のように使役されるのか。しかも大王は終日酔って歌っている。我らの労苦を知るものか」と言い合った。
  • 逵と行逢はこれを聞いて「衆の怨みは深い。早く計を立てねば禍が我らに及ぶ」と語り合い、壬申の朝、衆を率いてそれぞれ長柄の斧と白い棍棒を持って朗州へ逃げ帰った。当時、希萼は酔って醒めず、左右は報告できなかった。癸酉、初めて報告し、希萼は湖南指揮使の唐師翥に千余人を率いさせて追わせたが追いつけず、まっすぐ朗州に至った。逵らはその疲労に乗じて伏兵で襲い、士卒はほぼ全滅し、師翥は脱出して逃げ帰った。
  • 逵らは留後の馬光賛を退け、あらためて希萼の甥の光恵に州事を掌らせた。光恵は希振の子である。まもなく光恵を節度使に奉じ、逵らは何敬真および諸軍指揮使の張倣とともに軍府の事を参決した。
  • 希萼は事情を詳しく唐に伝え、唐主は使者を送って厚い賞で招諭したが、逵らはその賞を受け取りながら使者を放って詔に答えず、唐も咎められなかった。
  • 武平節度使の馬光恵は愚かで懦弱、酒を好み諸将を服させられなかった。王逵・周行逢・何敬真は、辰州刺史の劉言(廬陵の人)が驍勇で蛮夷の心を得ていることから、迎えて副使にしようと謀った。言は逵らが制しがたいと知り、「行かねば私を攻めるだろう」と言って単騎で赴いた。着くと衆は光恵を廃して唐へ送り、言を武平留後代行に推し、上表して唐に旄節を求めた。唐は許さず、言はまた周にも藩を称した。
  • 秋九月、楚王希萼は長沙を落としながら許可瓊に賞を与えず、可瓊が怨望するのではと疑って蒙州刺史として外に出した。馬歩都指揮使の徐威、左右軍馬歩使の陳敬遷、水軍都指揮使の魯公綰、牙内侍衛指揮使の陸孟俊に歩兵を率いさせて城の西北隅に寨を立てて朗州の兵に備えさせたが、労役者を撫恤しなかったので将卒は皆怨り怒って乱を謀った。
  • 希崇はその謀を知った。戊寅、希萼が将吏と宴を開いたが徐威らは招かれず、希崇も病と称して行かなかった。威らは人をやって蹴り噛む馬十余頭を府に追い込ませ、自ら徒党を率いて斧や白棒を持ち、「馬を繋ぐ」と称して不意に座に至り、縦横に人を撃って倒れる者が地に満ちた。希萼は垣を越えて逃げたが、威らは捕えて囚え、謝彦顒を捕えて頭のてっぺんから踵まで刻んだ。
  • 希崇を武安留後に立て、兵を放って大掠し、希萼を衡山県に幽閉した。
  • 劉言は希崇が立ったと聞き、兵を潭州へ向かわせ、簒奪の罪を討つと言い触らした。壬午、益陽の西に陣し、希崇は恐れた。癸未、二千の兵を発して防ぎ、また使者を朗州へ送って和を求め、隣藩となることを請うた。
  • 掌書記の李観象(桂林の人)が言に説いた。「希萼の旧将佐がなお長沙におります。彼らは必ず公と隣り合うことを望みますまい。まず檄を送って希崇にその首を取らせ、そのうえで湖南を図れば併せ有つことができます」。言は従った。
  • 希崇は言を畏れ、ただちに都軍判官の楊仲敏、掌書記の劉光輔、牙内指揮使の魏師進、都押牙の黄勍ら十余人の首を斬り、前辰陽県令の李翊に持たせて朗州へ送った。着いたときには腐敗しており、言と王逵らは仲敏らの首ではないとして怒って翊を責め、翊は恐れて自殺した。
  • 希崇は位を襲ぐと、これも酒に耽って荒淫にふけり、政は不公平で言葉に偽りが多く、国人は付かなかった。
  • はじめ馬希萼が長沙に入ったとき、彭師暠は死を免れたものの背を杖打たれて庶人に落とされていた。希崇は師暠が必ず希萼を恨んでいると考え、希萼を衡山へ送らせ、実は師暠に殺させようとした。師暠は「私を弑君の人にさせるつもりか」と言い、仕えることいっそう謹んだ。
  • 丙戌、衡山に至った。衡山指揮使の廖偃は廖匡図の子で、叔父の節度巡官・匡凝と謀って「わが家は代々馬氏の恩を受けてきた。今、希萼は長でありながら退けられ、必ず禍を免れまい。ともに輔けようではないか」と言った。そこで荘の民と郷人を率いてすべて兵とし、師暠とともに希萼を衡山王に立て、県を行府とし、江を断って柵とし、竹を編んで戦艦とし、師暠を武清節度使とした。徒衆を募ると数日で一万余に達し、州県も多く応じた。判官の劉虚已を送って唐に援けを求めた。
  • 徐威らは希崇の所業を見て必ず成るまいと知り、しかも朗州と衡山の圧迫を恐れ、一朝にして敗れて禍が及ぶことを憂え、希崇を殺して自ら弁解しようとした。希崇はうっすら察して大いに恐れ、密かに客将の范守牧を送って表を奉じて唐に出兵を請うた。唐主は辺鎬に袁州から一万の兵で西の長沙へ向かうよう命じた。
  • 冬十月、唐の辺鎬が兵を率いて醴陵に入り、癸巳、楚王希崇が使者を送って軍を犒った。壬寅、天策府学士の拓跋恒を送って牋を鎬に奉じて降を請うた。恒は「私は長く死ねずにいて、小僧のために降伏状を届ける羽目になった」と嘆じた。
  • 癸卯、希崇が弟や甥を率いて鎬を迎え、砂塵を望んで拝した。鎬は馬を下りて詔を称して労った。甲辰、希崇らは鎬に従って入城し、鎬は瀏陽門の楼に宿った。湖南の将吏がこぞって祝賀し、鎬は皆に厚く賜った。当時、湖南は飢饉だったので、鎬は馬氏の倉の粟を大いに出して賑わし、楚の人は大いに喜んだ。
  • 癸丑、唐の武昌節度使・劉仁贍が戦艦二百で岳州を取り、降った者を撫して受け入れたので、人はその亡国を忘れた。仁贍は劉金の子である。
  • 唐の百官がこぞって湖南平定を賀したが、起居郎の高遠は「我らは楚の乱に乗じて取った。きわめて容易だった。だが諸将の才を見るに、守るのはきわめて難しいと恐れる」と言った。遠は幽州の人である。司徒で致仕した李建勲は「禍はここから始まるのか」と言った。
  • 唐主は即位以来まだ郊廟を親祠していなかった。礼官が請うと、唐主は「天下が一家となってから告謝しよう」と言った。一挙に楚を取ると、諸国も指図一つで定められると考えた。魏岑が宴に侍って「臣は若いころ元城に遊んでその風土を楽しみました。陛下が中原を定められたら、魏博節度使を賜りたい」と言い、唐主は許した。岑は進み出て拝謝した。その主が驕り臣が佞なることはこの程度だった。
  • 馬希萼は唐の人が自分を潭州の帥に立てることを望んだが、潭州の人は希萼を憎み、こぞって辺鎬を帥とするよう請うた。唐主はそこで鎬を武安節度使とした。
  • 唐の辺鎬が馬希崇に一族を率いて入朝するよう促した。馬氏は一族が集まって泣き、重い賄賂で鎬に長沙居住を奏請してもらおうとした。鎬は微かに笑って「国家と公の家は代々の仇敵で、ほぼ六十年になります。それでもあえて公の国を窺う意を抱いたことはありません。今、公の兄弟が争って困窮し、自ら帰服されたのです。もしまた迷われるなら、不測の憂いがありましょう」と言い、希崇は答えられなかった。
  • 十一月辛酉、宗族および将佐千余人とともに号泣して舟に乗り、送る者も皆哭して、その響きは川と谷を震わせた。
  • 楚の静江節度副使・知桂州の馬希隠は武穆王・殷の末子である。楚王希広と希萼の兄弟が国を争っていたとき、南漢主は内侍使の呉懐恩を西北招討使として兵を境上に屯させ、隙を窺って密かに進取を謀っていた。希広は指揮使の彭彦暉に兵を率いさせて竜峒に屯させて備えた。
  • 希萼は衡山から使者を送って彦暉を桂州都監・在城外内巡検使・判軍府事とした。希隠はこれを憎み、密かに人をやって蒙州刺史の許可瓊に告げた。可瓊はちょうど南漢の圧迫を畏れていたので、ただちに蒙州を棄てて兵を率いて桂州へ向かい、城中で彦暉と戦った。彦暉は敗れて衡山へ逃げ、可瓊は桂州に留まって屯した。
  • 呉懐恩は蒙州を占拠して兵を進めて桂管を侵掠し、大いに騒がせた。希隠と可瓊は為すすべを知らず、ただ酒を酌み交わして向かい合って泣くばかりだった。
  • 南漢主は希隠に書を送った。「武穆王は全楚を領有して富強かつ安泰なること五十余年。それも三十五舅・三十舅の兄弟が戈を交えて自ら食い合い、先人の基業を挙げて仇讐に北面したためです。今、唐の兵がすでに長沙を押さえたと聞きます。ひそかに思うに、桂林も続いて取られましょう。わが朝は代々与国であり、加えて婚姻の縁があります。この傾危を見て、救わずにいられましょうか。すでに大軍を発して水陸から進めております。相公舅には永く節旄を擁して常に一方に居ていただきましょう」。
  • 希隠は書を得て僚佐と降伏を議したが、支使の潘玄珪は不可とした。丙寅、呉懐恩が兵を率いて不意に城下に至り、希隠と可瓊は衆を率いて夜に関門を破って全州へ逃げ、桂州はそのまま潰えた。懐恩はそのまま兵で宜・連・梧・厳・富・昭・柳・象・龔などの州を平定し、南漢は初めて嶺南の地をすべて有した。
  • 辛未、唐の辺鎬が先鋒指揮使の李承戩に兵を率いさせて衡山へ行かせ、馬希萼に入朝を促した。庚辰、希萼は将佐・士卒一万余人とともに潭州から東下した。
  • 十二月、唐主は鎮南節度使兼中書令の宋斉丘を太傅とし、馬希萼を江南西道観察使・守中書令として洪州に鎮させ、なお楚王の爵を賜り、馬希崇を永泰節度使兼侍中として舒州に鎮させた。湖南の将吏で位の高い者は刺史・将軍・卿・監に、低い者は順に官に拝した。
  • 唐主は廖偃と彭師暠の忠を嘉し、偃を左殿直軍使・莱州刺史、師暠を殿直都虞候とし、賜与はきわめて厚かった。湖南の刺史は皆唐に入朝したが、永州刺史の王贇だけが遅れて着き、唐主は毒殺した。
  • 南漢主は内侍省丞の潘崇徹と将軍の謝実に兵を率いさせて郴州を攻めさせ、唐の辺鎬が兵を発して救ったが、崇徹は義章で唐の兵を破ってそのまま郴州を取った。辺鎬は全州・道州に刺史を置いて南漢に備えることを請い、丙辰、唐主は廖偃を道州刺史、黒雲指揮使の張巒に全州を掌らせた。
  • はじめ蒙城鎮将の咸師朗が部兵を率いて唐に降り、唐主はその兵を奉節都として辺鎬に従って湖南を平定させた。唐は湖南の金帛・珍玩・倉の粟から舟艦・亭館・花果の美しいものに至るまでことごとく金陵へ移し、都官郎中の楊継勲らを送って湖南の租賦を収めて戍兵を賄わせた。継勲らは苛酷を事とし、湖南の人は失望した。
  • 行営糧料使の王紹顔が士卒の糧と賜を減らしたので、奉節指揮使の孫朗と曹進が怒って「昔、我らが咸公に従って唐に降ったとき、唐が我らを遇したのは、今日の湖南の将士への厚遇に及ばなかった。今、功があるのに禄と賜を増やさぬどころか減らすとは。紹顔と鎬を殺して湖南を押さえ中原に帰り、富貴を図るに如くはない」と言った。
  • 二年春正月庚申の夜、孫朗と曹進が徒党を率いて乱を起こし、藁を束ねて密かに府門を焼こうとしたが火がつかなかった。辺鎬が気づいて兵を出して格闘し、あわせて鼓角を鳴らさせた。朗と進らは夜が明けると思い、関門を破って朗州へ逃げた。
  • 王逵が朗に「私は昔、武穆王に従って淮南と戦い、たびたび勝った。淮南の兵は与しやすい。今、朗州の衆で湖南を取り戻したいが、できるか」と問うた。朗は「朗は金陵に数年おり、その政事をつぶさに見ました。朝に賢臣なく、軍に良将なく、忠と佞の別なく、賞罰は当を得ない。これで国が存続すれば幸いというもの。人を併呑する余裕などありましょうか。朗が公の先駆けとなりましょう。湖南を取るのは芥を拾うようなものです」と答えた。逵は喜んで厚遇した。
  • 唐主は湖南を落とすと、将の李建期を益陽に屯させて朗州を図り、知全州の張巒に桂州招討使を兼ねさせて桂州を図らせたが、長らく功がなかった。唐主は馮延巳と孫晟に「楚の人は我らのもとで肩を休めることを求めたのに、我らはその傷を撫することもできぬまま虐げて力を使っている。来蘇の望みに副うものではない。私は桂林の役を罷め、益陽の戍を収め、劉言に旌節を授けようと思うがどうか」と言った。晟はもっともとしたが、延巳は「我らは偏将を出して湖南を挙げ、遠近を震え上がらせました。一朝にして三分の二を失えば、人は我らを軽んじましょう。辺将に委ねてその形勢を見られたい」と言った。
  • 唐主は統軍使の侯訓に五千を率いさせて吉州の路から全州へ向かわせ張巒と合兵して桂州を攻めさせた。南漢は山谷に兵を伏せ、巒らが城下に着いて疲れたところで伏兵が四方から起こり、城中からも兵を出して挟撃した。唐の兵は大敗し、訓は死に、巒は散卒数百を収めて全州へ逃げ帰った。
  • 唐の武安節度使・辺鎬は暗愚で懦弱、決断がなく、湖南では政令が多方から出て衆心に合わなかった。吉水の人・欧陽広が上書して「鎬は将帥の才ではありません。必ず湖南を失います。別に良将を択び兵を増やしてその敗を救うべきです」と言ったが、取り上げられなかった。
  • 唐主が鎬に朗州の経略を命じたが、朗州から来る者の多くが「劉言は忠順です」と言ったので、鎬はこれで備えなかった。唐王が劉言を入朝させようとしたが言は行かず、王逵に「唐は必ず我らを伐つ。どうする」と言った。逵は「武陵は江湖の険を負い甲兵数万を帯びております。どうして手をこまねいて人に制せられましょう。辺鎬は撫御に方策なく、士民は付いておりません。一戦で擒にできます」と答えた。言はなお迷って決しなかったが、周行逢が「機事は速さを貴びます。緩ければ彼が備えます。図れません」と言い、言はそこで逵・行逢および牙将の何敬真・張倣・蒲公益・朱全琇・宇文瓊・彭万和・潘叔嗣・張文表の十人をいずれも指揮使として部署し、兵を発した。叔嗣と文表はいずれも朗州の人である。行逢は謀に長け、文表は戦に長け、叔嗣は果敢で、三人はしばしば互いを頼りに功を成し、情誼はきわめて親しかった。
  • 諸将が溆州の酋長・符彦通を援けに召そうとしたが、行逢は「蛮は貪欲で義がない。先年、馬希萼に従って潭州に入り、焼き掠めて何も残さなかった。わが兵は義によって挙がる以上、行けば克てぬことはない。どうしてこんな輩を用いて百姓を害するのか」と言い、取りやめた。ただし彦通が後患となることも恐れ、蛮酋の土団都指揮使・劉瑫が諸蛮に憚られていたので、西境鎮遏使に補して備えさせた。
  • 冬十月、逵らが兵を率いて道を分けて長沙へ向かい、孫朗と曹進を先鋒使とした。辺鎬は指揮使の郭再誠らに兵を率いさせて益陽に屯して防がせた。
  • 戊子、逵らが沅江を落とし、都監の劉承遇を捕え、裨将の李師徳は衆五百を率いて降った。壬辰、逵らは軍士に小舟を掲げて身を隠させ、まっすぐ益陽へ至り、四方から斧で寨を破って入り、そのまま落として戍兵二千人を殺した。辺鎬は唐に急を告げた。
  • 甲午、逵らが橋口と湘陰を落とし、乙未、潭州に至った。辺鎬は城に籠って守ったが、救兵は来ず城中の兵は少なかった。丙申の夜、鎬は城を棄てて逃げ、吏民もこぞって潰えた。醴陵門の橋が折れて死者は一万余人に及び、道州刺史の廖偃は乱兵に殺された。
  • 丁酉の朝、王逵が入城して武平節度副使・権知軍府事を自称し、何敬真を行軍司馬とし、敬真らを送って鎬を追わせたが追いつけず、五百級を斬った。蒲公益が岳州を攻め、唐の岳州刺史・宋徳権は逃げ、劉言は公益に岳州を代行させた。唐の将で湖南の諸州を守っていた者は、長沙の陥落を聞いて相次いで逃げ去った。劉言は馬氏の嶺北の旧地をすべて回復し、ただ郴州・連州だけが南漢に入った。
  • 劉言は使者を送って表を奉じて告げた。「湖南は代々朝廷に仕えてきましたが、不幸にも隣寇に陥れられました。臣は詔を奉じておりませんが、義兵を糾合して旧国を削平いたしました」。唐主は辺鎬の官爵を削って饒州へ流した。
  • 十二月、王逵が兵および洞蛮五万を率いて郴州を攻めた。南漢の将・潘崇徹が救援に来て蠔石で遭遇した。崇徹は高所に登って湖南の兵を望み、「疲れていて整っていない。破れる」と言い、放って撃って大破し、屍は八十里に伏した。
  • 劉言が「潭州は荒廃しております。使府を朗州に移されたい。あわせて貢献と茶の販売をすべて馬氏の故事どおりにしていただきたい」と上表し、許された。
  • 唐の江西観察使・楚王の馬希萼が入朝すると、唐主は留めた。数年後、金陵で没し、恭孝と諡された。

廣順三年〜顯德元年(953-954年・王逵と周行逢)

  • 三年春正月丙辰、武平留後の劉言を武平節度使・制置武安静江等軍事・同平章事、王逵を武安節度使、何敬真を静江節度使、周行逢を武安行軍司馬とした。
  • はじめ王逵は潭州を落とすと、指揮使の何敬真を静江節度副使、朱全琇を武安節度副使、張文表を武平節度副使、周行逢を武安行軍司馬とした。敬真と全琇はそれぞれ牙兵を置き、逵と庁を分けて執務したので、吏民は誰に従えばよいか分からなかった。宴のたび諸将は酒に任せて騒ぎ、市のようで、もう上下の分もなかった。ただ行逢と文表だけが礼を尽くして逵に仕えたので、逵は親しみ愛した。
  • 敬真は逵と折り合わず朗州へ帰ると言い、しかも劉言にも仕えられず、全琇と乱を謀った。言はかねて逵の強さを忌んでおり、逵が敬真に自分を窺わせているのではと疑って討とうとした。逵はこれを聞いてひどく恐れた。
  • 行逢は「劉言はもとより我らと心を同じくしません。何敬真と朱全琇は公の下にいることを恥じております。公は早く図られるべきです」と言った。逵は喜んで「公とともに凶党を除き、ともに潭州・朗州を治められれば、もう何の憂いもない」と言った。
  • 折しも南漢が全州・道州・永州を侵したので、行逢は自ら朗州へ行って劉言を説き、敬真と全琇を南征に出させ、長沙に着いたところで計略で捕えれば掌中の物も同然だと請うた。逵は従った。
  • 行逢が朗州に至ると、言は敬真を南面行営招討使、全琇を先鋒使として、牙兵百余人を率いて潭州の兵と合流して南漢を防がせた。二人が長沙に至ると、逵は郊外に出て迎え、対面はきわめて和やかで、宴飲は連日に及び、美妓を多く餌に与えた。敬真はそこで長逗留して進まなかった。
  • 朗州の指揮使・李仲遷が三千の兵を率いて長く潭州に戍っていた。敬真が先に出発させて嶺北へ向かわせると、都頭の符会らが士卒の帰郷の思いに乗じて仲遷を脅して勝手に朗州へ帰った。
  • 逵は敬真の酔いに乗じ、人に劉言の使者を装わせて、「南寇が深く侵しているのに急ぎ防がず、もっぱら荒れた宴に耽っている。大帥は公を械にかけて西府へ送るよう命じられた」と敬真を責めさせ、そのまま捕えて獄に繋いだ。全琇は逃げ、兵を送って追捕させた。
  • 二月辛亥朔、敬真を斬って衆に示した。まもなく全琇とその一党十余人を捕えて皆斬った。
  • 王逵は使者を送って何敬真を斬ったことを劉言に告げ、言はやむなく、庚申、符会ら数人を斬った。
  • 周行逢は武平節度副使の張倣を憎み、王逵に「何敬真は倣の親戚です。刑に臨んで後事を倣に託しました。公は備えられるべきです」と言った。夏四月庚申、逵は倣を招いて飲ませ、酔ったところを殺した。
  • 夏六月、王逵は周行逢に潭州を掌らせ、自ら兵を率いて朗州を襲って落とし、指揮使の鄭珓を殺し、武安節度使・同平章事の劉言を捕えて別館に幽閉した。
  • 秋八月、王逵は使者を送って上表し、劉言が朗州を挙げて唐に降ろうと謀り、さらに潭州を攻めようとしたがその衆が従わなかったので廃して囚えたと誣告し、「臣はすでに朗州に至って軍府を撫安いたしました。あわせてあらためて使府を潭州に移されたい」と請うた。甲戌、通事舎人の翟光裔を湖南へ宣撫に遣わし、その請いに従った。逵は長沙へ帰り、周行逢に朗州事を掌らせ、さらに潘叔嗣を送って劉言を朗州で殺させた。
  • 顕徳元年夏四月、王逵が使府をあらためて朗州に移すことを上表して請うた。五月甲戌朔、逵は潭州から朗州へ移り、周行逢に潭州事を掌らせ、潘叔嗣を岳州団練使とした。
  • この年、湖南は大飢饉で民は草木の実を食べた。武清節度使・知潭州事の周行逢は倉を開いて賑わし、救われた者はきわめて多かった。行逢は微賤から起こって民間の疾苦を知っており、精励して治め、厳しくとも私がなく、僚属に辟召するのはいずれも廉潔剛直の士で、約束は簡要だったので吏民は便とした。自らの奉養はきわめて薄く、ある者が倹約に過ぎると譏ると、行逢は「馬氏父子は奢りを窮め靡を極めて百姓を恤まなかった。今、子孫は人に食を乞うている。あれに倣えというのか」と言った。