通鑑紀事本末高氏、荊南に拠る(髙氏據荆南)

朱全忠の部将だった高季昌(季興)が江陵に入り、荒廃した荊南を復興させて自立の基を築き、子の従誨に至るまでの歴史。夔・忠・万の三州や三峡を狙って蜀・楚・唐と争い、後唐に叛いて呉に付くなど去就を繰り返した。従誨は孫光憲・梁震を用いて刑を省き賦を薄くする一方、諸国の賜与を狙って向かう先ごとに臣を称し「高無頼」と呼ばれた。902年から949年、従誨の没後は子の保融が継ぐ。

年表(7件)

昭宗天復二年〜天祐三年(902-906年・高季昌の荊南入り)

  • 天復二年秋九月、朱全忠は親従指揮使の高季昌を宋州団練使とするよう上表した。季昌は硤石の人で、もと朱友恭の僕夫だった。
  • 天祐三年冬十月、武貞節度使の雷彦恭がたびたび荊南を侵し、留後の賀瓌は城を閉じて守った。朱全忠はこれを臆病と見て、潁州防禦使の高季昌を代え、さらに駕前指揮使の倪可福に五千を率いさせて荊南を戍らせ呉と蜀に備えさせた。朗州の兵は引き揚げた。

後梁開平元年〜乾化二年(907-912年・自立の兆し)

  • 開平元年夏五月癸未、荊南留後代行の高季昌を節度使とした。荊南はもと八州を統べていたが、乾符以来、寇乱が相次いで諸州はいずれも隣道に押さえられ、江陵だけが残っていた。季昌が着任したときには城邑は荒れ、戸口は減っていた。季昌は流散した民を集めて安んじさせ、民は皆生業に復した。
  • 六月、武貞節度使の雷彦恭が楚の兵と合わせて江陵を攻めた。
  • 二年夏四月、淮南が将の李厚に水軍一万五千を率いさせて荊南へ向かわせたが、高季昌は迎え撃って馬頭で破った。
  • 冬十月、依政の進士・梁震は唐末に及第しており、このとき蜀へ帰る途中で江陵を通った。高季昌はその才識を愛して留め、上表して判官にしようとした。震はそれを恥じ、去りたいが禍が及ぶことを恐れ、「震はもとより栄官を慕いません。明公が震を愚かとされず、どうしても謀議に参らせたいなら、白衣のまま酒席に侍るだけで十分です。なぜ幕府にいる必要がありましょう」と言い、季昌は許した。震は生涯「前進士」とだけ称し、高氏の任命を受けなかった。季昌はきわめて重んじ、謀主として「先輩」と呼んだ。
  • 乾化二年、高季昌は密かに荊南に拠る志を抱き、そこで江陵の外郭を築いて拡張することを奏請した。
  • この年、季昌は兵を出して梁を助けて晋を伐つと言い触らし、襄州へ進攻した。山南東道節度使の孔勍が撃破し、以後、朝貢の路は絶えた。勍は兖州の人である。

均王乾化三年〜龍德元年(913-921年・自立の完成)

  • 乾化三年秋八月、高季昌に勃海王の爵を賜った。
  • 九月、季昌は戦艦五百艘を造り、城壕を整え器械を修めて攻守の備えとし、亡命者を集め、呉・蜀と通じた。朝廷はしだいに制御できなくなった。
  • 四年春正月、季昌は蜀の夔・万・忠・涪の四州がもと荊南に属していたとして兵を興して取ろうとし、まず水軍で夔州を攻めた。当時、鎮江節度使兼侍中の嘉王・王宗寿が忠州を鎮しており、夔州刺史の王成先が甲を請うと、宗寿は白布の袍だけを支給した。
  • 成先はこれを率いて迎え撃った。季昌が火船を放って蜀の浮橋を焼こうとすると、招討副使の張武が鉄の綱を張って防ぎ、船は進めなかった。折しも風が逆に吹き、荊南の兵は焼死・溺死する者が多かった。季昌が乗る戦艦は牛革で覆っていたが、飛石が当たってその艫を折った。季昌は小舟に乗り換えて逃げ、荊南の兵は大敗し、五千級を捕殺された。
  • 成先は密かに人を送って宗寿が甲を支給しなかった状を奏したが、宗寿はこれを察知し、成先を召して斬った。
  • 貞明三年、高季昌は孔勍と好誼を修め、あらためて貢献を通じた。
  • 五年夏五月、楚の人が荊南を攻め、高季昌は呉に救援を求めた。呉は鎮南節度使の劉信らに洪州・吉州・撫州・信州の歩兵を率いさせて瀏陽から潭州へ向かわせ、武昌節度使の李簡らに水軍で復州を攻めさせた。信らが潭州の東境に至ると楚の兵は荊南から手を引いて帰り、簡らは復州に入って知州の鮑唐を捕えた。
  • 龍徳元年冬十二月、高季昌は都指揮使の倪可福に一万の兵で江陵の外郭を修めさせた。季昌が巡視して工事の遅れを責めて杖打った。季昌の娘は可福の子・知進の妻だった。季昌は娘に「舅に伝えよ。私は衆に威を示して事を成し遂げたいだけだ」と言い、白金数百両を贈った。

後唐同光元年〜三年(923-925年・入朝と脱出)

  • 元年、荊南節度使の高季昌は帝が梁を滅ぼしたと聞き、唐の廟諱を避けて名を季興と改め、自ら入朝しようとした。梁震は「唐には天下を呑む志があります。兵を厳しくして険を守ってさえ身を保てるか分からぬのに、まして数千里を入朝されるのですか。しかも公は朱氏の旧将です。彼が仇敵として遇さぬとどうして分かりましょう」と言ったが、季興は従わなかった。
  • 十一月己未、高季興に守中書令を加えた。当時、季興は入朝しており、帝はきわめて厚遇した。
  • 高季興が洛陽にいる間、帝の側近の伶官が飽くことなく財貨を求め、季興は憤った。帝は季興を留め置こうとしたが、郭崇韜が諫めた。「陛下は天下を得たばかりで、諸侯は子弟や将佐を入貢させるだけです。ただ高季興のみが自ら入朝しました。褒め賞して後に続く者を勧めるべきです。それを引き留めて帰さぬのは信を棄て義を欠き、四海の心を沮むもの。策ではありません」。そこで帰らせた。
  • 季興は道を急いで去り、許州に至って左右に「この行きには二つの失策があった。来朝したのが一つの失策、私を帰したのが向こうの一つの失策だ」と言った。襄州を通ったとき、節度使の孔勍が宴に留めたが、夜半に関門を破って去った。十二月丁酉、江陵に着き、梁震の手を握って「君の言を用いなかったので、危うく虎口を免れぬところだった」と言った。
  • 二年春三月丙午、高季興に尚書令を兼ねさせ、南平王に進封した。
  • 三年冬十月、高季興は常に三峡を取ろうとしていたが、蜀の峡路招討使・張武の威名を恐れて進めずにいた。ここに至って唐の兵の勢いに乗じ、子で行軍司馬の従誨に軍府の事を代行させ、自ら水軍を率いて峡を遡って施州を取ろうとした。張武が鉄の鎖で江路を断つと、季興は勇士を舟に乗せて斬らせようとしたが、折しも大風が起こって舟は鎖に絡まって進退できず、矢石が降り注いで戦艦を壊した。季興は軽舟で逃げ去った。まもなく北路の陥落を聞き、夔・忠・万の三州を得たので、使者を魏王のもとへ送って降った。

明宗天成元年〜四年(926-929年・叛服)

  • 元年夏四月、梁震が前陵州判官の孫光憲(貴平の人)を季興に推し、掌書記とした。季興が戦艦を大々的に整えて楚を攻めようとすると、光憲は「荊南は乱離ののち、公の休息のおかげで士民にようやく生きる意欲が出てきました。もしまた楚国と敵対すれば、他国が我らの疲弊に乗じましょう。まことに憂うべきです」と諫め、季興は取りやめた。
  • 六月、高季興は夔・忠・万の三州を属郡とすることを上表して求め、詔で許された。
  • 二年春二月、高季興は三州を得ると、朝廷が刺史を任命せず自分の子弟を充てさせるよう請うたが許されなかった。夔州刺史の潘炕が罷任すると、季興はただちに兵を送って州城に突入させ戍兵を殺して占拠した。朝廷が奉聖指揮使の西方鄴を刺史としても受け入れず、さらに兵を送って涪州を襲ったが落とせなかった。
  • 魏王・李継岌が押牙の韓珙らに蜀の珍貨・金帛四十万を長江で下らせたところ、季興は珙らを峡口で殺してすべて奪い取った。朝廷が詰問すると、「珙らは舟で峡を下り数千里を渡ったのです。転覆の理由を知りたければ水神に問い質されるがよろしい」と答えた。
  • 帝は怒り、壬寅、制で季興の官爵を削奪し、山南東道節度使の劉訓を南面招討使・知荊南行府事、忠武節度使の夏魯奇を副招討使として歩騎四万で討たせ、東川節度使の董璋を東南面招討使、新夔州刺史の西方鄴をその副として蜀の兵を率いて峡を下らせ、あわせて湖南の軍とも合わせて三方から進攻させた。
  • 三月、劉訓の兵が荊南に至り、楚王殷は都指揮使の許徳勲らに水軍を率いさせて岳州に屯させた。高季興は壁を固めて戦わず、呉に救援を求め、呉の人が水軍を送って援けた。
  • 江陵は低湿で、しかも長雨に当たり、糧道が続かず、将士に疫病が広がり、劉訓も病臥した。四月癸卯、帝は樞密使の孔循を送って視察させ、あわせて攻戦の可否を判断させた。
  • 五月、孔循が江陵に至って攻めたが落とせず、人を城に入れて高季興を説かせたが、季興の言は不遜だった。丙寅、使者を送って湖南行営に夏衣一万着を賜り、丁卯、また使者を送って楚王殷に鞍馬と玉帯を賜り、行営への糧の輸送を督したが、ついに得られなかった。庚午、詔で劉訓らに兵を引かせた。
  • 楚王殷が中軍使の史光憲を入貢させ、帝は駿馬十頭と美女二人を賜った。江陵を通ったとき、高季興は光憲を捕えてこれを奪い、あわせて鎮を挙げて呉に付きたいと請うた。徐温は「国を治める者は実効に務めて虚名を去るべきです。高氏は唐に仕えて久しく、洛陽は江陵から遠くありません。唐の歩騎が襲うのはきわめて容易で、我らが水軍で流れを遡って救うのはきわめて難しい。人を臣としながら救えず、危亡に至らせては、恥ずかしくないでしょうか」と言い、その貢物は受けたが称臣は辞退し、唐に付くに任せた。
  • 六月、西方鄴が峡中で荊南の水軍を破り、夔・忠・万の三州を奪回した。秋七月丙寅、夔州を寧江軍に昇格させ、西方鄴を節度使とした。癸酉、夔・忠・万の三州を高季興に与えたことを豆盧革と韋説の罪として、いずれも死を賜った。
  • 三年春三月、楚王殷が岳州へ行き、六軍使の袁詮、副使の王環、監軍の馬希贍に水軍を率いさせて荊南を撃たせた。高季興が水軍で迎え撃ち、劉郎洑に至った。希瞻は夜に戦艦数十艘を港に隠し、翌朝、両軍が交戦すると戦艦を出して横から撃った。季興は大敗して千を数える者を捕殺され、楚軍は江陵に迫った。季興は和を請い、史光憲を楚に返し、楚軍は帰った。
  • 楚王殷が王環に、なぜ荊南を取らなかったのかと責めると、環は「江陵は中朝と呉・蜀の間にあり、四方から攻められる地です。存続させてわが防壁とすべきです」と答え、殷は喜んだ。
  • 夏六月辛巳、高季興があらためて呉に藩を称することを請い、呉は季興の爵を秦王に進めた。帝は詔で楚王殷に討たせ、殷は許徳勲に兵を率いさせて荊南を攻めさせ、子の希範を監軍として沙頭に陣した。
  • 季興の甥で雲猛指揮使の従嗣が単騎で楚の塁へ来て、希範との一騎討ちを請うた。副指揮使の廖匡斉が出て戦い、引き倒して殺した。季興は恐れ、翌日和を請い、徳勲は帰った。匡斉は贛の人である。
  • 秋九月辛巳、荊南が白田で楚の兵を破り、楚の岳州刺史・李廷規を捕えて呉へ送った。己亥、武寧節度使の房知温に荊南行営招討使を兼ねさせ荊南行府事を掌らせ、中使を分けて諸道の兵を襄陽へ送って高季興を討たせた。
  • 冬十二月、荊南節度使の高季興が病臥し、子で行軍司馬・忠義節度使・同平章事の従誨に軍府の事を代行させた。丙辰、季興が没し、呉主は従誨を荊南節度使兼侍中とした。
  • 四年夏四月丙午、楚の六軍副使・王環が石首で荊南の兵を破った。
  • 高季興が叛いたとき、子の従誨は切に諫めたが聞かれなかった。従誨は位を襲ぐと僚佐に「唐は近く呉は遠い。近きを捨てて遠きに臣事するのは策ではない」と言い、楚主・馬殷を通じて唐に謝罪し、また山南東道節度使の安元信に書を送って、上奏して取りなし、あらためて職貢を修めさせてほしいと求めた。丙申、元信が従誨の書を奏し、帝は許した。
  • 六月庚申、高従誨は前荊南行軍司馬・帰州刺史を自称して上表し内附を求めた。秋七月甲申、従誨を荊南節度使兼侍中とし、己丑、荊南招討使を罷めた。
  • 長興元年春三月、高従誨は使者を送って表を奉じて呉に告げ、「墳墓が中国にあり、唐に討たれることを恐れます。呉の兵は救援が間に合いません」として絶交した。呉は兵を送って撃ったが落とせなかった。
  • 三年春二月、高従誨に渤海王の爵を賜った。
  • 潞王清泰元年春正月壬辰、荊南節度使の高従誨を南平王とした。

清泰二年(935年・高從誨の善政)

  • 荊南節度使の高従誨は明晰で遠慮があり、賢士を親しく礼遇し、梁震に委任して兄として仕えた。震は常に従誨を「郎君」と呼んだ。
  • 楚王・馬希範は奢侈を好み、遊説の徒がこぞってその盛大さを讃えた。従誨が僚佐に「馬王こそ大丈夫と言えよう」と言うと、孫光憲は「天子と諸侯には礼に等差があります。あの乳臭い小僧が驕り奢って僭越に振る舞い、一時の快を取って遠慮せぬのは、危亡が目前ということ。慕うに足りましょうか」と答えた。
  • 従誨は長く考えて悟り、「公の言は正しい」と言った。後日、梁震に「私は自分の平生の奉養が度を過ぎていたとつくづく思う」と言い、玩好の品を捨て、経史を楽しみ、刑を省き賦を薄くしたので、領内は安んじた。
  • 梁震は「先王は私を布衣の交わりとして遇し、嗣王を私に託されました。今、嗣王は自立してその業を落とさずにおられる。私は年老いました。もう人に仕えることはできません」と言い、固く退隠を請うた。従誨は留められず、土洲に居を築いてやった。震は鶴氅を着て「荊臺隠士」と自称し、府へ来るときは黄牛に跨って庁まで乗り入れた。従誨は時おりその家を訪れ、四季の賜与はきわめて厚かった。以後、政事はすべて孫光憲に委ねた。

史論(臣光曰)

  • 司馬光は評する。孫光憲は微かな兆しを見て諫めることができ、高従誨は善言を聞いて改めることができ、梁震は功を成して退くことができた。古来、国家を有つ者がこのようであれば、どうして国を亡ぼし家を敗り身を喪うことがあろうか。

後晉天福六年〜後漢乾祐二年(941-949年・「高無頼」)

  • 天福六年、山南東道節度使の安従進が謀反して荊南に援けを求めた。高従誨は従進に書を送って禍福を諭したが、従進は怒ってかえって従誨を誣告する奏を上げた。荊南行軍司馬の王保義は、その状を詳しく奏上したうえで出兵して朝廷の討伐を助けることを勧め、従誨は従った。
  • 後漢高祖天福十二年春正月、荊南節度使の高従誨が使者を送って契丹に入貢し、契丹は使者を送って馬を賜った。従誨はまた使者を河東へ送って即位を勧めた。
  • 夏六月、帝が使者を送って荊南に告諭すると、高従誨は上表して賀し、あわせて郢州を求めたが、帝は許さなかった。加恩の使者が至ると拒んで受けなかった。
  • 秋九月、高従誨は杜重威の叛を聞いて水軍数千を発して襄州を襲ったが、山南東道節度使の安審琦が撃退した。また郢州を侵したが刺史の尹実が大破した。そこで漢と絶って唐と蜀に付いた。
  • はじめ荊南は湖南・嶺南・福建の間に挟まれ、地は狭く兵は弱かった。武信王・季興のころから、諸道が入貢してその境を通ると、その貨幣を掠奪することが多く、諸道が書を送って詰問したり兵を加えたりすると、やむなく返したが、まったく恥じなかった。
  • 従誨が立つと、唐・晋・契丹・漢が次々に中原を占め、南漢・閩・呉・蜀はいずれも帝を称した。従誨はその賜与の利を狙って向かう先ごとに臣を称したので、諸国は賤しんで「高無頼」と呼んだ。
  • 乾祐元年夏六月、高従誨は漢と絶交して以来、北方の商旅が来なくなり領内は貧しくなったので、使者を送って上表して謝罪し、職貢を修めたいと乞うた。詔で使者を送って慰撫した。
  • 冬十一月、荊南節度使兼中書令・南平文献王の高従誨が病臥し、子で節度副使の高保融に内外兵馬の事を判じさせた。癸卯、従誨が没し、保融が留後を掌った。十二月丁丑、高保融を荊南節度使・同平章事とした。
  • 隠帝乾祐二年冬十月丙戌、荊南節度使の高保融に侍中を兼ねさせた。