通鑑紀事本末劉氏、広州に拠る(劉氏據廣州)
封州刺史の子・劉隠が広州の乱を鎮めて清海節度使となり、弟の劉巌(龑)が番禺で帝位に即いて南漢を建ててからの歴史。高祖龑は奢侈と惨酷な刑罰で知られ、その死後は殤帝玢が弟の弘熙に弑され、中宗(晟)は兄弟をことごとく殺して宦官と女侍中に政を委ねた。後主鋹の代には宦者が二万人近くに達し、士人を「門外の人」として政から遠ざけ、これによって国を亡ぼす。894年から959年まで。
年表(7件)
- 昭宗
- 乾寧元年〜天復二年(894-・劉隱の台頭)902年劉隠が盧琚・譚弘玘を斬って広州を平定し、清海留後となる
- 天祐元年〜後梁乾化元年(904-・清海節度使から南平王へ)911年朱全忠に結んで清海節度使・南平王となり、没して弟の巌が継ぐ
- 均王
- 乾化三年〜貞明六年(913-・大越から大漢へ)920年劉巌が番禺で即位して大越を号し、翌々年に国号を漢と改める
- 後唐同光三年〜長興三年(925-)932年蘇章が賀江で楚軍を破り、交州を攻めるが楊廷芸に失う
- 潞王
- 清泰元年〜後晉天福七年(934-・高祖の死)942年高祖龑が没して秦王弘度(玢)が即位する
- 齊王
- 天福八年〜後漢乾祐三年(943-・弑逆と粛清)950年弘熙が玢を弑して中宗となり、弟たちをことごとく殺す
- 後周廣順元年〜顯德六年(951-・南漢の末路)959年中宗の没後に鋹が立ち、鍾允章を誅して宦官の専権が極まる
昭宗乾寧元年〜天復二年(894-902年・劉隱の台頭)
- 乾寧元年冬十二月、封州刺史の劉謙が没した。子の隠が賀江で喪に服していると、土地の民百余人が乱を謀ったが、隠は一夜のうちに皆誅した。嶺南節度使の劉崇亀は召して右都押牙兼賀水鎮使に補し、まもなく上表して封州刺史とした。
- 二年秋七月、薛王・李知柔を清海軍節度使とした。
- 三年冬十二月、清海節度使の薛王知柔が湖南まで来たとき、広州の牙将・盧琚と譚弘玘が境を押さえて防ぎ、弘玘に端州を守らせた。弘玘は封州刺史の劉隠と結び、娘を嫁がせると約した。隠は偽って承知し、婚礼に行くと称して舟に甲士を伏せ、夜に端州へ入って弘玘を斬り、そのまま広州を襲って琚を斬り、軍容を整えて知柔を迎え入れて政務に就かせた。知柔は上表して隠を行軍司馬とした。
- 光化元年冬十二月、韶州刺史の曽袞が兵を挙げて広州を攻め、州将の王瓌が戦艦を率いて応じた。清海行軍司馬の劉隠は一戦でこれを破った。韶州の将・劉潼がさらに湞水・浛水に拠ったが、隠は討って斬った。
- 五年秋九月、太保・門下侍郎の徐彦若を清海軍節度使として薛王知柔に代えた。
- 天復元年冬十二月、清海節度使の徐彦若が没し、遺表で行軍司馬の劉隠を留後代行に推した。
- 二年、虔州刺史の盧光稠が嶺南を攻めて韶州を陥れ、子の延昌に守らせ、進んで潮州を囲んだ。清海留後の劉隠は兵を出して撃退し、勝ちに乗じて韶州へ進攻した。隠の弟・陟が「延昌には虔州の後ろ盾がある。奪い取るのは無理です」と言ったが、隠は従わず韶州を囲んだ。
- 折しも川が増水して輸送が続かず、光稠が虔州から兵を率いて救援に来た。その将・譚全播が精兵一万を山谷に伏せ、弱兵で挑発して城南で隠を大破した。隠は逃げ帰った。全播は功をすべて諸将に譲り、光稠はいよいよ賢しと思った。
天祐元年〜後梁乾化元年(904-911年・清海節度使から南平王へ)
- はじめ清海節度使の徐彦若が遺表で副使の劉隠を留後代行に推したが、朝廷は兵部尚書の崔遠を清海節度使とした。遠は江陵まで来て嶺南に盗賊が多いと聞き、しかも隠が交代を受け入れぬことを恐れて進めなかった。朝廷は遠を召し返し、隠は使者を送って厚い賄賂で朱全忠と結び、全忠が奏して隠を清海節度使とした。
- 昭宣帝天祐二年春三月、清海節度使の劉隠に同平章事を加えた。
- 後梁太祖開平元年夏五月己卯、劉隠に侍中を兼ねさせ、大彭王とした。
- 二年冬十月辛酉、劉隠を清海・静海節度使とし、膳部郎中の趙光裔と右補闕の李殷衡を官告使に充てたが、隠は二人とも留めた。光裔は趙光逢の弟、殷衡は李徳裕の孫である。
- 三年夏四月庚子、劉隠を南平王とした。
- 乾化元年春三月、清海・静海節度使兼中書令・南平襄王の劉隠が危篤となり、弟で節度副使の巌を留後代行とするよう上表した。丁亥、没し、巌が位を襲いだ。
- 夏四月甲辰、清海留後の劉巌を節度使とした。巌は中国の士人を多く招いて幕府に置き、外に出して刺史とし、武人の刺史は一人もいなかった。
- 冬十二月癸亥、静江行軍司馬の姚彦章を寧遠節度副使・権知容州とした。楚王・馬殷の請いによる。劉巌が兵を送って容州を攻めると、殷は都指揮使の許徳勲に桂州の兵で救わせた。彦章は守りきれず、容州の士民と府庫を連れて長沙へ逃げ、巌は容管と高州を取った。
均王乾化三年〜貞明六年(913-920年・大越から大漢へ)
- 乾化三年冬十月、嶺南節度使の劉巌が楚に婚を求め、楚王は娘を嫁がせると約した。
- 貞明元年秋八月、劉巌が楚から婦を迎え、楚王殷は永順節度使の存に送らせた。
- この年、清海・建武節度使兼中書令の劉巌は、呉越主の銭鏐が国王とされたのに自分だけが南平王であることから、上表して南越王への封と都統の加官を求めたが、帝は許さなかった。巌は僚属に「今、中国は紛乱している。誰が天子か。どうして万里を梯や船で越えて遠く偽朝に仕えられようか」と言い、以後、貢使は絶えた。
- 三年秋八月癸巳、清海・建武節度使の劉巌が番禺で皇帝に即位し、国号を大越、大赦して乾亨と改元した。梁の使者・趙光裔を兵部尚書・節度副使、楊洞潜を兵部侍郎・節度判官、李殷衡を礼部侍郎とし、いずれも同平章事とした。三廟を建て、祖父の安仁を太祖文皇帝、父の謙を代祖聖武皇帝、兄の隠を烈宗襄皇帝と追尊し、広州を興王府とした。
- 冬十月、越主巌は客省使の劉瑭を呉へ送って即位を告げ、あわせて呉王に称帝を勧めた。
- 四年冬十一月、越主巌が南郊を祀り、大赦して国号を漢と改めた。
- 五年春正月、漢主巌は越国夫人の馬氏を皇后に立てた。馬殷の娘である。秋九月丙寅、詔で劉巌の官爵を削り、呉越王鏐に討たせようとしたが、鏐は命を受けながらついに実行しなかった。
- 六年冬十二月、漢主巌が使者を送って蜀と好誼を通じた。
後唐同光三年〜長興三年(925-932年)
- 同光三年、漢主は帝が梁を滅ぼしたと聞いて恐れ、宮苑使の何詞を入貢させ、あわせて中国の強弱を探らせた。二月甲申、詞は魏に至った。帰って「帝は驕淫で政がなく、恐れるに足りません」と言い、漢主は大喜びし、以後、中国と通じなくなった。
- 冬十二月、漢の宮に白龍が現れ、漢主は白龍と改元し、名を龔と改めた。
- 明宗天成三年春三月、楚が大挙して水軍で漢を撃ち封州を囲んだ。漢主は『周易』で筮って大有を得、大赦して大有と改元し、左右街使の蘇章に神弩三千と戦艦百艘を率いさせて封州を救わせた。
- 章は賀江に至って鉄の綱を水中に沈め、両岸に巨大な輪を作って綱を巻けるようにし、長い堤を築いて隠し、堤の中に壮士を伏せた。章は軽舟で迎え撃って偽って敗れ、楚の人が追って堤の中に入ったところで輪を巻いて綱を引き上げると、楚の艦は進退できなくなった。強弩で水を挟んで射かけ、楚の兵は大敗して囲みを解いて逃げた。漢主は章を封州団練使とした。
- 長興元年秋九月、漢主は将の梁克貞と李守鄘に交州を攻めさせて落とし、静海節度使の曲承美を捕えて帰り、将の李進に交州を守らせた。
- 二年、愛州の将・楊廷芸が養子三千人を養って交州回復を図った。漢の交州守将・李進はこれを知りながら賄賂を受けて報告しなかった。この年、廷芸が兵を挙げて交州を囲み、漢主は承旨の程宝に兵を率いさせて救わせたが、着く前に城は陥ち、進は逃げ帰って漢主に殺された。宝が交州を囲み、廷芸が出戦して宝は敗死した。
- 三年、漢主は子の耀枢を雍王、亀図を康王、弘度を賓王、弘熙を晋王、弘昌を越王、弘弼を斉王、弘雅を韶王、弘沢を鎮王、弘操を万王、弘杲を循王、弘暐を思王、弘邈を高王、弘簡を同王、弘建を益王、弘済を辨王、弘道を貴王、弘照を宜王、弘政を通王、弘益を定王に立てた。まもなく弘度を秦王に移した。
潞王清泰元年〜後晉天福七年(934-942年・高祖の死)
- 清泰元年、漢主は判六軍の秦王・弘度に宿衛兵千人を募らせたが、いずれも市井の無頼の子弟で、弘度は彼らに馴れ親しんだ。同平章事の楊洞潜が「秦王は国の嫡嗣です。端正な士に親しませるべきで、軍を治めさせるだけでも行き過ぎなのに、まして小人どもに馴れさせるとは」と諫めた。漢主は「小児に軍事を教えているまで。公の心配は行き過ぎだ」と言い、ついに弘度を戒めなかった。洞潜は退出して衛士が商人の金帛を掠め、商人が訴えることもできぬのを見て、「政がこれほど乱れているのに、宰相など何の役に立つのか」と嘆じ、病と称して邸に帰った。長く召されぬまま没した。
- 後晋高祖天福二年春三月、漢主は病が癒えたとして大赦した。
- 四年、漢の門下侍郎・同平章事の趙光裔が漢主に「馬后の崩後、楚に使者を通じておりません。親しい隣国との旧好を忘れてはなりません」と言い、諫議大夫の李紓が使命に適うと推した。漢主は従い、楚も使者を送って答礼した。光裔は漢の宰相となって二十余年、府庫は充実し辺境に憂いはなかった。没すると、漢主はその子で翰林学士承旨・尚書左丞の損を門下侍郎・同平章事とした。
- 五年、漢の門下侍郎・同平章事の趙損が没し、寧遠節度使の王定保(南昌の人)を中書侍郎・同平章事としたが、一年たたぬうちにこれも没した。
- 六年冬十二月、漢主が病臥した。ある胡僧が「漢主の名の龔は不吉です」と言い、漢主は自ら「龑」の字を作って名とした。「飛竜天に在り」の意を取り、読みは「儼」と同じである。
- 七年春三月、漢の高祖が病臥した。子の秦王・弘度と晋王・弘熙はいずれも驕恣で、末子の越王・弘昌は孝謹で智識があった。高祖は右僕射兼西御院使の王翷と謀り、弘度を邕州、弘熙を容州に鎮させて弘昌を立てようとした。制命が出ようとしたとき、崇文使の蕭益が見舞いに来てこの件を諮られ、「嫡を立てるには長をもってします。これに背けば必ず乱れます」と言い、取りやめた。
- 丁丑、高祖が没した。高祖は弁が立ち察しがよく権謀に富み、自らを誇るのを好み、常に中国の天子を「洛州刺史」と呼んだ。嶺南は珍奇な品の集まる地で、奢侈と華麗を極め、宮殿はすべて金玉と珠翠で飾った。刑罰は惨酷で、鼻に灌ぎ、舌を割き、四肢を裂き、腹を抉り、炙り、烹て、蒸す法があった。また毒蛇を水に集めて罪人を投げ込み「水獄」と呼んだ。同平章事の楊洞潜が諫めても聞かなかった。
- 晩年はとりわけ猜疑深く、士人はみな子孫のために計るものだとして、もっぱら宦者を任じた。これにより国中で宦者が大いに盛んになった。
- 秦王・弘度が皇帝に即位して名を玢と改め、弘熙に輔政させ、光天と改元し、母の趙昭儀を皇太妃と尊んだ。
- 秋八月、漢は天皇大帝を康陵に葬り、廟号を高祖とした。
齊王天福八年〜後漢乾祐三年(943-950年・弑逆と粛清)
- 天福八年、漢の殤帝(玢)は驕奢で政事を親らせず、高祖の遺骸がまだ殯にあるうちから楽を奏して痛飲し、夜には娼婦とお忍びで出歩き、男女を裸にして眺めた。左右が意に逆らえばすぐ殺され、諫める者はなかった。ただ越王・弘昌と内常侍の呉懐恩(番禺の人)だけがたびたび諫めたが聞かなかった。
- 常に諸弟を猜疑し、宴のたび宦者に門を守らせ、群臣も宗室も皆裸で身体検査を受けてから入らせた。晋王・弘熙は玢を図ろうとし、声伎を盛んに飾ってその意を楽しませ、悪を助長させた。
- 漢主は手搏(素手の格闘)を好んだ。弘熙は指揮使の陳道庠に力士の劉思潮・譚令禋・林少彊・林少良・何昌廷ら五人を引き入れさせ、晋王府で手搏を習わせた。漢主はこれを聞いて喜んだ。
- 丙戌、諸王と長春宮で宴を開いて手搏を観、夕方に宴が終わったとき漢主はひどく酔っていた。弘熙は道庠と思潮らに漢主を抱えさせ、そのまま押さえつけて殺し、左右も皆殺した。
- 翌朝、百官も諸王もあえて入宮しなかったが、越王・弘昌が諸弟を率いて寝殿で哭し、弘熙を迎えて皇帝に即位させた。名を晟と改め、応乾と改元し、弘昌を太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥・知政事、循王・弘杲を副元帥・参預政事とした。陳道庠と劉思潮らはいずれも厚く賞賜を受けた。
- 漢の中宗が立つと国中の議論は騒然とした。循王・弘杲が劉思潮らを斬って内外に謝すことを請うたが、漢主は従わなかった。思潮らはこれを聞いて弘杲が謀反していると讒言し、漢主は思潮らに窺わせた。弘杲がちょうど客と宴を開いていたところへ、思潮と譚令禋が衛兵を率いて突入し、弘杲を斬った。
- ここで漢主は諸弟を皆殺しにすることを謀り、越王・弘昌が賢明で衆心を得ていることをとりわけ忌んだ。雄武節度使の斉王・弘弼は大鎮にいることから禍を恐れて入朝を求め、許された。
- 冬十月、漢王は韶王・弘雅に致仕を命じた。十一月丁亥、漢主が南郊を祀り、大赦して乾和と改元した。
- 開運元年春三月、漢主は中書令・都元帥の越王弘昌に海曲の烈宗陵への参拝を命じ、昌華宮に至ったところで盗賊に殺させた。
- 漢は戸部侍郎の陳偓を同平章事とした。夏六月乙巳、漢主は斉王・弘弼を私邸に幽閉した。冬十月丙午、漢主は鎮王・弘沢を邕州で毒殺した。
- 二年秋八月、漢主は韶王・弘雅を殺した。九月、漢主は劉思潮・林少彊・林少良・何昌延を殺した。左僕射の王翷はかつて高祖と弘昌擁立を謀ったとして英州刺史に出され、着任前に死を賜った。内外は皆恐れて身を保てなかった。
- 三年、漢の劉思潮らが死ぬと陳道庠は内心不安になった。秋九月、特進の鄧伸が道庠に『漢紀』を贈った。道庠が理由を問うと、伸は「憨獠め、この書には韓信を誅し彭越を醢にした事がある。よく読まれよ」と言った。漢主はこれを聞いて道庠と伸を族滅した。
- 後漢高祖天福十二年、南漢主は諸弟が自分の子と国を争うことを恐れ、斉王・弘弼、貴王・弘道、定王・弘益、辨王・弘済、同王・弘簡、益王・弘建、恩王・弘暐、宜王・弘照を殺し、その男子をことごとく殺して女子は後宮に納れた。離宮千余間を作って珠宝で飾り、鑊湯・鉄牀・刳剔などの刑を設けて「生地獄」と号した。あるとき酔って戯れに瓜を楽工の首に置いて剣を試し、そのまま首を斬り落とした。
- 乾祐元年秋八月、南漢主は知制誥の鍾允章(宣化の人)を送って楚に婚を求めたが、楚王・馬希広は許さなかった。南漢主は怒って允章に「馬公はまだ南の地を経略できるか」と問うた。允章は「馬氏の兄弟はちょうど争っていて滅びるのを避ける暇もありません。どうして我らを害せましょう」と答えた。南漢主は「そのとおりだ。希広は臆病で吝嗇、その士卒は戦を忘れて久しい。これこそ我らの進取の秋だ」と言った。
- 冬十二月辛巳、南漢主は内常侍の呉懐恩を開府儀同三司・西北面招討使として兵を率いて楚を撃たせ、賀州を攻めさせた。楚王・希広は決勝指揮使の徐知新らに五千を率いさせて救わせたが、着く前に南漢は賀州を落とした。城外に大きな落とし穴を掘って竹の簀で覆い土をかぶせ、下に仕掛けを施し、塹から穴へ通じる坑道を作っておいた。
- 知新らが着いて兵を率いて城を攻めると、南漢は人をやって坑道から仕掛けを外させ、楚の兵はことごとく落ちた。南漢が兵を出して撃ち、楚の兵は千を数える者が死んだ。知新らは逃げ帰り、希広は斬った。南漢の兵はさらに昭州を陥れた。
- 隠帝乾祐三年、南漢主は宮人の盧瓊仙と黄瓊芝を女侍中とし、朝服と冠帯を着けて政事に参与させ決裁させた。宗室と勲功ある旧臣はほぼ誅し尽くされ、ただ宦官の林延遇らが実権を握った。
後周廣順元年〜顯德六年(951-959年・南漢の末路)
- 太祖広順元年冬十二月、南漢主は内侍省丞の潘崇徹と将軍の謝貫に兵を率いさせて郴州を攻めさせた。唐の辺鎬が兵を出して救ったが、崇徹は義章で唐の兵を破り、そのまま郴州を取った。
- 三年秋九月、南漢主は子の継興を衛王、璇興を桂王、慶興を荊王、保興を禎王、崇興を梅王に立て、南漢は大赦した。
- 顕徳元年夏四月、南漢主は高王・弘邈を雄武節度使として邕州に鎮させた。弘邈は斉王・鎮王が相次いで邕州で死んだことから固辞して宿衛を求めたが許されなかった。任地に着くと政を僚佐に委ね、日々酒を飲んで鬼神に祈った。ある者が弘邈が乱を謀っていると誣告し、戊午、南漢主は甘泉宮使の林延遇を送って毒殺した。
- 世宗顕徳二年夏六月戊午、南漢主は禎州節度使の通王・弘政を殺した。これで高祖の諸子は尽きた。
- 三年春三月、南漢の甘泉宮使・林延遇は陰険で計略が多く、南漢主は信頼していた。諸弟の誅滅はいずれも延遇の謀による。乙未、延遇が没すると国人は互いに祝った。延遇は重病のとき、内給事の龔澄枢を自分の代わりに推し、南漢主はその日のうちに澄枢を知承宣院・内侍省に抜擢した。澄枢は番禺の人である。
- 四年、南漢主は唐がたびたび敗れたと聞いて憂色を面に表し、使者を送って周に入貢しようとしたが湖南に阻まれた。そこで戦艦を整え武備を修めたが、まもなく酒に浸って「私の身が助かれば幸いだ。どうして後世を慮る暇があろう」と言った。
- 五年秋八月辛巳、南漢の中宗が没し、長子の衛王・継興が帝位に即いて名を鋹と改め、大宝と改元した。鋹は十六歳で、国事はすべて宦官の玉清宮使・龔澄枢および女侍中の盧瓊仙らが決し、台省の官は位を備えるだけだった。
- 冬十一月、南漢は文武光明孝皇帝を昭陵に葬り、廟号を中宗とした。
- 六年冬十月、南漢主は中書舎人の鍾允章が藩府以来の旧僚であることから尚書右丞・参政事に抜擢し、深く任せた。允章は法を乱す者数人を誅して綱紀を正すことを請うたが、南漢主は従えず、宦官はこれを聞いて憎んだ。
- 南漢主が圜丘を祀ろうとした三日前、允章が礼官を率いて壇に登り、四方を見回して神位の設置を指図した。内侍監の許彦真は遠望して「これは謀反だ」と言い、剣を帯びて壇に登った。允章が叱ると、彦真は宮へ駆け込み、允章が郊祀の日に乱を起こそうとしていると告げた。南漢主は「朕は允章を厚遇している。そのようなことがあろうか」と言ったが、玉清宮使の龔澄枢と内侍監の李托らがこぞって証言し、彦真の言を正しいとしたので、允章を捕えて含章楼の下に繋ぎ、宦者と礼部尚書の薛用丕に共同で取り調べさせた。
- 用丕はかねて允章と親しく、免れられまいと告げた。允章は用丕の手を取って泣き、「老夫は今日、俎上の肉も同じ。仇人に烹られるのが定めでしょう。ただ、邕と昌が幼くて私の冤を知らぬのが心残りです。大きくなったら公から伝えてください」と言った。彦真はこれを聞いて「反賊め、その子に仇を報じさせるつもりか」と罵り、あらためて南漢主に「允章が二子とともに壇に登って密かに祈っておりました」と申し上げ、三人とも斬られた。以後、宦官はいよいよ横暴になった。托は封州の人である。
- 辛亥、南漢主が圜丘を祀り大赦した。まもなく龔澄枢を左龍虎観軍容使・内太師とし、軍国の事はすべてこれに決を仰いだ。
- そもそも群臣で才能ある者や進士の首席、あるいは僧道で語り合える者は、皆まず蚕室(宮刑の場)に下してから進ませた。自ら去勢して仕官を求める者もあり、死罪を免れて官を得た者もいた。こうして宦者は二万人近くに達し、貴顕で実権を握る者はおおむね皆宦者だった。士人を「門外の人」と呼んで政に与らせず、ついにこれによって国を亡ぼした。