通鑑紀事本末王氏、閩中に拠る(王氏據閩中)
王潮・王審知の兄弟が王緒の軍を奪って福建を平定し、閩国を建ててから滅びるまでの67年間。審知の治世は安定したが、子の延翰・延鈞・昶(継鵬)・曦と続く代は神仙の術と聚斂と骨肉相殺に明け暮れ、弟の延政が建州で大殷を称して内戦となる。朱文進・連重遇が曦を弑して王氏を屠り、留従効・林仁翰らが王氏を復興させたのも束の間、南唐が建州を落として閩は滅亡。福州は李弘義(孺贇)が拠って唐・呉越の間を揺れ動き、947年に呉越の手に帰した。
年表(12件)
- 僖宗
- 中和元年〜四年(881-・王緒の入閩と陳巖)884年王緒が光州刺史となり、閩では陳巌が福建観察使となる
- 光啟元年(・王潮の擁立)885年王潮が猜疑深い王緒を捕えて将軍に推され、泉州を囲む
- 光啟二年〜景福二年(886-・福建の平定)893年泉州・福州を落とし、王潮が福建観察使から威武節度使となる
- 乾寧四年〜後梁開平三年(897-・王審知の代)909年王潮の没後に審知が継ぎ、閩王に封じられる
- 後唐同光三年〜天成元年(925-・王延翰の暴政)926年審知の死後、延翰が大閩国王を称すが延稟・延鈞に殺される
- 天成二年〜長興三年(927-・王延鈞の治世)932年延鈞が閩王となり延稟を斬り、陳守元ら方士を信じて宝皇宮を作る
- 長興四年〜後晉天福元年(933-・大閩の建国と康宗)936年延鈞が皇帝に即位して国号を大閩とするが、李倣に弑され継鵬が立つ
- 後晉天福元年〜六年(936-・康宗の末路)941年昶が官を売り土木を極め、連重遇の乱で殺され延羲(曦)が立つ
- 天福五年〜開運元年(940-・曦と延政の内戦)944年曦と建州の延政が兄弟で攻め合い、福建に屍が累々とする
- 齊王
- 天福八年〜開運元年(943-・大殷の建国と曦の弑逆)944年延政が建州で大殷を建て、朱文進・連重遇が曦を弑して王氏を滅ぼす
- 開運元年冬〜二年(944-・王氏の復興と唐の南侵)945年留従効・林仁翰が朱文進らを誅すが、南唐が建州を落として延政は降る
- 開運三年〜後漢天福十二年(946-・福州攻防)947年唐軍が福州で呉越に大敗し、李孺贇は殺されて福州は呉越に帰す
僖宗中和元年〜四年(881-884年・王緒の入閩と陳巖)
- 秋八月、寿州の屠殺業者・王緒は妹婿の劉行全と五百の衆を集めて本州に拠り、一月余りしてまた光州を陥れ、将軍を自称した。衆は一万余となり、蔡州節度使の秦宗権が上表して光州刺史とした。
- 固始県の佐である王潮とその弟の審邽・審知はいずれも才気で名を知られていた。緒は潮を軍正として物資と兵糧を掌らせ、士卒の閲兵に当たらせ、信任した。
- 四年、黄巣が福建を転々と掠めたとき、建州の人・陳巌が数千の衆を集めて郷里を守り、九龍軍と号した。福建観察使の鄭鎰は上表して団練副使とした。
- 泉州刺史の左廂都虞候・李連が罪を得て渓洞へ逃げ、衆を集めて福州を攻めたが、巌が撃破した。鎰は巌の圧迫を恐れ、上表して自分の後任に推した。壬寅、巌を福建観察使とした。巌の統治は威と恵があり、閩の人は安んじた。
光啟元年(885年・王潮の擁立)
- 春正月、秦宗権が光州刺史の王緒に租賦を課したが、緒は納められなかった。宗権は怒って兵を出して撃ち、緒は恐れて光州・寿州の兵五千を挙げ、吏民を駆り立てて江を渡り、劉行全を先鋒として江州・洪州・虔州を転々と掠めた。この月、汀州・漳州を陥れたが、いずれも守りきれなかった。
- 秋八月、緒は漳州に至り、道が険しく糧が乏しいことから、軍中に老弱を連れることを禁じ、犯す者は斬るとした。ただ王潮兄弟だけが母の董氏を扶けて険路を従軍した。緒は潮らを召して「軍にはすべて法がある。法なき軍などない。おまえたちがわが令に背いて誅されねば、法がないことになる」と責めた。三兄弟は「人には皆母がある。母なき人などおりません。将軍はどうして人にその母を棄てさせるのですか」と答えた。緒は怒ってその母を斬れと命じ、三兄弟は「潮らは母に仕えることを将軍に仕えるのと同じくしております。母を殺したうえで、その子を使えましょうか。母より先に死なせてください」と言った。将士も皆助命を請い、緒は赦した。
- 望気者が緒に「軍中に王者の気があります」と言った。そこで緒は将卒で勇略が自分に勝る者や体格の立派な者を皆殺した。劉行全も死んだ。衆は皆身を危ぶんで「行全は縁者であり軍鋒の第一だった。それでも免れぬなら、まして我らは」と言い合った。
- 南安まで来て、王潮は前鋒将に説いた。「我らは墳墓を離れ妻子を捨て、他郷に流浪して群盗となった。望んだことか。緒に脅されたからだ。今、緒は猜疑深く不仁で、みだりに無辜を殺し、軍中で目立つ者は誅され尽くそうとしている。あなたは眉目が神のようで騎射は絶倫、しかも前鋒だ。私は密かにあなたを危ぶんでいる」。
- 前鋒将は潮の手を取り、泣いて計を問うた。潮は策を授け、壮士数十人を竹藪に伏せさせ、緒が来るのを待って剣を抜いて大声を上げて躍り出、馬上のまま捕えて後ろ手に縛って軍中に引き回した。皆が万歳を叫んだ。
- 潮が前鋒将を主に推すと、前鋒将は「我らが今日、魚肉とならずに済んだのは皆、王君の力だ。天が王君を主とされたのに、誰が先んじられよう」と言い、四度も譲り合った末、ついに潮を将軍に奉じた。緒は「この男が私の網の中にいながら殺せなかった。天ではないか」と嘆じた。
- 潮は兵を率いて光州へ帰ろうとし、部下に道中で秋毫も犯さぬよう約束させた。沙県まで来たとき、泉州の人・張延魯らが刺史の廖彦若の貪暴を訴え、長老を率いて牛と酒を捧げ道を塞いで潮に留まって州将となるよう請うた。潮は兵を率いて泉州を囲んだ。
光啟二年〜景福二年(886-893年・福建の平定)
- 二年秋八月、王潮が泉州を落として廖彦若を殺した。潮は福建観察使・陳巌の威名を聞いて福州の境を犯そうとせず、使者を送って服属した。巌は上表して潮を泉州刺史とした。潮は沈勇で智略があり、泉州を得ると離散した民を招き懐け、賦を均しくし兵を整え、吏民は悦服した。王緒は別館に幽閉され、緒は恥じて自殺した。
- 昭宗大順二年、福建観察使の陳巌が病んで、使者に書を持たせて泉州刺史の王潮を召し、軍政を授けようとしたが、到着しないうちに巌は没した。巌の妻の弟である都将の范暉が将士に自分を留後に推させ、兵を出して潮を防いだ。
- 景福元年、范暉は驕り奢って衆心を失った。王潮は従弟の彦復を都統、弟の審知を都監として兵を率いて福州を攻めさせ、民は自ら米を輸して軍に供し、平湖洞および浜海の蛮夷も皆兵船で助けた。
- 二年、王彦復と王審知が福州を攻めたが長く落ちなかった。范暉は威勝節度使の董昌に救援を求め、昌は陳巌と姻戚だったので温州・台州・婺州の兵五千を送って救わせた。彦復と審知は城が堅く援兵も来るとして、士卒の死傷が多いことを潮に申し上げ、兵を収めてあらためて図ろうとしたが、潮は許さず、潮自ら行営に臨むよう請うた。潮は「兵が尽きれば兵を足し、将が尽きれば将を足す。兵も将も尽きたら私自ら行く」と答えた。彦復と審知は恐れて自ら矢石を冒して急攻した。
- 五月、城中の食が尽き、暉は守りきれぬと悟って夜に印を監軍に授けて城を棄てて逃げ、援兵も帰った。庚子、彦復らが入城し、辛丑、暉は逃げて沿海都に至って将士に殺された。
- 潮は福州に入って留後を自称し、素服で陳巌を葬り、娘をその子・延晦に嫁がせ、その家を厚く撫した。汀州・建州の二州も降り、嶺海の間の群盗二十余りも皆降り潰えた。
- 冬十月戊戌、泉州刺史の王潮を福建観察使とした。
- 乾寧三年秋九月庚辰、福州を威武軍に昇格させ、観察使の王潮を節度使とした。
乾寧四年〜後梁開平三年(897-909年・王審知の代)
- 四年冬十一月、威武節度使の王潮の弟・審知は観察副使だったが、過ちがあると潮はなお笞打った。審知は怨む色がなかった。
- 潮は病臥すると、自分の子である延興・延虹・延豊・延休を措いて、審知に軍府の事を掌らせた。十二月丁未、潮が没し、審知は兄で泉州刺史の審邽に譲ったが、審邽は審知に功があるとして辞退した。審知は福建留後を自称して朝廷に上表した。
- 光化元年春三月己丑、王審知を威武留後とした。冬十月癸卯、威武留後の王審知を節度使とした。
- 三年春二月壬申、威武節度使の王審知に同平章事を加えた。
- 後梁太祖開平元年夏五月己卯、王審知に侍中を兼ねさせた。三年夏四月庚子、王審知を閩王とした。
- 均王貞明六年、はじめ閩王審知は制を承けて甥で泉州刺史の延彬に平盧節度使を領させた。延彬は泉州を治めること十七年、吏民は安んじた。折しも白鹿と紫芝を得たとき、僧の浩源が王者の符瑞だと言い、延彬はこれで驕縦になり、密かに使者を海路で送って入貢し、泉州節度使を求めた。事が発覚し、審知は浩源とその一党を誅し、延彬を退けて私邸に帰らせた。
後唐同光三年〜天成元年(925-926年・王延翰の暴政)
- 同光三年夏五月、閩王審知が病臥し、子で節度副使の延翰に軍府の事を代行させた。冬十二月辛未、閩の忠懿王審知が没し、子の延翰が威武留後を自称した。汀州の民・陳本が三万の衆を集めて汀州を囲み、延翰は右軍都監の柳邕らに二万を率いさせて討たせた。
- 明宗天成元年春正月、閩の人が陳本を破って斬った。三月辛酉、威武節度副使の王延翰を威武節度使とした。夏五月甲戌、王延翰に同平章事を加えた。
- 冬十月、昭武節度使・同平章事の王延翰は驕淫残暴だった。己丑、大閩国王を自称し、宮殿を立て百官を置き、儀礼と文物はすべて天子の制に倣い、臣下は「殿下」と呼んだ。領内に赦を下し、父の審知に昭武王の号を追尊した。
- 閩王延翰は兄弟を蔑ろにし、位を襲いで一月余りで弟の延鈞を泉州刺史として出した。延翰が民の女を多く取って後宮に充て、選び集めてやまないので、延鈞が上書して極諫すると延翰は怒り、ここに隙が生じた。父・審知の養子である延稟は建州刺史だったが、延翰が書を送って女を選ばせると、延稟の返書は不遜で、これも隙となった。
- 十二月、延稟と延鈞が兵を合わせて福州を襲った。延稟は流れに乗って先に着き、福州の指揮使・陳陶が衆を率いて防いだが敗れて自殺した。その夜、延稟は壮士百余人を率いて西門へ向かい、梯で城に入り、門番を捕え、庫を開いて武器を取り、寝門に至った。延翰は驚いて別室に隠れた。
- 辛卯の朝、延稟は延翰を捕えてその罪悪を暴き、「延翰は妻の崔氏とともに先王を弑した」と称して吏民に告げ諭し、紫宸門の外で斬った。この日、延鈞が城南に至ると、延稟が門を開いて迎え入れ、延鈞を威武留後に推した。
天成二年〜長興三年(927-932年・王延鈞の治世)
- 二年春正月戊辰、王延稟が建州へ帰るとき、王延鈞が送った。別れ際、延稟は延鈞に「よく先人の基業を守り、老兄を再び下らせるようなことはさせるな」と言った。延鈞は恭しく謙譲したが、顔色は変わっていた。
- 夏五月癸丑、威武留後の王延鈞を本道の節度使・守中書令・琅邪王とした。
- 三年秋七月戊辰、威武節度使の王延鈞を閩王とした。冬十二月、閩王延鈞は民二万を得度させて僧とし、これにより閩中は僧が多くなった。
- 四年冬十二月、奉国節度使・知建州の王延稟が病と称して郷里の邸に退き、建州を子の継雄に授けるよう請うた。庚子、詔で継雄を建州刺史とした。
- 長興二年夏四月、閩の奉国節度使兼中書令の王延稟は閩王延鈞の病を聞き、次子の継昇に建州留後を掌らせ、建州刺史の継雄を率いて水軍で福州を襲った。癸卯、延稟が西門を、継雄が東門を攻めた。延鈞は楼船指揮使の王仁達に水軍で防がせ、仁達は舟中に甲士を伏せ、偽って白旗を立てて降を請うた。継雄は喜んで左右を退けて仁達の舟に登り、慰撫した。仁達は継雄を斬り、その首を西門に梟した。延稟はちょうど火を放って城を攻めていたが、これを見て慟哭した。
- 仁達がそのまま兵を放って撃ち、衆は潰えた。左右が斛に延稟を載せて逃げたが、甲辰、追って捕えた。延鈞は延稟に会って「果たして老兄を再び下らせることになりましたな」と言い、延稟は恥じて答えられなかった。延鈞は別室に囚え、使者を建州へ送って一党を招撫させたが、一党は使者を殺し、継昇とその弟の継倫を奉じて呉越へ逃げた。仁達は延鈞の甥である。
- 五月、閩王延鈞は王延稟を市で斬り、姓名を周彦琛に戻し、弟で都教練使の延政を建州へ送って吏民を撫慰させた。
- 六月、閩王延鈞は神仙の術を好み、道士の陳守元、巫者の徐彦林・興盛韜がともに誘って宝皇宮を作らせ、土木を極め、守元を宮主とした。
- 冬十二月、閩の陳守元らが宝皇の命と称して閩王延鈞に「もし位を避けて道を受ければ、天子となること六十年」と言った。延鈞は信じ、丙子、子で節度副使の継鵬に軍府の事を代行させ、延鈞は位を避けて籙を受け、道名を玄錫とした。
- 三年春三月甲辰、閩王延鈞が復位した。
- 夏六月、閩王延鈞が陳守元に「私のために宝皇に問え。六十年の天子ののちはどうなるか」と言った。翌日、守元は「昨夕、章を奏して宝皇の旨を得ました。大羅の仙主となられます」と報じた。徐彦らも「北廟の崇順王がかつて宝皇を見た。その言も守元と同じです」と言った。延鈞はいよいよ自負し、初めて称帝を謀った。
- 朝廷に「銭鏐が没したので臣を呉越王に」「馬殷が没したので臣を尚書令に」と上表したが、朝廷は返答せず、以後、職貢は絶えた。
長興四年〜後晉天福元年(933-936年・大閩の建国と康宗)
- 四年春正月、閩の人に真封の邸に龍が現れたと言う者があり、閩王延鈞はその邸を龍躍宮と改め、そのまま宝皇宮へ行って冊を受け、儀衛を備えて府に入り、皇帝に即位した。国号を大閩、大赦して龍啓と改元し、名を璘と改め、父祖を追尊して五廟を立てた。僚属の李敏を左僕射・門下侍郎、子で節度副使の継鵬を右僕射・中書侍郎としてともに同平章事とし、腹心の吏・呉勗を樞密使とした。
- 唐の冊礼使・裴傑と程侃がちょうど海門に着いたところで、閩主は傑を如京使とし、侃が強く北へ帰りたいと求めたが許さなかった。閩主は国が小さく地が僻遠であることから常に四隣に慎み仕えたので、領内はやや安んじた。
- 夏四月、閩主璘は子の継鵬を福王とし宝皇宮使に充てた。
- 五月、閩に地震があり、閩主璘は位を避けて修道し、福王継鵬に万機を総べさせた。はじめ閩王審知は節倹な性質で府舎はいずれも粗末だったが、ここに至って大いに宮殿を作って土木を極めた。
- 秋七月戊子、閩主璘が復位した。
- はじめ福建中軍使の薛文傑は巧佞な性質だった。璘が奢侈を好んだので、文傑は聚斂で機嫌を取り、璘は国計使として親任した。文傑は密かに富家の罪を探し出しては財を没収し、笞打つとき胸と背を交互に打ち、さらに銅の斗を火にかけて焼いた。
- 建州の土豪・呉光が入朝すると、文傑はその財を狙って罪を求めて処罰しようとした。光は怨み怒り、一万近い衆を率いて叛いて呉へ逃げた。
- 九月、閩の内樞密使・薛文傑が閩主に諸宗室を抑えつけるよう説き、甥の継図が憤りに堪えず謀反し、誅されて連座した者は千余人に上った。
- 閩主は鬼神を好み、巫者の盛韜らはいずれも寵を得ていた。薛文傑は閩主に「陛下の左右には姦臣が多い。鬼神に質さねば分かりません。盛韜は鬼を見るのが巧みです。調べさせるべきです」と言い、閩主は従った。
- 文傑は樞密の呉勗を憎んでいた。勗が病むと文傑は見舞って「主上は公が長患いなので側近の職を解こうとされている。私は『公はちょっと頭が痛いだけで、じきに癒えます』と申し上げた。主上が使いを寄越して尋ねられても、決して他の病だと答えられるな」と言い、勗は承知した。
- 翌日、文傑は盛韜に閩主へ「たった今、北廟の崇順王が呉勗を謀反の廉で訊問し、銅の釘でその脳に釘を打ち、金の椎で叩くのを見ました」と言わせた。閩主が文傑に告げると、文傑は「まだ信じられません。使者を送って問われるべきです」と言った。果たして頭痛と答えたので、ただちに獄に下し、文傑と獄吏に取り調べさせた。勗は無実の罪を認め、妻子ともども誅された。これで国人はいっそう怒った。
- 呉光が呉に出兵を請い、呉の信州刺史・蔣延徽は朝命を待たずに兵を率いて光と合流して建州を攻めた。閩主は使者を送って呉越に救援を求めた。
- 十一月、閩主は魯夫人の黄氏を皇太后に尊んだ。
- 十二月、閩主は福州を長楽府と改めた。親従都指揮使の王仁達は王延稟を捕えた功があり、気概があって物言いに憚りがなかった。閩主はこれを憎み、かつて私かに左右に「仁達は智に余りがあり、私はまだ御せるが、幼主の臣ではない」と言っていた。ここに至って、ついに叛と誣告して族滅した。
- 潞王清泰元年春正月、呉の蔣延徽が浦城で閩の兵を破り、そのまま建州を囲んだ。閩主璘は上軍使の張彦柔と驃騎大将軍の王延宗に一万を率いさせて建州を救わせた。延宗の軍が途中まで来たとき、士卒は進まず「薛文傑を得なければ賊は討てぬ」と言った。延宗が急使で報せると、国人は震え上がった。
- 太后と福王継鵬が泣いて璘に「文傑は国権を盗み弄び、無辜を枉げて害し、上下の怨り怒りは久しい。今、呉の兵が深く入り士卒は進まない。社稷が一朝にして傾いては、文傑を留めて何の益がありましょう」と言った。文傑も側にいて互いに利害を陳べた。璘は「私はそなたをどうもできぬ。そなた自ら策を立てよ」と言った。
- 文傑が出ると、継鵬は啓聖門の外で待ち構え、笏で打って倒し、檻車で軍前へ送った。市の人は争って瓦礫を投げつけた。文傑は術数に長け、自ら「三日過ぎれば患いはない」と言っていたが、護送の者がこれを聞いて倍の速さで進み、二日で着いた。士卒は見るや勇み立って肉を切って食った。閩主は急ぎ赦しを送ったが間に合わなかった。
- はじめ文傑は、古制の檻車は隙間が多いとして、木の匱のような形に作り直し、鉄の刃を内向きに植え込み、動けば触れるようにしていた。車が完成すると、文傑自身が真っ先にそこへ入った。あわせて盛韜も誅された。
- 蔣延徽が建州を攻めて落ちかけたとき、徐知誥は、延徽が呉の太祖の婿で臨川王・楊濛と平素親しかったので、建州を落として濛を奉じ興復を図ることを恐れ、使者を送って呼び戻した。延徽も閩の兵と呉越の兵が来ると聞いて兵を引いた。閩の人が追撃して破り、士卒の死亡は多かった。罪を都虞候の張重進に帰して斬った。知誥は延徽を右威衛将軍に降し、使者を送って閩と好誼を求めた。
- 二年春正月、閩主は淑妃の陳氏を皇后に立てた。はじめ閩主は二度劉氏を娶り、いずれも士族で美しかったが寵はなかった。陳后はもと閩の太祖の侍婢・金鳳で、醜くて淫らだったが、閩主は寵愛し、一族の守恩・匡勝を殿使とした。
- 夏六月、閩の福王継鵬が宮人の李春鷰と私通し、継鵬が陳后に請うと、后は閩主に申し上げて賜った。
- はじめ閩主に帰守明という幸臣があり、寝所に出入りしていた。閩主が晩年に風疾を得ると、陳后は守明および百工院使の李可殷と私通し、国人は皆憎んだが誰も言えなかった。
- 可殷はかつて皇城使の李倣を閩主に讒言し、后の一族の陳匡勝は福王継鵬に無礼を働いたので、倣も継鵬も恨んでいた。閩主の病が重くなると継鵬は喜色を浮かべ、倣は閩主が必ず助からぬと見た。
- 冬十月己卯、倣は壮士数人に白い棍棒を持たせて李可殷を撃ち殺し、内外は震撼した。庚辰、閩主の病がやや和らぎ、陳后が訴えたので、閩主は病を押して視朝し、可殷の死の様子を問い質した。倣は恐れて退出し、まもなく部兵を率いて鬨の声を上げて宮に入った。
- 閩主は変を聞いて九龍の帳の下に隠れたが、乱兵が刺して出た。閩主は転げ回って絶命せず、宮人はその苦しみに耐えかねてとどめを刺した。倣と継鵬は陳后・陳守恩・陳匡勝・帰守明および継鵬の弟の継韜を殺した。継韜はかねて継鵬と憎み合っていたからである。
- 辛巳、継鵬は皇太后の令と称して監国し、この日、皇帝に即位して名を昶と改め、父に斉粛明孝皇帝の諡、恵宗の廟号を贈った。まもなく権知福建節度事を自称し、使者を送って唐に表を奉り、領内に大赦し、李春鷰を賢妃に立てた。
- はじめ閩の恵宗は漢主の娘・清遠公主を娶り、宦者の林延遇(閩清の人)を送って番禺に邸を置き、国信をもっぱら掌らせていた。漢主は大邸を賜り給与も厚く、たびたび閩の事を尋ねたが、延遇は答えず、退いて人に「閩を去って閩を語り、越を去って越を語るなど、宮禁に身を置く者がしてよいことか」と言った。漢主はこれを聞いて賢しと思い、内常侍として諸司の事を検査させた。延遇は恵宗の弑逆を聞いて帰国を求めたが許されず、素服で自国の方角に向かって三日哭した。
後晉天福元年〜六年(936-941年・康宗の末路)
- 閩の皇城使・判六軍諸衛の李倣は朝政を専断し、密かに死士を養った。閩主昶は拱宸指揮使の林延皓らと図り、延皓らは倣に親しく従うふりをし、倣は疑わなかった。十一月壬子、倣が入朝すると、延皓らは衛士数百を内殿に伏せて捕えて斬り、朝門に梟首した。倣の部兵千余人が白い棍棒を持って応天門を攻めたが落とせず、啓聖門を焼き、倣の首を奪って呉越へ逃げた。詔で倣が君を弑し継韜らを殺した罪を暴いて内外に告諭し、建王の継厳に六軍諸衛を代判させた。
- 六軍判官の葉翹(永泰の人)を内宣徽使・参政事とした。翹は博学で質直、閩の恵宗は福王友に抜擢し、昶は師傅の礼で遇して裨益が多く、宮中では「国翁」と呼ばれた。
- 昶は位を継ぐと驕縦になり、翹と国事を議さなくなった。ある朝、昶が政務を執っているとき、翹が道士の服で庭を通り足早に出ようとした。昶は呼び戻して拝し、「軍国の事が繁多で長く応対しませんでした。孤の過ちです」と言った。翹は頓首して「老臣の輔導が至らず、陛下の即位以来、称すべき善政が一つもありません。骸骨を乞います」と言った。昶は「先帝が孤をあなたに託されたのです。政令が良くなければ極言されるべきで、どうして孤を棄てて去られるのか」と言い、金帛を厚く賜って慰め諭し、位に復させた。
- 昶の元妃・梁国夫人の李氏は同平章事・李敏の娘だった。昶が李春鷰を寵愛して夫人を薄く遇したので、翹は「夫人は先帝の姪であり、礼をもって迎えられた方です。どうして新しい寵愛のために棄てられるのか」と諫めた。昶は従わず、以後、翹を疎んじた。まもなく翹がまた上書して事を言うと、昶はその紙の末尾に「一葉、風に随って御溝に落つ」と書きつけ、永泰へ帰らせた。翹は天寿を全うした。
- 十二月、閩主は洞真先生の陳守元に天師の号を賜り、深く信任して、将相の交替、刑罰、選挙までみな彼と議した。守元は賄賂と請託を受け、言うことは何でも通り、その門は市のようだった。
- 後晋高祖天福元年春三月、閩主昶は通文と改元し、賢妃の李氏を皇后に立て、皇太后を太皇太后と尊んだ。
- 二年夏四月、閩王は紫微宮を作って水晶で飾り、土木の盛大さは宝皇宮の倍だった。また使者を諸州に散らせて人の隠れた不正を探らせた。
- 夏六月、方士が「白龍が夜に螺峯に現れた」と言い、閩主は白竜寺を作った。当時は百般の労役が起こって費用が足りなかった。閩主は吏部侍郎・判三司の蔡守蒙(候官の人)に「担当官が官を除するとき皆賄賂を受けていると聞くが、本当か」と問うた。守蒙は「浮説は信じるに足りません」と答えたが、閩主は「朕はとうに知っている。今それをそなたに委ねる。賢者を選んで授けよ。だが不肖の者や偽り冒す者も拒まず、ただ賄賂を納めさせ、記録して献じよ」と言った。守蒙は清廉でこれを不可としたが、閩主が怒ったので恐れて従った。以後、官の除授は財貨の多寡で決まった。
- 閩主はさらに空名の堂牒を医工の陳究に持たせて外で官を売らせ、聚斂に努めて飽きることがなかった。また詔で、年齢を隠す者は背を杖打ち、人口を隠す者は死罪、逃亡した者は族滅とし、果菜・鶏豚にも重く課税した。
- 冬十月、閩主は弟の威武節度使・継恭に表を上らせて晋に嗣位を告げ、あわせて都下に邸を置くことを請うた。
- 三年冬十一月丙午、閩主昶を閩国王とし、左散騎常侍の盧損を冊礼使とし、昶に赭袍を賜った。戊申、威武節度使の王継恭を臨海郡王とした。閩主はこれを聞いて進奏官の林恩を送り、執政に「すでに帝号を襲いだ以上、冊命と使者は辞退する」と告げさせた。
- 閩の諫議大夫・黄諷は閩主の淫暴を見て妻子に別れを告げてから諫言に入った。閩主が杖打とうとすると、諷は「臣が国を惑わせて不忠なら死んでも怨みません。直諫して杖打たれるのは受けられません」と言った。閩主は怒って庶人に落とした。
- 四年春二月、盧損が福州に至ると閩主は病と称して会わず、弟の継恭に応対させ、礼部員外郎の鄭元弼に継恭の表を奉じて損に従って入貢させた。閩主は損を礼遇しなかった。
- 士人の林省鄒が私かに損に言った。「わが主は君に仕えず、親を愛さず、民を恤まず、神を敬わず、隣国と睦まず、賓客を礼遇しない。長続きしましょうか。私は僧衣で北へ逃げます。いずれ上国でお目にかかりましょう」。
- 閩主は叔父の前建州刺史・延武と戸部尚書・延望の才名を忌んだ。巫者の林興は延武と怨みがあり、鬼神の言に託して「延武と延望が変を起こそうとしている」と言った。閩主は取り調べもせず、興に壮士を率いて邸へ行かせて殺し、その五子も殺した。
- 閩主は陳守元の言により禁中に三清殿を作り、黄金数千斤で宝皇大帝・天尊・老君の像を鋳造し、昼夜楽を奏し香を焚いて祈り、神丹を求めた。政は大小を問わずすべて林興が宝皇の命を伝えて決した。
- 閩の判六軍諸衛・建王継厳が士心を得ていたので閩主は忌み、六月、その兵権を罷めて継裕と改名させ、弟の継鏞に六軍を判じさせ「諸衛」の字を除いた。林興の詐りが露見して泉州へ流された。望気者が「宮中に災いがある」と言い、乙未、閩主は長春宮へ移った。
- はじめ閩の恵宗は太祖以来の従者を拱宸都・控鶴都としたが、康宗(昶)が立つと、あらためて壮士二千を募って腹心とし「宸衛都」と号し、俸給も賜与も二都より厚かった。「二都が怨望して乱を起こす」と言う者があり、閩主は漳州・泉州に分属させようとし、二都はいよいよ怒った。
- 閩主は夜通しの酒宴を開き、群臣に無理に飲ませ、酔えば左右にその過失を窺わせた。従弟の継隆が酔って礼を失うと斬った。たびたび猜疑と怒りから宗室を誅した。叔父の左僕射・同平章事の延羲は狂愚を装って禍を避け、閩主は道士の服を賜って武夷山に置いたが、まもなく召し返して私邸に幽閉した。
- 閩主はたびたび拱宸・控鶴の軍使である朱文進(永泰の人)と連重遇(光山の人)を侮り、二人は怨んだ。折しも北宮が焼け、犯人が捕まらないので、閩主は重遇に内外の営兵を率いて焼け跡を片づけさせ、日々一万人を使い、士卒は苦しんだ。しかも閩主は重遇が放火の謀を知っているのではと疑って誅そうとした。内学士の陳郯が私かに重遇に告げた。
- 辛巳の夜、重遇は宿直に入って二都の兵を率い、長春宮を焼いて閩主を攻め、人をやって瓦礫の中から延羲を迎えて万歳を呼ばせ、さらに外営の兵を召して共に閩主を攻めた。宸衛都だけが防戦し、閩主は李后とともに宸衛都へ入った。明け方、乱兵が宸衛都を焼き、宸衛都は敗れ、残る千余人が閩主と李后を奉じて北関を出た。
- 梧桐嶺に至ると衆はしだいに逃げ散った。延羲は兄の子で前汀州刺史の継業に兵を率いて追わせ、村の家で追いついた。閩主はもとより射に長け、弓を引いて数人を殺したが、まもなく追兵が雲のように集まった。閩主は免れぬと悟って弓を投げ、継業に「卿の臣節はどこにある」と言った。継業は「君に君の徳がなければ、臣にどうして臣の節がありましょう。新君は叔父、旧君は兄弟です。どちらが親しくどちらが疎いか」と答えた。閩主はそれ以上何も言わなかった。
- 継業は閩主を連れて陀荘まで戻り、酒を飲ませて酔ったところを縊り殺し、李后および諸子・王継恭も皆死んだ。宸衛の残る衆は呉越へ逃げた。
- 延羲は威武節度使・閩国王を自称して名を曦と改め、永隆と改元し、囚人を赦し、内外に賜与し、「宸衛が閩主を弑した」と隣国に告げ、閩主に聖神英睿文明広武応道大弘孝皇帝の諡、康宗の廟号を贈った。商人を間道から送って表を奉じ晋に藩を称したが、国内では百官を置いてすべて天子の制どおりとし、太子太傅で致仕した李真を司空兼中書侍郎・同平章事とした。
- 連重遇が康宗を攻めたとき、陳守元は宮中で服の色を替えて逃げようとしたが兵に殺された。重遇は蔡守蒙を捕え、官を売った罪を数えて斬った。閩主曦は立つと使者を送って林興を泉州で誅した。
- 冬十月庚戌、閩主康宗が遣わした使者・鄭元弼が大梁に至った。康宗が執政に送った書には「閩国はひとたび運を興して久しく年華を歴たが、北辰の帝座がしきりに移り、東海の風帆は阻まれることが多い」とあり、さらに敵国の礼で書を往来させたいと求めていた。帝はその不遜に怒り、壬子、詔でその貢物および福建諸州の綱運を却け、元弼と進奏官の林恩に速やかに送り返させた。兵部員外郎の李知損が「王昶は僭越傲慢です。使者を捕えて留め、その財貨を没収すべきです」と上言し、元弼と恩は投獄された。
- 十二月、閩主は新宮を作って移り住んだ。
天福五年〜開運元年(940-944年・曦と延政の内戦)
- 五年春正月、帝は閩の使者・鄭元弼らを引見した。元弼は「王昶は蛮夷の君で礼義を知りません。陛下はその善言を喜ぶに足らず、悪言に怒るに足りません。臣は使命を果たせませんでした。鈇鑕に伏して昶の罪を贖いたい」と言った。帝は憐れみ、辛未、詔で元弼らを釈放した。
- 閩王曦は立つと驕淫苛虐で、宗族を猜疑し、旧怨を蒸し返すことが多かった。弟で建州刺史の延政がたびたび書で諫めると、曦は怒って罵る返書を送り、腹心の吏・葉翹を建州軍の監、教練使の杜漢崇を南鎮軍の監として派した。二人は競って延政の隠し事を探って曦に告げ、これで兄弟の猜疑と恨みは積み重なった。
- ある日、翹が延政と議して意見が合わず、翹は「公は謀反されるのか」と叱った。延政は怒って翹を斬ろうとし、翹は南鎮へ逃げた。延政は兵を出して攻め、その戍兵を破り、翹と漢崇は福州へ逃げ、西の辺境の戍兵は皆潰えた。
- 二月、曦は統軍使の潘師逵と呉行真に四万を率いさせて延政を撃たせた。師逵は建州城の西、行真は城の南に陣し、いずれも水を隔てて営を置き、城外の家屋を焼いた。延政は呉越に救援を求め、壬戌、呉越王元瓘は寧国節度使・同平章事の仰仁詮と内都監使の薛万忠に四万を率いさせて救わせた。丞相の林鼎が諫めたが聞かなかった。
- 三月戊辰、師逵が兵三千を分けて都軍使の蔡弘裔に率いさせて出戦させたが、延政は将の林漢徹らに茶山で破らせ、千余級を斬った。
- 丁丑、王延政は決死の士千余人を募り、夜に水を渡って潘師逵の塁に潜入し、風に乗じて火を放った。城上も鬨の声で応じ、戦棹都頭の陳誨(建安の人)が師逵を殺し、その衆は皆潰えた。戊寅、兵を率いて呉行真の寨を攻めようとし、建州の兵がまだ水を渡らぬうちに行真と将士は営を棄てて逃げ、死者は一万人だった。延政は勝ちに乗じて永平・順昌の二城を取り、これ以後、建州の兵は盛んになった。
- 夏四月、呉越の仰仁詮らの兵が建州に至ると、王延政は福州の兵がすでに敗れて去ったとして牛と酒を捧げて犒い、帰還を請うた。仁詮らは従わず、城の西北に陣した。延政は恐れて再び閩王に出兵を乞い、閩王は泉州刺史の王継業に二万を率いさせて救わせ、あわせて呉越を責める書を送り、軽兵を出して呉越の糧道を絶った。折しも長雨で呉越軍の食が尽き、五月、延政が兵を出して大破し、一万を数える者を捕殺した。癸未、仁詮らは夜に逃げた。
- 唐主が客省使の尚全恭を閩へ送って閩王曦と王延政を和解させ、六月、延政は牙将と女奴に誓書と香炉を持たせて福州へ送り、曦と宣陵で盟った。だが兄弟の猜疑と恨みは元のままだった。
- 閩主曦は商人を通じて上表して自ら弁明し、十一月甲申、曦を威武節度使兼中書令・閩国王に封じた。
- 六年春正月、王延政は建州に周二十里の城を築き、閩王曦に、建州を威武軍として自分を節度使とするよう請うた。曦は威武軍は福州であるとして、建州を鎮安軍とし、延政を節度使・富沙王とした。延政は鎮安を鎮武と改めて称した。
- 夏四月、閩主曦は子の亜澄を同平章事・判六軍諸衛とした。曦は弟の汀州刺史・延喜が延政と通謀していると疑い、将軍の許仁欽に三千の兵で汀州へ行かせ、延喜を捕えて帰らせた。
- 夏六月、閩王曦は王延政が書で泉州刺史の王継業を招いたと聞き、継業を召し返して郊外で死を賜り、その子を泉州で殺した。はじめ継業が汀州刺史だったとき、司徒兼門下侍郎・同平章事の楊沂豊が士曹参軍で親しかった。「沂豊が継業と通謀している」と告げる者があり、沂豊は宴に侍っていたところを獄に下され、翌日斬られて一族も滅ぼされた。沂豊は楊渉の従弟で、当時八十余歳、国人は憐れんだ。
- これ以後、宗族や勲功ある旧臣が相次いで誅され、人は身を保てなくなった。諫議大夫の黄峻が棺を担いで朝堂に来て極諫すると、曦は「老いぼれが狂ったか」と言い、漳州司戸に貶した。
- 曦は淫奢で節度なく資用が足りず、国計使の陳匡範(南安の人)に諮ると、匡範は日々万金を進めると請うた。曦は喜んで匡範に礼部侍郎を加えた。匡範は商賈への課税を数倍に増やした。曦が群臣と宴を開いたとき、杯を挙げて匡範に「明珠や美玉は求めれば得られるが、匡範のような人中の宝は得られぬ」と言った。
- まもなく商賈の税では日々の進上に足りなくなり、諸省務の銭を借りて充てた。事の発覚を恐れ、憂悸のうちに死んだ。曦は祭祀と贈与を手厚くしたが、諸省務が匡範の借用証を報告すると、曦は激怒して棺を斫り屍を断ち切って水に棄てた。連江の人・黄紹頗を国計使に代え、紹頗は「仕官を望む者は蔭補でない限りすべて銭を納めれば授ける」ことを請い、資望の高下と州県の戸口の多寡でその値を百緡から千緡まで定めた。認められた。
- 秋七月、閩王曦は大閩皇を自称して威武節度使を領し、王延政と兵を治めて攻め合い、勝敗を繰り返した。福建の間には屍が野に累々とした。
- 鎮武節度判官の潘承祐(晋江の人)がたびたび兵を休めて好誼を修めるよう請うたが、延政は従わなかった。閩主の使者が来ると、延政は甲卒を大々的に並べて見せつけ、使者への言葉はきわめて悖慢だった。承祐が長跪して切諫すると、延政は怒って左右を顧み「判官の肉は食えるか」と言った。承祐は顔色も変えず、声はいっそう激しかった。
- 閩主曦は泉州刺史の王継厳が衆心を得ていることを憎み、罷めて帰らせて毒殺した。
- 九月、閩王曦は子の琅邪王・亜澄を威武節度使兼中書令として長楽王と号を改めた。
- 冬十月、閩主曦が皇帝に即位し、王延政は兵馬元帥を自称した。閩の同平章事・李敏が没した。
- 七年春正月、閩主曦は皇后に李氏を立てた。同平章事・李真の娘で、酒を好み剛愎だった。曦は寵愛しつつ憚った。
- 三月、閩主曦は長楽王の亜澄を閩王に立てた。
- 夏六月、閩の富沙王・延政が汀州を囲み、閩主曦は漳州・泉州の兵五千を発して救わせ、さらに将の林守亮を尤渓に入らせ、大明宮使の黄敬忠を尤口に屯させて、隙に乗じて建州を襲おうとし、国計使の黄紹頗に歩卒八千を二軍として声援させた。
- 秋七月、閩の富沙王・延政は汀州を四十二戦しても落とせず引き揚げた。その将の包洪実と陳望が水軍で福州の師を防ぎ、丁酉、尤口で遭遇した。黄敬忠が戦おうとしたとき、占者が「時刻が良くありません」と言ったので兵を動かさずにいた。洪実らは兵を岸に上げ、水陸から挟撃して敬忠を殺し、二千級を捕殺した。林守亮と黄紹頗はいずれも逃げ帰った。
- 八月、閩主曦は使者に手詔と金器九百・銭一万緡・将吏の敕告六百四十通を持たせて富沙王延政に和を求めたが、延政は受けなかった。丙寅、閩主曦が九竜殿で群臣と宴を開き、甥の継柔が飲めないのに強い、継柔が密かに酒を減らすと、曦は怒って客将ともども斬った。
- 閩主曦は同平章事の余廷英(候官の人)を泉州刺史とした。廷英は貪欲で汚く、人の娘を掠め、詔を受けて後宮のために選んでいると偽った。事が発覚して曦が御史を送って調べさせると、廷英は恐れて福州へ来て自ら出頭した。曦が詰責して吏に付そうとすると、廷英は退いて宴を買う銭一万緡を献じた。曦は喜んで翌日召し、「宴はもう買った。皇后への貢物はどこにある」と言った。廷英はさらに李后にも銭を献じ、ようやく泉州へ帰された。以後、諸州は皆別に皇后への貢物を出した。まもなく廷英は召し返されて宰相となった。
- 閩の塩鉄使・右僕射の李仁遇は李敏の子で閩主曦の甥である。年若く容姿が美しく曦の寵を得た。十二月、仁遇を左僕射兼中書侍郎、翰林学士・吏部侍郎の李光準を中書侍郎兼戸部尚書とし、ともに同平章事とした。
- 曦は荒淫で節度なく、かつて夜宴で光準が酔って旨に逆らうと、捕えて都の市へ送って斬れと命じた。吏はあえて殺さず獄に繋ぎ、翌日、朝に出た曦は召してその位に復した。その夕、また宴を開いて翰林学士の周維岳を獄に下した。吏は寝台を払って待ち、「相公が昨夜ここにお泊まりでした。尚書、ご心配なく」と言った。醒めてから釈された。
- 別の日にも宴を開き、侍臣は皆酔って去ったが維岳だけが残った。曦が「維岳は体がひどく小さいのに、なぜあれほど飲めるのか」と言うと、左右のある者が「酒には別腸があります。大きい必要はありません」と言った。曦は面白がって維岳を殿から引き倒し、酒の腸を切り開いて見ようとした。ある者が「維岳を殺せば陛下と痛飲できる者がいなくなります」と言い、ようやく赦された。
齊王天福八年〜開運元年(943-944年・大殷の建国と曦の弑逆)
- 八年春二月、閩の富沙王・延政が建州で帝を称し、国号を大殷、大赦して天徳と改元し、将楽県を鏞州、延平鎮を鐔州とし、皇后に張氏を立てた。節度判官の潘承祐を吏部尚書、節度巡官の楊思恭(建陽の人)を兵部尚書とし、まもなく承祐を同平章事、思恭を僕射・録軍国事に進めた。延政は赭袍で政務を執ったが、牙参や隣国の使者への接遇はなお藩鎮の礼どおりだった。
- 殷は国が小さく民は貧しいうえ軍旅が絶えなかった。楊思恭は聚斂に巧みで寵を得、田畝・山沢の税を増やし、魚・塩・蔬菜・果実に至るまで倍の税をかけたので、国人は「楊剥皮」と呼んだ。
- 三月、閩主曦は金吾使・尚保殷の娘を納れて賢妃に立てた。妃は絶世の美貌で、曦は寵愛し、酔うと妃が殺したいと言えば殺し、赦したいと言えば赦した。
- 殷の将・陳望らが閩の福州を攻めて西の外郭に入ったが、まもなく敗れて帰った。
- 夏五月、殷の吏部尚書・同平章事の潘承祐が上書して十事を陳べた。大旨はこうである。兄弟が攻め合うのは天理に逆らい傷つけるのが一。賦斂が煩重で力役に節度がないのが二。民を徴発して兵とし、旅にあって愁え怨むのが三。楊思恭が人の衣食を奪い、怨みを上に帰させ、群臣が物申せぬのが四。疆土が狭いのに州県を多く置き、吏を増やして民を困らせるのが五。道を開き糧を用意して汀州を攻めようとしながら、金陵や銭塘が隙に乗じて襲うことを憂えぬのが六。富家の財を括り、多い者を官に補し、滞納者を刑するのが七。延平の諸津で菜・魚・米に課税し、得る利はごく僅かなのに集める怨みが甚だ大きいのが八。唐・呉越と隣り合いながら、即位以来まだ使者を通じていないのが九。宮室臺榭を節度なく飾り立てるのが十。殷王延政は激怒し、承祐の官爵を削って私邸に帰らせた。
- はじめ閩主曦が康宗の宴に侍っていたとき、新羅が宝剣を献じた。康宗が挙げて同平章事の王倓に示して「これは何に使う」と言うと、倓は「臣として不忠な者を斬るのに」と答えた。当時すでに曦は異志を抱いており、凛然と顔色を変えた。ここに至って群臣と宴を開いた折、また剣を献じる者があり、曦は倓の塚を暴いてその屍を斬らせた。
- 校書郎の陳光逸が友に「主上は徳を失った。滅亡は目前だ。私は死諫したい」と言った。友が止めたが従わず、上書して曦の大悪五十事を陳べた。曦は怒って衛士に数百回鞭打たせたが死なず、縄で首を縛って庭の樹に吊るし、長くしてようやく絶命した。
- 閩主曦が娘を嫁がせるにあたり、班簿を取り寄せて調べ、朝士で祝賀しなかった者十二人を皆、朝堂で杖打った。御史中丞の劉賛が弾劾しなかったとして杖打とうとすると、賛は義として辱めを受けまいと自殺しようとした。諫議大夫の鄭元弼が「古は刑は大夫に上らぬもの。中丞は百僚の儀範です。どうして箠楚を加えられるのか」と諫めた。曦は正色して「卿は魏徴を真似るつもりか」と言い、元弼は「臣は陛下を唐の太宗と思えばこそ、あえて魏徴に倣うのです」と答えた。曦の怒りはやや解けて賛を釈したが、賛はついに憂えのうちに没した。
- 開運元年春正月、唐主が使者を送って閩主曦と殷王延政に書を贈り、兄弟が矛を交えることを責めた。曦は周公が管叔・蔡叔を誅し、唐の太宗が建成・元吉を誅した例を引いて返書し、延政は唐王が楊氏の国を奪ったことを非難する返書を送った。唐主は怒り、そのまま殷と絶交した。
- 閩の拱宸都指揮使・朱文進と閤門使の連重遇は康宗を弑して以来、国人の討伐を常に恐れ、婚姻を結んで身を固めていた。閩主曦は誅殺に果断で、かつて西園に遊んだ折、酔って控鶴指揮使の魏従朗を殺した。従朗は朱・連の一党である。またあるとき酒が回って白居易の詩「ただ人心の相対する間ありて、咫尺の情も料る能わず」を誦し、そのまま杯を挙げて二人に勧めた。二人は立ち上がって涙を流し再拝して「臣子が君父に仕えるのに、どうして他意がありましょう」と言ったが、曦は応じず、二人はひどく恐れた。
- 李后は尚賢妃の寵を妬み、曦を殺して自分の子の亜澄を立てようとし、人をやって二人に「主上は二公にひどくご不満です。どうされますか」と告げさせた。
- 折しも后の父・李真が病み、乙酉、曦が真の邸へ見舞いに行った。文進と重遇は拱宸馬歩使の銭達に馬上の曦を弑させ、百官を朝堂に召して「太祖の昭武皇帝が閩国を開かれたが、今の子孫は淫虐でその緒を失墜させた。天は王氏を厭われた。徳ある者を択んで立てるべきだ」と告げた。衆は誰も物言えず、重遇は文進を推して殿に上げ、袞冕を着せ、群臣を率いて北面再拝して臣を称した。
- 文進は閩主を自称し、王氏の宗族を延喜以下、老幼五十余人ことごとく捕えて殺した。閩主曦を葬って睿文広武明聖元徳隆道大孝皇帝の諡、景宗の廟号を贈り、重遇に六軍を総べさせた。礼部尚書・判三司の鄭元弼が言葉激しく屈しなかったので、退けて田里に帰らせ、建州へ逃げようとしたところを文進が殺した。
- 文進は令を下して宮人を出し造営を罷め、曦の政を改めた。殷主延政の統軍使・呉成義が兵を率いて文進を討ったが落とせなかった。文進は樞密使の鮑思潤に同平章事を加え、羽林統軍使の黄紹頗を泉州刺史、左軍使の程文緯を漳州刺史とし、汀州刺史の許文稹(同安の人)は郡を挙げて降った。
- 夏四月、朱文進が唐に使者を送ると、唐主はその使者を囚えて伐とうとしたが、暑気と疫病でやめた。
- 秋八月、朱文進は威武留後・権知閩国事を自称し、使者を送って表を奉じて晋に藩を称した。癸丑、文進を威武節度使・知閩国事とした。
開運元年冬〜二年(944-945年・王氏の復興と唐の南侵)
- 冬十月、殷主延政は将の陳敬佺に三千の兵で尤渓と古田に、盧進に二千で長渓に屯させた。
- 泉州散員指揮使の留従効(姚林の人)は同僚の王忠順・董思安・張漢思に言った。「朱文進は王氏を屠り滅ぼし、腹心を送って諸州に分け拠らせている。我らは代々王氏の恩を受けながら、腕を組んで賊に仕えている。ひとたび富沙王が福州を落としたら、我らは死んでも余りある恥だ」。皆もっともとした。
- 十一月、従効らはそれぞれ軍中の親しい壮士を集め、夜に従効の家で酒を飲んだ。従効は「富沙王がすでに福州を平らげた。密旨で我らに黄紹頗を討てとのことだ。諸君の面相はいずれも長く貧賤に留まる相ではない。私の言に従えば富貴が図れる。さもなくば禍が来るぞ」と偽った。衆は皆勇み立ち、白い棍棒を持って垣を越えて入り、紹頗を捕えて斬った。
- 従効は州の印を持って王継勲の邸へ行き、軍府を主るよう請い、自らは平賊統軍使を称し、紹頗の首を箱に納めて副兵馬使の陳洪進(臨淮の人)に持たせて建州へ送った。洪進が尤渓に至ると、福州の戍兵数千が道を塞いだ。洪進は「義師がすでに朱福州を誅した。私は道を急いで建州へ嗣君をお迎えに行くところだ。おまえたちはまだここを守って何とする」と偽り、紹頗の首を示すと、衆は潰えた。大将数人が洪進に従って建州へ来た。
- 延政は継勲を侍中・泉州刺史とし、従効・忠順・思安・洪進を皆都指揮使とした。漳州の将・程謨はこれを聞いて刺史の程文緯を殺し、王継成を州事の代行に立てた。継勲も継成も延政の甥である。朱文進が王氏を滅ぼしたとき、二人は縁が遠かったので助かった。汀州刺史の許文稹も表を奉じて殷に降を請うた。
- 十二月癸丑、朱文進に同平章事を加えて閩国王に封じた。
- 朱文進は黄紹頗の死を聞いて大いに恐れ、重賞で二万を募り、統軍使の林守諒と内客省使の李廷鍔に率いさせて泉州を攻めさせた。鉦鼓の音は五百里に響いた。殷主延政は大将軍の杜進に二万を率いさせて泉州を救わせ、留従効が門を開いて福州の兵と戦って大破し、守諒を斬り廷鍔を捕えた。延政は統軍使の呉成義に戦艦千艘を率いさせて福州を攻めさせ、朱文進は子弟を人質として呉越へ送って救援を求めた。
- はじめ唐の翰林待詔・臧循は樞密副使の査文徽と同郷だった。循はかつて商人で福建の山川に詳しく、文徽のために建州攻略の策を立てた。文徽が上表して王延政討伐を請うと、国人の多くは不可としたが、唐主は文徽を江西安撫使とし、循に境上を巡って可否を探らせた。文徽は信州に至って「攻めれば必ず落ちます」と奏し、唐主は洪州営屯都虞候の辺鎬を行営招討諸軍都虞候として文徽に従って殷を伐たせた。
- 文徽は建陽から蓋竹に進屯したが、泉州・漳州・汀州の三州がいずれも殷に降ったと聞き、殷の将・張漢真が鏞州から八千の兵で来ると知って恐れ、建陽に退いて守った。臧循は邵武に屯したが、邵武の民が殷の兵を導いて循の軍を襲い破り、循を捕えて建州へ送って斬った。
- 閏月、殷の呉成義は唐の兵ありと聞き、偽って福州の吏民に「唐が我らを助けて賊臣を討つ。大兵が今にも来る」と告げさせた。福州の人はいっそう恐れた。乙未、朱文進が同平章事の李光準らを送って国宝を殷に奉じた。
- 丁酉、福州南廊承旨の林仁翰が一党に「我らは代々王氏に仕えてきた。今は賊臣に制せられている。富沙王が来られたら、どんな顔でお会いできる」と言い、三十人を率いて甲を着けて連重遇の邸へ向かった。重遇はちょうど兵を厳しくして自衛しており、三十人はそれを見て次々に逃げ去った。仁翰は槊を執ってまっすぐ前へ進み、重遇を刺し殺し、その首を斬って衆に示し、「富沙王がまもなく来られる。おまえたちは族滅されるぞ。今、重遇はすでに死んだ。なぜ急ぎ文進を取って罪を贖わぬのか」と言った。衆は勇み立って従い、そのまま文進を斬り、呉成義を城に迎え入れ、二人の首を箱に納めて建州へ送った。
- 二年春正月、閩の旧臣がこぞって殷主延政を迎え、福州へ帰るよう請うた。延政は国号を閩に戻したが、唐の兵が来ているため遷都する暇がなく、甥で門下侍郎・同平章事の継昌を都督南都内外諸軍事として福州を鎮させ、飛捷指揮使の黄仁諷を鎮遏使として兵で守らせた。
- 林仁翰が福州に至ったとき、閩主の賞はきわめて薄かったが、仁翰は自分の功を言わなかった。南都の侍衛と両軍の甲士一万五千を発して建州へ送り唐を防がせた。
- 二月、唐の査文徽が増兵を求め、唐主は天威都虞候の何敬洙を建州行営招討馬歩都指揮使、将軍の祖全恩を応援使、姚鳳を都監として数千の兵で建州攻めに合流させ、崇安から赤嶺に進屯した。
- 閩主延政は僕射の楊思恭と統軍使の陳望に一万を率いさせて防がせ、水の南に柵を連ねて十日余り戦わず、唐の人も迫れなかった。思恭が延政の命で望に戦うよう督すると、望は「江淮の兵は精強で、その将は武事に慣れている。国の安危はこの一挙にかかる。万全を期してから動くべきです」と言った。
- 思恭は怒って「唐の兵が深く侵し、陛下は目も合わせず眠れずにいて、将軍に委ねられた。今、唐の兵は数千に過ぎず、将軍は一万余を擁している。定まらぬうちに撃たずして、もし唐の兵が恐れて自ら退いたら、将軍はどんな顔で陛下にお会いするのか」と言った。望はやむなく兵を率いて水を渡って唐と戦った。全恩らは大軍で正面に当たり、奇兵を背後に出して大破し、望は死に、思恭はかろうじて身一つで逃れた。延政は大いに恐れて城に籠って守り、董思安と王忠順を召して泉州の兵五千を率いさせ建州へ来させて要害を分け守らせた。
- はじめ光州の人・李仁達は閩に仕えて元従指揮使となったが十五年昇進せず、閩主曦の世に叛いて建州へ逃げた。閩主延政は将としたが、朱文進が曦を弑すると、また叛いて福州へ逃げ、建州攻略の策を進めた。文進はその反覆を憎んで福清へ退けた。浦城の人・陳継珣も閩主延政に叛いて福州へ逃げ、曦のために建州攻略の策を立て、曦は著作郎とした。延政が福州を得ると二人はいずれも不安になった。
- 王継昌は暗愚で酒を好み将士を恤まなかったので、将士の多くは怨んだ。仁達は密かに福州へ入り、継珣とともに黄仁諷に説いた。「今、唐の兵が勝ちに乗じて建州は孤立して危うい。富沙王は建州すら保てぬのに福州を保てましょうか。昔、王潮兄弟は光山の布衣にすぎませんでしたが、福建を取ることは掌を返すようでした。まして我らがこの機に乗じて自ら富貴を図れば、彼らに及ばぬはずがありましょうか」。仁諷はもっともとした。
- その夕、仁達らは甲士を率いて府舎に突入し、継昌と呉成義を殺した。仁達は自立しようとしたが衆心が服さぬことを恐れ、雪峯寺の僧・卓巌明がかねて衆に重んじられていたので、「この僧は目に二つの瞳があり、手は膝を過ぎる。真の天子だ」と言って迎えた。三月己亥、これを立てて帝とし、僧衣を脱がせて袞冕を着せ、将吏を率いて北面して拝した。ただし年号はなお天福十年を称し、使者を送って表を奉じて晋に藩を称した。
- 延政はこれを聞いて黄仁諷の家を族滅し、統軍使の張漢真に水軍五千を率いさせ漳州・泉州の兵と合わせて巌明を討たせた。
- 夏四月、閩の張漢真が福州に至ってその東関を攻めた。黄仁諷は自分の家が滅ぼされたと聞いて門を開いて力戦し、閩の兵を大破し、漢真を捕えて入城して斬った。
- 卓巌明には他に方略もなく、ただ殿上で水を吹き豆を撒いて種々の法事をするだけだった。また使者を送って莆田から父を迎え、太上皇と尊んだ。李仁達は巌明を立てると自ら六軍諸衛の事を判じ、黄仁諷を西門、陳継珣を北門に屯させた。
- 仁諷はくつろいだ折に継珣に言った。「人が人であるのは忠信仁義があるからだ。私はかつて富沙に功があったのに、途中で叛いた。忠でない。人が甥を私に託したのに、人とともに殺した。信でない。先ごろ建州の兵と戦って殺したのは皆同郷の旧知だ。仁でない。妻子を棄てて人に魚肉させた。義でない。この身は十度沈み九度浮かんだ。死んでも余りある恥だ」。そう言って胸を打って慟哭した。継珣は「大丈夫は功名に殉ずるもの。どうして妻子を顧みる。この件は措いて、禍を招かぬように」と言った。
- 仁達はこれを聞き、人をやって仁諷と継珣が謀反したと告げさせ、いずれも殺した。こうして兵権はすべて仁達に帰した。
- 五月丁巳、李仁達が戦士を大閲し、卓巌明に臨席を請うた。仁達は密かに軍士に教え、突然前に出て階に登らせて巌明を刺し殺させた。仁達は驚いたふりをして狼狽して逃げ、軍士がこぞって仁達を捕えて巌明の座に据えた。仁達はそこで威武留後を自称し、保大の年号を用い、上表して唐に藩を称し、あわせて晋にも使者を送って入貢し、巌明の父も殺した。唐は仁達を威武節度使・同平章事とし、弘義の名を賜り、属籍に加えた。弘義はさらに使者を送って呉越と好誼を修めた。
- 唐の兵が建州を囲み、たびたび泉州の兵を破った。許文稹は汀州で唐の兵を破ってその将・時厚卿を捕えた。
- 秋七月、閩の人に「福州の援兵が謀叛している」と告げる者があり、閩主延政はその鎧と武器を取り上げて帰らせ、隘路に兵を伏せて皆殺しにした。死者は八千余人、その肉を干して食糧として持ち帰った。
- 唐の辺鎬が鐔州を落とすと、査文徽の一党である魏岑・馮延巳・延魯は、出師に功があったとして皆勇み立って賛成し、徴発と供給に府庫は尽き、洪州・饒州・撫州・信州の民はとりわけ苦しんだ。延政は使者を送って表を奉じて呉越に臣を称し、附庸となって救援を求めた。
- 八月、唐の兵が建州を長く囲み、建州の人心は離れた。ある者が董思安に「早く去就を択ばれては」と言うと、思安は「私は代々王氏に仕えてきた。危ういからと叛いて、天下の誰が私を容れよう」と言い、衆はその言に感じて叛く者はなかった。
- 丁亥、唐の先鋒橋道使・王建封(上元の人)が先登し、そのまま建州を落とした。閩主延政は降り、王忠順は戦死し、董思安は衆を整えて泉州へ逃げた。
- はじめ唐の兵が来たとき、建州の人は王氏の乱と楊思恭の重い徴収に苦しんでいたので、争って木を伐り道を開いて迎えた。ところが建州を破ると兵を放って大掠し、宮室も家屋も焼き尽くした。その夕は冷たい雨で、凍死者が枕を並べ、建州の人は失望した。唐主は功があるとして皆咎めなかった。
- 九月、許文稹が汀州、王継勲が泉州、王継成が漳州を挙げてそれぞれ唐に降った。唐は建州に永安軍を置いた。
- 冬十月、王延政が金陵に至り、唐主は羽林大将軍とし、楊思恭を斬って建州の人に謝した。百勝節度使の王崇文を永安節度使とし、崇文は寛簡に治めたので建州の人はようやく安んじた。
開運三年〜後漢天福十二年(946-947年・福州攻防)
- 三年春三月、唐の泉州刺史・王継勲が書を送って威武節度使の李弘義と好誼を修めようとした。弘義は泉州がもと威武軍に属していたことから、対等の礼で接するのを怒り、夏四月、弟の弘通に一万を率いさせて伐たせた。
- 泉州の郡指揮使・留従効が刺史の王継勲に「李弘通の兵勢はきわめて盛んです。士卒は使君の賞罰が不当だとして力戦しようとしません。使君は位を避けて自省されるべきです」と言い、継勲を廃して私邸に帰らせ、代わって軍府を領し、兵を整えて李弘通を撃って大破し、唐に上表した。唐主は従効を泉州刺史とし、継勲を金陵に召し返し、将を送って泉州を戍らせ、漳州刺史の王継成を和州刺史、汀州刺史の許文稹を蘄州刺史に移した。
- はじめ唐の人は建州を落とすと勝ちに乗じて福州を取ろうとしたが、唐主は許さなかった。樞密使の陳覚が自ら行って李弘義を説き、必ず入朝させると請い、宋斉丘が「覚の才弁なら寸刃を煩わせず座して弘義を招けます」と推した。唐主は弘義の母と妻を皆国夫人に拝し、四人の弟の官を進め、覚を福州宣諭使として弘義に金帛を厚く賜った。弘義はその企みを知り、覚に会うと辞も色もきわめて傲慢で待遇も薄く、覚は入朝の件を言い出せぬまま帰った。
- 秋八月、唐の陳覚は福州から帰って剣州まで来たとき、功がないことを恥じ、詔と偽って侍衛官の顧忠に弘義を召して入朝させようとし、自ら権福州軍府事を称して、汀州・建州・撫州・信州の兵および戍卒を勝手に動員し、建州監軍使の馮延魯に率いさせて福州へ向かわせ弘義を迎えさせた。
- 延魯はまず弘義に書を送って禍福を諭したが、弘義は戦いを請う返書を送り、楼船指揮使の楊崇保に州の師を率いさせて防がせた。覚は剣州刺史の陳誨を縁江戦棹指揮使とし、「福州は孤立して危うく、旦夕にも落とせます」と上表した。
- 唐主は覚の専断に激しく怒ったが、群臣の多くが「兵はすでに城下に迫っております。中止できません。兵を出して助けるべきです」と言った。丁丑、覚と延魯が候官で楊崇保を破り、戊寅、勝ちに乗じて福州の西関へ進攻したが、弘義が出撃して大破し、唐の左神威指揮使・楊匡鄴を捕えた。
- 唐主は永安節度使の王崇文を東南面都招討使、漳泉安撫使・諫議大夫の魏岑を東面監軍使、延魯を南面監軍使として兵を合わせて福州を攻め、その外郭を落とし、弘義は第二の城を固守した。
- 九月、李弘義は威武留後・権知閩国事を自称して名を弘達と改め、表を奉じて晋に命を請うた。甲午、弘達を威武節度使・同平章事・知閩国とした。
- 辛丑、福州の排陣使・馬捷が唐の兵を馬牧山から導き、寨を落として入り、善化門の橋まで至った。都指揮使の丁彦貞が百人で防ぎ、弘義は善化門の外へ退いた。二重の外城はいずれも唐の兵に押さえられ、弘達は名を達と改め、使者を送って表を奉じて臣を称し、呉越に出兵を乞うた。
- 冬十月、唐の漳州の将・林賛堯が乱を起こして監軍使の周承義を殺した。剣州刺史の陳誨と泉州刺史の留従効が兵を挙げて賛堯を追い、泉州の裨将・董思安に漳州事を代行させた。唐主は思安を漳州刺史としたが、思安は父の名が章であるとして辞退し、唐主は漳州を南州と改め、思安と留従効に州の兵を率いさせて福州攻めに合流させた。庚辰、包囲した。
- 福州の使者が銭塘に至り、呉越王弘佐が諸将を集めて議すると、皆「道は険しく遠く、救いがたい」と言った。ただ内都監使の水丘昭券(臨安の人)だけが救うべきだとした。弘佐は「唇亡べば歯寒し。私は天下の元帥でありながら隣道も救えぬなら、何の役に立つのか。諸君はただ飽食して安座することだけが楽しみか」と言った。
- 壬午、統軍使の張筠と趙承泰に三万を率いさせ水陸から福州を救わせた。これに先立ち、募兵に長く応じる者がなかったが、弘佐は「摘発されて兵となった者は糧と賜与を半減する」と告げさせ、翌日には応募者が雲のように集まった。
- 弘佐は昭券に用兵を専管させたが、昭券は程昭悦を憚って用兵の事を譲った。弘佐は昭悦に応援と輸送を掌らせ、軍謀は元徳昭に委ねた。徳昭は元仔倡の子である。
- 弘佐が鉄銭を鋳造して将士の禄賜を増やすことを議すると、弟で牙内都虞候の弘億が諫めた。「鉄銭には八つの害があります。新銭が行われれば旧銭は皆隣国へ流れるのが一。わが国で使えても他国で使えず、商賈は往来せず百貨は流通しないのが二。銅の禁が厳しくても民はなお盗鋳します。まして家に鍋があり野に犂があれば犯法者は必ず多くなるのが三。閩の人が鉄銭を鋳造して乱亡した。法とするに足りぬのが四。国用が幸い豊かなのに、自ら窮乏を示すのが五。禄賜には定めがあるのに理由なく増やせば飽くなき心を開くのが六。法を変えれば弊はにわかに戻せぬのが七。銭はわが国姓です。これを易えるのは不祥なのが八」。弘佐はそこで取りやめた。
- 十一月己酉、呉越の兵が福州に至り、浦から南へ密かに州城に入った。唐の兵が東武門を押さえて進むと、李達は呉越の兵とともに防いだが不利で、以後、内外は遮断されて城中はいよいよ危うくなった。
- 唐主は信州刺史の王建封を福州攻めの助勢に送った。当時、王崇文が元帥でありながら陳覚・馮延魯・魏岑が競って実権を握り、留従効と王建封は強情で命に従わず、それぞれ功を争って進退が呼応しない。これで将士は皆意欲を失い、攻城は成功しなかった。
- 唐主は江州観察使の杜昌業を吏部尚書・判省事とした。これに先立ち、昌業は兵部尚書・判省事から江州へ出ていたが、帰って簿籍を閲すると案を撫して嘆じ、「数年たたぬうちに府庫の半ばが失われた。長続きしようか」と言った。
- 後漢高祖天福十二年春三月、呉越が再び水軍を発し、将の余安に率いさせて海路から福州を救わせた。己亥、白蝦浦に至ったが、海岸は泥濘で竹の簀を敷かねば進めない。唐の諸軍で城南にあった者が集まって射かけ、簀を敷けなかった。
- 馮延魯は「城が降らぬのはこの救援を恃むからだ。今、対峙して戦わねば徒にわが師を疲れさせるだけ。上陸させて皆殺しにすれば、城は攻めずして降る」と言った。裨将の孟堅は「浙の兵はここに来て久しく、進退できず、一戦して死ぬことすら叶わずにいる。上陸を許せば必ず死力を尽くしてかかってくる。その鋒は当たれません。どうして皆殺しにできましょう」と言ったが、延魯は聞かず「私が自ら撃つ」と言った。
- 呉越の兵は上陸すると大声を上げて奮撃し、延魯は防げず衆を棄てて逃げ、孟堅は戦死した。呉越の兵が勝ちに乗じて進み、城中の兵も出て挟撃し、唐の兵は大破された。唐の城南の諸軍は皆逃げ、呉越の兵が追ったが、王崇文が牙兵三百で防ぎ、諸軍が崇文の後ろに陣したので、追う者は引き返した。
- ある者が「浙の兵は福州を棄てて李達の衆を連れて銭塘へ帰るつもりだ」と言った。東南の守将・劉洪進らが王建封に「彼らをすべて出させてから城を取りましょう」と申し出た。留従効は福州の平定を望まず、建封も陳覚らの専横に憤っていたので、「わが軍は敗れた。どうして人と城を争えるか」と言い、その夕、営を焼いて逃げた。城北の諸軍も顔を見合わせて潰えた。馮延魯は佩刀を引いて自刺したが腹心の吏が救って死ななかった。
- 唐の兵の死者は二万余人、棄てた軍資と器械は数十万に上り、府庫はこれで尽きた。余安が兵を率いて福州に入り、李達はその部下をすべて委ねた。
- 留従効は兵を率いて泉州へ帰り、唐の戍将に「泉州は福州と代々の仇敵で、南は嶺海の瘴癘の郷に接し、地は険しく土は痩せております。近年、軍旅がたびたび起こって農桑は廃れ、冬に徴し夏に斂めてようやく自らを賄うありさま。どうして大軍を長く戍らせられましょう」と言い、酒を置いて餞した。戍将はやむなく兵を率いて帰り、唐主は抑えられず、従効に検校太傅を加えた。
- 張筠と余安はいずれも銭塘へ帰り、呉越王弘佐は東南安撫使の鮑修譲に兵を率いさせて福州を戍らせた。
- 唐主は詔を偽って軍を敗ったのはすべて陳覚と馮延魯の罪だとし、夏四月壬申、詔で諸将を赦し、二人を斬って内外に謝することを議した。
- 御史中丞の江文蔚が仗に対して馮延巳と魏岑を弾劾した。「陛下が即位して以来、信任されたのは延巳・延魯・岑・覚の四人だけです。皆陰険狡猾で権を弄び、聡明を塞ぎ、忠良を排斥し、小人を引き入れ、諫争する者は追われ、密かに議する者は刑せられ、上下は互いに欺き、道路は目で語るありさま。今、覚と延魯は罪に伏したものの、延巳と岑はなお在位しております。根本が絶えねば枝幹はまた生えます。同罪で誅を異にしては人心が疑惑いたします」。さらに「上の視聴はわずか数人に握られ、日々群臣に接しても結局は孤立されます」「外にある者は兵を握り、中にいる者は国を当たっております」「岑・覚・延魯は互いに背き合い、彼が前へ行けば我は退き、彼が東なら我は西。天が生じた五材は国の利器であるのに、一朝にして小人が忿り争って妄りに動かす道具となっております」「征討の権は岑にあり、簡単な書きつけ一つで帑蔵の出し入れが岑の一言で決まります」と述べた。
- 唐主は文蔚の言が行き過ぎだとして怒り、江州司士参軍に貶し、覚と延魯を械送して金陵に至らせた。宋斉丘はかつて覚を福州への使者に推したとして上表して罪を待った。詔で覚を蘄州、延魯を舒州へ流した。
- 知制誥の徐鉉(会稽の人)と史館修撰の韓熙載が上疏した。「覚と延魯の罪は誅しても足りません。ただ斉丘と延巳が取りなしたので陛下は赦されました。擅に兵を興した者が罪せられねば、辺境に事を起こす者が出ます。師を喪った者が生き延びれば、行陣に死力を尽くす者はいなくなります。公開の処刑を行って軍威を重からしめられたい」。従われなかった。中書侍郎・同平章事の馮延巳は罷めて太弟少保となり、魏岑は太子洗馬に貶された。韓熙載はたびたび宋斉丘の党与が必ず禍乱をなすと言い、斉丘は「熙載は酒を嗜んで猖狂です」と奏し、熙載は和州司士参軍に貶された。
- 秋七月、李達は弟の通に福州留後を掌らせ、自ら銭塘へ行って呉越王弘倧に会った。弘倧は制を承けて達に侍中を加え、名を孺贇と改めた。まもなく孺贇は悔いて恐れ、金の筍二十株と種々の宝を内牙統軍使の胡進思に贈って福州への帰還を求め、進思が取りなして弘倧は許した。
- 冬十二月、威武節度使の李孺贇は呉越の戍将・鮑修譲と折り合わず、修譲を襲って殺し、あらためて福州を挙げて唐に降ろうと謀った。修譲は察して兵を率いて府邸を攻め、この日、孺贇を殺してその一族を滅ぼした。
- 己酉、鮑修譲が李孺贇の首を銭塘へ届け、呉越王弘倧は丞相の呉程(山陰の人)に威武節度の事を掌らせた。
- この年、唐主は羽林大将軍の王延政を安化節度使・鄱陽王として饒州に鎮させた。